copy and destroy

catch and eat

すべて映画だし社会学だし文学なのかもしれない

僕が映画だと思っていたものは、もしかして社会学なのかもしれない。いや、社会学でもあるのかもしれない。それに、この 2 冊の本は文学でもあるのかもしれない。というか、なにもかもすべて映画だし社会学だし文学なのかもしれないし、

今、読んでいる「本を読む本」の中に「本を分類する」話がある。「現代の小説にはかなり社会学が入り込んでいるし、社会学の中にも虚構が入り込んでいる」と、

フィリップ・ロスの「ポートノイの不満」は小説なのか、精神分析の研究なのか。ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」は小説か、それとも麻薬の濫用を戒めるパンフレットで、かつて盛んにアルコールの害を説いて民衆の善導に努めた本と同じ性質のものなのか。「風と共に去りぬ」は物語か、それとも南北戦争当時、およびそれ以前の南部の歴史なのか。「怒りの葡萄」は、文学のジャンルなのか、それとも農民の生活についての社会学的研究だろうか。

言うまでもなくこれらは全部小説で、ベストセラー・リストのフィクションの部に納められている。しかし表題を見ただけでは果たして小説なのか、社会学の本なのかわからないものもある。現代の小説にはかなり社会学が入り込んでいるし、社会学の中にも虚構が入り込んでいる。だからこの二つを区分するのはなかなか難しい。

「社会学の中にも虚構が入り込んでいる」ってどういう意味なのだろうか。社会学とは。虚構とは。

もしかして、フィクションとノンフィクション、虚構と事実の話だったのかな。

点検読書(斥候としての読書)

「本を読む本」、読書の方法が載っていて、その中に三段階あるレベルの中間として「点検読書」っていうのがあげられていて、それが何かって言うと、いわゆる斥候(せっこう)としての読書のこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%A5%E5%80%99

斥候(せっこう patrol)または戦闘斥候(せんとうせっこう combat patrol)は、本隊の移動に先駆けてその前衛に配置され、進行方面の状況を偵察しつつ敵を警戒する任務をいう。
基本的に偵察、攻撃、追跡の三つの意味がある。偵察は地形や敵などに関する情報の収集活動であり、攻撃は敵部隊を撃滅するための作戦行動であり、追跡は後退する敵部隊に向かって移動することである。

偵察、攻撃、追跡。

つまり、斥候によって止めを刺す、ということもあり得るわけだ。

彼らは一列縦隊で進んだ。先頭を行くのは、利口で、優雅で、落ち着いた斥候たち。二人ともライフルを持っている。そのうしろを行くのは、不器用で、鈍重な対戦車砲兵。ドイツ兵を寄せつけまいと、片手にはコルト四五オートマチックを、もう一方の手には塹壕ナイフをにぎっている。

しんがりを受けもつのは、ビリー・ピルグリム。武器もなく、心うつろに死を待ちうけている。

斥候のひとりが頭をたれ、唇から唾をおとした。もうひとりもそれにならった。二人は、唾が雪と歴史の上に及ぼすかすかな効果を観察した。彼らは、つつましい優雅な人種であった。ドイツ陣営の後方に何回もはいった経験があり──森の生き物のように、恐怖だけを信頼し、大脳ではなく脊髄で思考しながら一瞬一瞬を生きてきた人種であった。

ページをめくる先頭を行くのは、利口で、優雅で、落ち着いた斥候たち。森の生き物のように、恐怖だけを信頼し、大脳ではなく脊髄で思考しながら一瞬一瞬を生きる。ページを進む。

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

  • 作者: J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山滋比古,槇未知子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/10/09
  • メディア: 文庫
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ショーペンハウエルが「読書について」で、「最良なのは読まないことだ」(ちょっと違うかもしれない)、って言っていた。昨年、100冊にちょっと足りないくらいの量の本を開いていて(いつもと比べると自分としてはとんでもなく多い)、そのうちの半分くらいは奥付けまで到達した。無残、取り残された半分のうち、斥候としての読書で救うことが出来たものが何冊あっただろう。

そして命からがら奥付けまで到達した半分のうち、どれだけのものが、斥候たちに止めを刺されただろう。

青年はウィーンを出るのだと堅く心に決めていた。産まれた街を捨てるのだと決めていた。それが青春ということのすべてだった。(傍観者の時代 - P・F・ドラッカー)

