copy and destroy

catch and eat

狂気とクリエイティヴィティは表裏一体

一昨日に放送が開始された「山田孝之のカンヌ映画祭」の音楽を担当しています。新曲「ランプトン」は編集が済んだ6話分のドラマを鑑賞して書きました。回が進むごとに味わい深く感じるはずです。凄く面白いドラマです。狂気とクリエイティヴィティは表裏一体、という事を改めて突きつけてくれます。

知識人ではなく、昭和の知的生物だとでも言うしかない。あるいは稀にみる政治的知的生物だったのか

 それにしてもいささか気味悪いのは、梅棹が他人の思想をほとんど引用していないということである。
 ひょっとするとちゃんと参照読書をしていないのではないのか、学術論文のルールをまったく無視しているのではないかと思えるほど、梅棹という人物は最初の『文明の生態史観』から『情報の文明学』にいたるまで、学術界や思想界のそれなりの成果の引用をまったくしない知識人なのだ。
 これは何だろうか。まことに奇っ怪なことである。知識人ではなく、昭和の知的生物だとでも言うしかない。あるいは稀にみる政治的知的生物だったのか。

その人と為りや、発憤して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ

葉公、孔子を子路に問う。子路、対えず。子曰く、女(汝)奚ぞ曰わざる、その人と為りや、発憤して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。(述而、一八)

この章の核心は子路が答えなかったという所にある。なぜ答えなかったか。率直で、一本気で、気の強い、そうしてきわめて良心的な子路は、相手をそらさずに婉曲に答えるなどということができなかったのである。ではなぜ婉曲に答える必要があったか。子路風に率直に答えたのでは葉公が孔子を理解し得ないということがあまりに明白だったからである。つまり葉公は賢者を尊敬することを知らない横柄な俗物であった。そこで孔子は、その事を聞いた時に、そういう人物に対する答え方を教えたのである。孔子が子路に物いう時には、半ばはなだめるような、半ばはからかうような態度を取るのであるが、この時の言葉にもその趣が感ぜられる。孔子が教えて言うには、お前はこう言えばよかった、あの人物は世の中のことで何か憤ることがあると食事さえ忘れてしまう。また愉快に感ずることがあるとケロリと憂いを忘れてしまう。そういう他愛のないことで年が寄るのさえも気づかないでいる。そういう人物に過ぎないのだ、と。これは道のために熱中する至純な心を裏から言ったものであるが、それによって横柄な俗物を高い所から見下したことにもなる。が同時に子路の率直で一本気な気質を、愛撫しつつからかっているのである。子路はもちろん孔子を心から尊敬しているから、孔子をこんなふうに言い貶すことには不服である。が、ちょうど自分の気質に当てつけたような言葉でこう言われると、笑って引っ込むほかはない。葉公に逢ったあとで「発憤して食を忘れ」るようになっていた子路は、ここで急に笑い出して「楽しみて以て憂いを忘れ」てしまう。まことに滋味津々たる師弟の描写である。が、それとともに葉公が描き貶されていることもまた著しい。

踊り字

踊り字、躍り字(おどりじ)は、主に日本語の表記で使用される約物(特殊記号)の一群で、々、ヽ、ゝなどがある。おどり、繰り返し符号(くりかえしふごう)、重ね字(かさねじ)、送り字(おくりじ)、揺すり字(ゆすりじ)、重字(じゅうじ)、重点(じゅうてん)、畳字(じょうじ)などとも呼ぶ。

論語、儒教、孔子(または、ここ半年の読書について)

f:id:taizooo:20170224001351j:plain

「論語」を読了した

2017/02/24 「論語」読了した。半年くらい掛かった。途中何回も止まった。

「論語」いろんな版があって、選んだのは加地伸行さんの講談社学術文庫のヤツだった。選んだ理由は「増補版 全訳注」ってサブタイトルがあって決定版的な響きだったのと、外見が分厚くて一番強そうだったから。

