copy and destroy

catch and eat

Coffee, please.

喫茶アルプス

生まれてはじめての喫茶はなんだったろうか。それは、デパートのレストランで飲んだメロンソーダだったかもしれないし、銭湯帰りに買ってもらったコーヒー牛乳だったかもしれない。記憶に残る一番最初の喫茶店は、駅通りのケーキ屋さん二階の喫茶室だった。ケーキを食べたことは覚えているのだが、何を飲んだのかは覚えていない。

池田商店

その店は細い路地を隔てて、高校のすぐ真横にあった。フェンスの向こうの校舎のすぐそこには職員室があった。冗談みたいだが本当の話だ。放課後、まずたむろっているのは帰宅部の不良連中、その後は体育会系の連中が部活動が終わるたびに入れ替わっていく。たいていは一番最初が陸上部で一番最後がサッカー部だった。値段の割に量の多いチェリオ、どこのメーカーかわからないゼリーアイス、おばちゃんのおでんやカップヌードルでいつまでもたむろっていた。次の部活の連中に追い出されるまでは。時間は無限にあった。

すかいらーく

かつて "すかいらーく" というファミレスがあった。そこの駐車場は、笑っちゃうくらい狭い。ファミレスの下をくぐり抜けてその向こう側に駐車する。免許取り立てのヤツはまずそこで枠の中にクルマを納めることでいっぱしの大人になったことを証明しようとした。たいていは斜めだった。コーヒーなんていうものは美味しいから飲むものではなく、とにかく一番安くて一番長く暇を潰すことができるもの、そういうエコノミーの問題として存在した。ドリンクバー飲み放題、なんてものはまだ存在せず、ただひたすらかわいいバイトの女の子を何回もテーブルに呼ぶためにファミレスは存在した。時間は無限にあった(リプリーズ)。

スターバックス

初めてのスターバックスは、横浜中華街だった。はるばるやってきて、食事が終わって、あっという間に仲間とはぐれて一人ぼっちだった。緑色が目を引いた。入ったものの何を頼めばいいのかわからなかった。「エスプレッソひとつ」と言った。いっぱしの大人はエスプレッソを飲むのだ。「苦いですよ」と言われた。「ダブルで」と答えた。たしかにとても小さくて、ひたすら苦かった。いまではきらびやかな季節のメニューに惑わされずに迷うこと無く「本日のコーヒーひとつ、ホイップで」と言えるようになった。それがいっぱしの大人ってものだ。

カフェ・ロッシュ

ロッシュ、奥まったところにある。比喩的にではなく本当に奥にある。洞窟に潜り込むような感じ。本物のネルでドリップしたコーヒーだ。いっぱしの大人はネルでドリップしたコーヒーを飲むのだ。かつて、実際のところ、コーヒーは全然得意ではなかった。ファミレスでひと晩中コーヒーを飲んでは、結局、次の日には胃がムカムカしていた。ちょっと背伸びしてもロッシュではカフェオレだった。ひさびさに行った。やっとコーヒーが飲めるようになった。いっぱしの大人になったことを証明した。ケーキとコーヒーを頼むと、ファミレスではコーヒーが割引になるけれども、ここではケーキが割引になる。主客転倒。世界の基準、宇宙の秩序が、カン、っと音を立てて入れ替わる。

寺崎コーヒー

甲府、喫茶店が山ほどある。街のサイズからいえばなかなかだ。地方都市の例に漏れず、中心街は郊外のショッピングモール群にやられてボロボロだ。そんななかでもいくつかの新しさが始まっている。そのうちの一つがこのコーヒーショップだ。実はこの店で一番最初に買ったのはコーヒーではなくてコーヒーチケットだった。そのころはオレンジ色の10枚つづりのコーヒーチケットがあった。壁に止められていたコーヒーチケットが眩しく光っていた。ちょうどプレゼントを探していたときだった。それから何年もたった。今も店は続いている。

呪いのようなものだ

好きってことは呪いのようなものだ

僕らは2週間に一度、ミサに行くようなもんだとおもうよ。勝ったとか負けたとか、そんなことより、

「茶断ち」というものがある。願いが叶うことを祈ってお茶を断つ、というものだ。コーヒーは呪いのようなものだ。それはマジナイでもありノロイでもある。2009年、2010年、2014年、2016年、そして2017年、甲府という小さなサッカークラブの昇格や残留を願ってあるときは一ヶ月、またあるときは二ヶ月とコーヒーを断った。時間は無限に感じられた。何回もの禁コーヒーをくぐり抜けて今も生きている。胃をムカムカさせていたコーヒーは、いまや、かけがいのないものになった。それがいっぱしの大人ってものだ。


この post は 喫茶好きゆる Advent Calendar 2018 第7日目の記事として書かれました。1日目は trss サン、そして8日目は hysysk サンです。お楽しみに。