ドラッカーについてはいろいろなことが言われている。崇める人もおりけなす人もいる。私はこっそり言うのだが、そんなことはすっかり忘れてこの本を読んでごらんなさい。ドラッカーの経営学とかの知識はまるで要らない。しいていえば、晩年の禿爺さん写真も忘れて、30歳くらいの前世紀のオーストリア人青年を想定して読んだほうがよいと思う。

青年はウィーンを出るのだと堅く心に決めていた。産まれた街を捨てるのだと決めていた。それが青春ということのすべてだった。

ところでこうドラッカーが書くことで彼は何を告げているのだろうか。ドラッカーもフリーメーソンだっただろうか。たぶん違うのではないか。ただ、私はそのことを考えながら、ドラッカーは敬虔なカトリック教徒ではなかったかという思いがした。

宗教を信じるというのは、結局のところ、公衆でそう語るか、集団に所属するということに等しい。そして人の信仰というのはそれに従属するものだ。しかし、人には人生の経験から自然にと澱が溜まるような信仰というものがあるように思える。誰に言うまでもなく、どの集団に所属するまでもなく。自然に孤独になり、絶対者の前に立たされるような。そしてそうして立った人だけが見えるある種の友愛のようなものがあるようにも思える。

ドラッカーは自身をライターとして捉えていた。本書を読むとわかるが、ドラッカーは単純に天才であるし、正統の学者としても一流だった。しかし、彼は自分の信じるところが切りひらく世界を誤解を恐れずに進んでしまった。つまり、一流の学者とは見られなくてもいいやと割り切っていた。その割り切り方は、フロイトやカール・ポランニに接した経験の影響もあるかもしれない。

ドラッカー名著集12 傍観者の時代 (ドラッカー名著集 12)

ドラッカー名著集12 傍観者の時代 (ドラッカー名著集 12)

ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人[1]経営学者。

ピーター・ドラッカー(オーストリアのドイツ系ユダヤ人だが、先祖がオランダにいたセファルディムだった)

セファルディム(Sephardim, ספרדים)は、ディアスポラのユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリア、トルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した者を指す言葉。

セファルディムは、もうひとつの一大勢力であるアシュケナジムとともに、今日のユダヤ教徒社会の事実上の二大勢力であるとみなされている。

ディアスポラ(διασπορά、英:Diaspora, diaspora、ヘブライ語: גלות)とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。

多くの都市においてユダヤ人は自治組織(qehilla)を持ち、独自の宗教・文化を守って暮らしていた。古代以来、地中海世界でユダヤ人はギリシャ人と商業面で競合することが多く、迫害されることもあった。また、ローマ帝国においては、兵役に就かず唯一神以外礼拝しないユダヤ人は特異な存在と見なされることが多かった。

私は、祖先が一六世紀から一七世紀にかけて、オランダで宗教書の印刷業を営んでいたことは知っていた。

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皆が定期的に見てるWebサイト・メディア・雑誌って何?

mactkg.hateblo.jp

レガシーな男

まず前提について言っておくと、自分自身がレガシーな男である、ということ。ラガードともいう。

ラガード(Laggards:遅滞者):
最も保守的な人。流行や世の中の動きに関心が薄い。イノベーションが伝統になるまで採用しない。伝統主義者とも訳される。市場全体の16.0%。

本屋を読む

まずは、本屋。一つは、たいていは水曜日に寄り道する見渡せるくらいの大きさの本屋。リブロ系列。もう一つは、休みの日に出かけるシャッター街と揶揄されるアーケードの通りに奇跡的に残っている、まさに地元の本屋。こっちのほうがリブロ系列よりも断然小さい。背中が掻けるくらいの大きさ。

本屋、本を買うのだけが目的じゃなくて、平置きされている新刊とか陳列されている雑誌の下世話な特集とかそういうのを読みにいっている。リブロ系列の本屋の方は「いまどき」を読みにいっている感じで、地元の本屋は店長の選択を読みにいっている。

地元の本屋、そばのデパートにジュンク堂書店があるのであまり寄らなかったんだけど、考え方を改めて、定期的に行くようにしている。だんだん本の位置関係を覚えるようになってきたのでこれからが本番だと思う。帰りに、馴染みのコーヒーショップに寄るのが一番の楽しみだったり。