(加地 伸行サン、実は右派の論客である、というのもまた別の話)

なぜ「論語」を読もうと思ったのか

そもそも読み出したきっかけはもう本当に偶然というか気まぐれで、あれはたしか昨年の八月の終わりのことだった。本当はホッファーの「波止場日記」を買うつもりで書店に行ったのだった。そこで、「波止場日記」 → 「アフォリズム集」 → あ、モンテーニュの「エセー」! → うん? ちょっと待て → フランス? → というよりはアジアだろ! → なんかなかったっけ? → 論語? → 「論語」、というようなドラマがあった。なぜそんなことになってしまったのか。

(この日は買ったのは三冊。「論語」、マクニール「疫病と世界史」、ブコウスキー「死をポケットに入れて」と、まさにビッグウェーブ)

「論語」読んだの始めてだったけど、読み始めてすぐに気がついたことは、その書かれている内容が自分の中にすでに存在していることだった。日本に生まれて生活しているということは、当たり前として儒教を受容しているらしい。このことについては改めて掘り下げたい。

マクニールと孔子と渋沢栄一

昨年はまっていたのはマクニールで、「世界史講義」「疫病と世界史」「戦争の世界史」という順番で読んだ(有名な「世界史」はまだ読んだことがない)。マクニール、とにかくカッコイイ。で、「戦争の世界史」の中でキリスト教と資本主義の関係について触れているところがあって(ちょっと記憶があやふや)、その中でアジア圏(特に中国を指しているようだった)の後進性を指摘していた。その後進性を儒教と繋げて述べていた。その頃には、一応、渋沢栄一が「論語と算盤」というものを書いていることを知っていたので、マクニール、カッコイイんだけどちょっと「ナニクソ」(反骨心)と思って、読みかけの「論語」を放り出して「論語と算盤」を読んだ。キンドルだった。

孔子(儒教)は「利益を追うことを嫌っている、それは諸悪の根源だ。避けろ」という立場である、っていうのが常識らしくて、だとすると確かに資本主義とは相容れない(「論語」の中ではそんな感じ全然ないんだけど)。渋沢栄一は「イヤ、そうではないし、資本主義と儒教の道徳観は合致するのだ。なぜなら、」みたいなことを語っていた。残念ながら論語について直接、論じているところはあまり無かった(ような気がする。もうだいぶ忘れている)。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に撃沈する

で、マクニールが資本主義と宗教の関係について述べているのはどうも、マックス・ヴェーバーの著作が基本になっているらしい(このことは自分が知らないだけで、いわゆる"教養"に属する知識らしい)ので、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に手をつけた。キンドルだった。残念ながらこの頃は、キリスト教についても、ヨーロッパの思想史も哲学史も全然理解していなかったので、というか本当にごく基本的な、ギリシャ → ユダヤ → キリスト教 → ルネサンス → 宗教革命、フランス革命と近代哲学の発展、という流れも理解していなかったので、全然、歯が立たなかった。撃沈というやつ。

それだけの理由じゃないけどその後、十二月まるまる一ヶ月、読書が止まった(別の原因は reblog advent calend*e*r と呼ばれる)。

岩波ジュニア新書と白川 静

そして二〇一七年の始め、岩波ジュニア新書の「キリスト教入門」「哲学ってなんだ」「ヨーロッパ思想入門」と白川 静の「孔子伝」を手に入れて読書再開した。岩波ジュニア新書、これは鉱脈を掘り当てた感じ。白川 静サンはマクニールと同じくらい格好良くて、これもなかなかの発見だった。

白川静サン凄くって、何が凄いかって言うと、漢字の字形からその意味を明らかにしていくんところがあって、「巫・祝・史・事」っていう漢字、これらは孔子の出自に関わるものなんだけど、この字形から、古代中国の政治・宗教の形、儒教の源流までを一気に鮮やかに描き上げてるところ。その鮮やかさたるや、ちょっと凄い(ここの部分における凄さは、それが真理かどうかとは、ちょっと別の話)(歴史学における真理とは何なのか、真理というものがありえるのか、という問題もあるけど、それはまた別の話)。

