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copy and destroy

catch and eat

言葉は「物質」だ

omoideinmyhead

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石の話とガリガリ君の話

そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。

その点ガリガリ君は最初から最後まで変わらない気持ちで食べられる。ガリガリ君は美味しいなあ、という気持ちが最初から最後まで僕の心のなかで均質に現れるのである。

僕が言いたいのはそこではない。一日のうちにものすごい量のどうしようもないことが世界の各地で起きている、のである。そして僕がいま食べている”この”ガリガリ君は、風邪を引いている僕にAがコンビニで買ってきてくれたガリガリ君なのである。ものすごい数のガリガリ君が、尋常じゃない量のストーリーのもとで食べられているのである。ガリガリ君に限ったことじゃないけれどもこういう変なスケールの話をするのは楽しい。それには何か意味があって芸術性が在るとかそういうことではない。どのガリガリ君がいいとか、間違ったガリガリ君だとか、ではない。目に見えないガリガリ君のことを考えるとものすごく孤独を感じるのと同時に、社会というものを身近に感じる。

すべて映画だし社会学だし文学なのかもしれない

#randomreading

僕が映画だと思っていたものは、もしかして社会学なのかもしれない。いや、社会学でもあるのかもしれない。それに、この 2 冊の本は文学でもあるのかもしれない。というか、なにもかもすべて映画だし社会学だし文学なのかもしれないし、

今、読んでいる「本を読む本」の中に「本を分類する」話がある。「現代の小説にはかなり社会学が入り込んでいるし、社会学の中にも虚構が入り込んでいる」と、

フィリップ・ロスの「ポートノイの不満」は小説なのか、精神分析の研究なのか。ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」は小説か、それとも麻薬の濫用を戒めるパンフレットで、かつて盛んにアルコールの害を説いて民衆の善導に努めた本と同じ性質のものなのか。「風と共に去りぬ」は物語か、それとも南北戦争当時、およびそれ以前の南部の歴史なのか。「怒りの葡萄」は、文学のジャンルなのか、それとも農民の生活についての社会学的研究だろうか。

言うまでもなくこれらは全部小説で、ベストセラー・リストのフィクションの部に納められている。しかし表題を見ただけでは果たして小説なのか、社会学の本なのかわからないものもある。現代の小説にはかなり社会学が入り込んでいるし、社会学の中にも虚構が入り込んでいる。だからこの二つを区分するのはなかなか難しい。

「社会学の中にも虚構が入り込んでいる」ってどういう意味なのだろうか。社会学とは。虚構とは。

もしかして、フィクションとノンフィクション、虚構と事実の話だったのかな。

点検読書(斥候としての読書)

#randomreading

「本を読む本」、読書の方法が載っていて、その中に三段階あるレベルの中間として「点検読書」っていうのがあげられていて、それが何かって言うと、いわゆる斥候(せっこう)としての読書のこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%A5%E5%80%99

斥候(せっこう patrol)または戦闘斥候(せんとうせっこう combat patrol)は、本隊の移動に先駆けてその前衛に配置され、進行方面の状況を偵察しつつ敵を警戒する任務をいう。
基本的に偵察、攻撃、追跡の三つの意味がある。偵察は地形や敵などに関する情報の収集活動であり、攻撃は敵部隊を撃滅するための作戦行動であり、追跡は後退する敵部隊に向かって移動することである。

偵察、攻撃、追跡。

つまり、斥候によって止めを刺す、ということもあり得るわけだ。

彼らは一列縦隊で進んだ。先頭を行くのは、利口で、優雅で、落ち着いた斥候たち。二人ともライフルを持っている。そのうしろを行くのは、不器用で、鈍重な対戦車砲兵。ドイツ兵を寄せつけまいと、片手にはコルト四五オートマチックを、もう一方の手には塹壕ナイフをにぎっている。

しんがりを受けもつのは、ビリー・ピルグリム。武器もなく、心うつろに死を待ちうけている。

斥候のひとりが頭をたれ、唇から唾をおとした。もうひとりもそれにならった。二人は、唾が雪と歴史の上に及ぼすかすかな効果を観察した。彼らは、つつましい優雅な人種であった。ドイツ陣営の後方に何回もはいった経験があり──森の生き物のように、恐怖だけを信頼し、大脳ではなく脊髄で思考しながら一瞬一瞬を生きてきた人種であった。