新聞をザッピングする

次が、新聞。新聞は地元の地方紙を定期購読している。特にどうということもないけど、地元のサッカークラブを応援しているということは、地元の新聞を読むということと等価なのである。地方クラブの情報は中央からはやって来ないから。

それから、書評欄が読みたいので日曜日だけは毎日新聞と朝日新聞を買っている。コンビニで。書評、買うためじゃなくて、買わないために読んでいるとも言える。ショーペンハウエルが「最良なのは読まないことだ」(ちょっと違うかもしれない)、って言っていたのでそのために。

あとは総務課員なので月曜日の日本経済新聞を買う。土日は市場が止まっているからトピックスが無いんだけど、月曜日の日経にはいろいろなまとめとか指標とか予定が載っているので。でも大抵は月曜日の帰りにコンビニで買う。だから一日遅れ。レガシーな男なので問題なし。

音響としてのラジオ

その次は、ラジオ。代表的なのは NHK の「ラジオ深夜便」。これはもう大抵は23時をまわるとラジオのスイッチをオンにする。環境音として聞いている。木曜日は NHK FM の「ザ・ソウルミュージック」。それから土曜日の朝は布団の中、ピーター・バラカンの「ウィークエンドサンシャイン」からスタートしてゴンチチの「世界の快適音楽セレクション」の中間あたりでようやく布団から這い出る。これも環境音として聞いている。内容は全然覚えていない。

最近 Radiko プレミアムを契約したので、なにか変わるかもしれない。

TV Bros の番組欄はオマケ

定期的に読む雑誌とかマンガは無くなってしまったんだけど、最近 TV Bros を買うようになった。あまりに今に疎いのでそのためのチャンネルを開こうと思った。軽さ的にちょうどよい。物理的にも内容的にも。いまのところキンドルとかそういうディジタルになっていないところがまた良い。一番大きいのは川勝サンのいた場所だったこと。いまさらだけど。

電波をパースしてそのまま深夜ドラマを視る

テレビはあんまり見ないんだけど、 TV Bros 買うようになって、深夜ドラマを見るようになった。金曜日深夜のテレビ東京。「バイプレイヤーズ」と「カンヌ映画祭」、松居大悟と山下敦弘&松江哲明。どっちも映画を撮っている人が監督。特に理由はない。面白いから。あと自由に見られる時間が深夜だけだから。つまりチャンネル権が無いから。それからなんとなく電波をパースしてそのまま画面に表示したい気持ち。ただたんに録画しちゃうと安心して見ないというのもある。

Web?

ウェッブ?

オーディナリーなメディア

ここに並べたそれぞれは、どちらかというと時代遅れな、ありきたりな、そんな感じのこと、もの、なんだけど。

誰かサンが教えてくれた「オーディナリー・ミュージック」っていうラジオの題名だったり、昨年末に誰かサンが教えてくれた「クワイエット・ストーム」という音楽の聴き方? だったり、外山滋比古サンの、作品は著者が作るんだけど、古典は読者が作り出すっていう話(まるでリブログの話みたいな)だったり、そんな風に(どんな風に?)、オーディナリーな、普通な、なんの変哲もない、ありきたりな、レイドバック風味な、好みのアイソレーションがかかった、なんとなく雰囲気があった、そんな何かがさらりと流れる、ちょっと違ったふうに見える、新しい切り口が見つかる、そんなやり方を見つけたい、発見したい、なんてことを考えていたり、いなかったり。

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ご存じのとおり、セキュリティ・安全性の基本原則は「原因の除去」 「耐性の強化」および「被害の局所化」である。 「原因の除去」と「耐性の強化」は当然の帰結として、端的にいえば 2. は 「インターネットがより分断される方向に進む」ということである。 これがより極端になると、いずれは世界のあらゆるところで中華ファイヤーウォールのようなものが 出現することになり、「誰でもサーバ1個動かせば世界中に情報発信できた」時代は 終わりをつげることになるだろう。つまりふたたび情報発信にコストがかかるようになるのだ。 その結果、情報を発信できるのはまたもや権力のある人だけに限定されることになる。 ある意味、この流れはじつは世の中の役人が望んでいることなのかもしれない。

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