「孔子伝」について

「孔子伝」、その最初で、粉飾されていない実在の孔子、つまり聖人ではない孔子、を捉えようとしていて、歴史的イエス研究での「ナザレのイエス」と同じところを出発点としている。「論語」ってまさしく「断片的なもの」で、それは、孔子自身が書いたわけではなく、後世になってから編纂され、しかも長い期間いろいろな人の手が入ったのが理由で、本当にとりとめがない。とりとめがないんだけど、「孔子伝」を読むとそのとりとめがない「論語」がみずみずしく見えるようになってくるから不思議。

孔子の弟子に、子路がいる。名だたる弟子達の中でどうもあまり尊敬されていない。いつも孔子から諭されてる。

孔子、政治的には不遇で流浪の生涯なんだけど、実は、子路、「武」と「狂」の人で、最後まで孔子に付き従った数人の弟子のうちの一人なのだった。それを知ってからはもう、論語の中で「由(子路のこと)や」って孔子が呼びかけてると、なんかニヤニヤしちゃってしょうがない。

「子曰く、由よ、得を知る者は鮮なし」
子路よ、道徳を理解している者は、少ないぞ(だから、ちゃんとしろよ)、みたいな。

子路、愛すべき男である。

このあと、なにを読むか

この流れで、思い浮かぶのは三つある。一つは論語をもう少し掘り下げること。 木村栄一「孔子と論語」(古書) で、どの章(子曰く、で始まる短文一つ一つのことをいう)が孔子自身の言葉で、どの章があとから差し込まれているのか、といった分析をしているらしい。そういう方向。もう一つは、諸子百家、孔子とそれ以外の人たち(老子、荘子、墨子、孟子、荀子)の関係や学派の関係を掘り下げること。この辺りは20世紀の終わりに竹簡が発見されていて、「孔子伝」の頃よりも(1970年代)新鮮な情報がある。そして最後の一つは、日本にどのように儒教が受容されてきたのかということ。たぶん仏教、神道、またはもっと昔、古事記とかそっちの方にまで遡ることになるんだろう。さてさて、どうするか。

ともだち0

いや、おれはいま「ともだちがいない!」ことにすばらしい自由を感じているのだ。そこにブコウスキーだ。すごく、いいじゃないか。

チャールズ・ブコウスキーがビート・ジェネレーションの一部のように言われることがときどきあって、どうも違和感があったんですが、それはつまり、ブコウスキーはともだち0、ビートはともだちたくさん集団、という違いが大きいと思うからです。

ブコウスキーの作品には案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない

石の話とガリガリ君の話

そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。

その点ガリガリ君は最初から最後まで変わらない気持ちで食べられる。ガリガリ君は美味しいなあ、という気持ちが最初から最後まで僕の心のなかで均質に現れるのである。

僕が言いたいのはそこではない。一日のうちにものすごい量のどうしようもないことが世界の各地で起きている、のである。そして僕がいま食べている”この”ガリガリ君は、風邪を引いている僕にAがコンビニで買ってきてくれたガリガリ君なのである。ものすごい数のガリガリ君が、尋常じゃない量のストーリーのもとで食べられているのである。ガリガリ君に限ったことじゃないけれどもこういう変なスケールの話をするのは楽しい。それには何か意味があって芸術性が在るとかそういうことではない。どのガリガリ君がいいとか、間違ったガリガリ君だとか、ではない。目に見えないガリガリ君のことを考えるとものすごく孤独を感じるのと同時に、社会というものを身近に感じる。

powered by hatena blog.
the nikki system for lifelogging junkies.

all posts © their original owners.
writing is reusable solely under the by creative commons license.