ページをめくる先頭を行くのは、利口で、優雅で、落ち着いた斥候たち。森の生き物のように、恐怖だけを信頼し、大脳ではなく脊髄で思考しながら一瞬一瞬を生きる。ページを進む。

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

  • 作者: J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン,外山滋比古,槇未知子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/10/09
  • メディア: 文庫
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ショーペンハウエルが「読書について」で、「最良なのは読まないことだ」(ちょっと違うかもしれない)、って言っていた。昨年、100冊にちょっと足りないくらいの量の本を開いていて(いつもと比べると自分としてはとんでもなく多い)、そのうちの半分くらいは奥付けまで到達した。無残、取り残された半分のうち、斥候としての読書で救うことが出来たものが何冊あっただろう。

そして命からがら奥付けまで到達した半分のうち、どれだけのものが、斥候たちに止めを刺されただろう。

青年はウィーンを出るのだと堅く心に決めていた。産まれた街を捨てるのだと決めていた。それが青春ということのすべてだった。(傍観者の時代 - P・F・ドラッカー)

#randomreading

ドラッカーについてはいろいろなことが言われている。崇める人もおりけなす人もいる。私はこっそり言うのだが、そんなことはすっかり忘れてこの本を読んでごらんなさい。ドラッカーの経営学とかの知識はまるで要らない。しいていえば、晩年の禿爺さん写真も忘れて、30歳くらいの前世紀のオーストリア人青年を想定して読んだほうがよいと思う。

青年はウィーンを出るのだと堅く心に決めていた。産まれた街を捨てるのだと決めていた。それが青春ということのすべてだった。

ところでこうドラッカーが書くことで彼は何を告げているのだろうか。ドラッカーもフリーメーソンだっただろうか。たぶん違うのではないか。ただ、私はそのことを考えながら、ドラッカーは敬虔なカトリック教徒ではなかったかという思いがした。

宗教を信じるというのは、結局のところ、公衆でそう語るか、集団に所属するということに等しい。そして人の信仰というのはそれに従属するものだ。しかし、人には人生の経験から自然にと澱が溜まるような信仰というものがあるように思える。誰に言うまでもなく、どの集団に所属するまでもなく。自然に孤独になり、絶対者の前に立たされるような。そしてそうして立った人だけが見えるある種の友愛のようなものがあるようにも思える。

ドラッカーは自身をライターとして捉えていた。本書を読むとわかるが、ドラッカーは単純に天才であるし、正統の学者としても一流だった。しかし、彼は自分の信じるところが切りひらく世界を誤解を恐れずに進んでしまった。つまり、一流の学者とは見られなくてもいいやと割り切っていた。その割り切り方は、フロイトやカール・ポランニに接した経験の影響もあるかもしれない。

ドラッカー名著集12 傍観者の時代 (ドラッカー名著集 12)

ドラッカー名著集12 傍観者の時代 (ドラッカー名著集 12)

ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人[1]経営学者。

ピーター・ドラッカー(オーストリアのドイツ系ユダヤ人だが、先祖がオランダにいたセファルディムだった)

セファルディム(Sephardim, ספרדים)は、ディアスポラのユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリア、トルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した者を指す言葉。

セファルディムは、もうひとつの一大勢力であるアシュケナジムとともに、今日のユダヤ教徒社会の事実上の二大勢力であるとみなされている。

ディアスポラ(διασπορά、英:Diaspora, diaspora、ヘブライ語: גלות)とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。

多くの都市においてユダヤ人は自治組織(qehilla)を持ち、独自の宗教・文化を守って暮らしていた。古代以来、地中海世界でユダヤ人はギリシャ人と商業面で競合することが多く、迫害されることもあった。また、ローマ帝国においては、兵役に就かず唯一神以外礼拝しないユダヤ人は特異な存在と見なされることが多かった。

私は、祖先が一六世紀から一七世紀にかけて、オランダで宗教書の印刷業を営んでいたことは知っていた。

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