今週末の良かったこと

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アドベントカレンダーの話。

インターネット、年末の風物詩、アドベントカレンダーが始まった。reblog advent calend*e*r 2010 からなので9年目になる。RAC は止まってしまったけども(いつかまたやりたいと思っているけども)、途中から分岐したベスト・オブ・ザ・イヤーなアドベントカレンダーは続いている。厳密にいうと今回が4回目。自分は主催する側の人間なので、それぞれの人達がどんな気持ちで、参加したりしなかったり、見たり見なかったりしているのかはわからないけども、自分が考えるアドベントカレンダーは、こんなものです。

https://gyazo.com/4ebd2b5c3b7ff89eb764fb6f85166ec5/thumb/1000
「四隅に細い杭を立てて、そこに縄を張る。すると空っぽのユニットができあがるわけですね。空っぽというのは満たされる「可能性」があるわけですから、神様はそれを見つけて、ふらりと入るかもしれない

https://gyazo.com/c2b6adc99c6b2a4ba2f5abaa156cd9fc/thumb/1000
「屋根付きのエンプティを「屋代」と言います。これを垣で囲うと神社の基本ができる。何もないところに神様が入るかもしれないという、可能性がそのまま構造化された


書けなかった話。

アドベントカレンダー、決めていることがあって、それは自分が主催者なので、必ず一番最初は自分が post するということ。今回、全然書けなくてヤバかった。内容を考え始めたのが11/27。三年日記によると2017年も2016年もだいたい同じで、この日から書き始めていた。最初にガーッと大雑把になにかを貼っていってだいたい形が見えてきたところで、なんか、ピンと来なくてそのまま一晩置いておくことにした。翌日見直したけどもどう見ても一度書いたことがあることばかりだった。この「今週末の良かったこと」で書いているものだった。じゃあ、ってんで引用に置き換えていったら、コピペしたものを並び替えているだけになった。Ctrl-A して Delete した。 途方に暮れた。そしていよいよ11/30金曜日、そろそろやるかと PC と向き合うもののテキストエリアに書かれたのはただの三行。ちょうどいい具合に金曜夜の映画で「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」をやっていてゲラゲラ笑いながら見ていたらあっという間に深夜0時。で、



循環の話。







スローターハウス5の「そういうものだ」は、「2017年を探す」のとても大事なキーワードだったのと、あの記事はちょっと老害入っているかという気持ちがあったのと、それに対しての「ダンシング・ヒーロー」の話だったから。忘却と再生。循環の話。


サッカーの話。


twitter.com

2018年を探す


三年日記

三年日記、この12月でちょうど3年分になる。2016/01/01から2018/12/31まで。1ページに2日分が縦に3年分で横罫の日記を90度回して縦書きにして使っている。なぜ縦書きにしたのかというと、ちょうどその頃、 web の文章、例えば先見日記とかを bookmarklet で縦書きに変換して読むのが気に入っていたから。縦書きの横スクロールというのはこれはこれで素晴らしいインターフェイスだと思う。

最初のうちは箇条書きみたいな感じだったけど、しばらくすると散文になった。横書きだと箇条書き、自然な感じなんだけど縦書きだとしっくりこなかった。あと手書きだと文章を考えるスピードより文字を書くスピードの方が遅いせいなのか「てにをは」で言葉を繋いでいくほうが自然な感じになった。いまでは文章を書くというのは言葉と言葉を「てにをは」でリンクしていく作業なんだ理解するようになった。手書きで書くようになって新鮮だったのは文字の横棒が一本足りなかったり点が一つ少なかったり、一画二画足りなくても全然問題が無いということだった。

手書きで文字を書くようになって辞書を引くようになった。それでも画数の多い漢字はスピードが足りなくて、一画二画省略するのでは足りなく、カタカナを使うことが多くなった。明治の人たちが英語に漢字を当てたことと、万葉の女性たちがひらがなで日記を書いたこと。日記を書くというのは別に狂った女性たちだけの特権ではない。

三年日記、2016年、最初の一年は読み返さなかった。読み直すことは全然期待していなかった。どちらかというと書くことでその日のことを一旦お終いにしてすっかり忘れてしまう、ということの方が大事だった。三年日記が大きく意味を変え始めたのは二年目、2017年に入ってからだった。隣りに一年前の日記が残っている。一年というのは大したもんで大抵のことはすでに忘れている。どんなに楽しかったことやどんなに面倒くさかったことがあってもどれも大した意味がなかったように見える。さて2018年、今年、三年目に入るとまた違う景色が見えてくる。意外なことになぜか同じようなことを同じような時期に繰り返し行い、同じような時期に同じような感情を抱いたりしていることがわかる。人というのは季節、月日に大きく影響を受けていて感情というのはかなり固定的だ。

三年日記に書かれることは毎日毎日だいたい同じことだ。仕事をした。なにを食べた。腰が痛い。何をしたかが書かれる。何を思ったかが書かれることはほとんどない。ただ書かれている出来事の日々の並びからなんとなくその頃の記憶が思い出されて、その頃の感情が蘇ったりする。感情というか雰囲気。気分。

今年の夏、トランス・ジャパン・アルプス・レースが開催された。日本海から太平洋まで400km以上を8日間で縦断するというものだ。盆休みの最後、8日目、制限時間が迫る夜中、選手たちが南アルプスを下って太平洋を目指す姿を追った。スマートフォンの小さな画面の中を移動する小さな点々。twitter を流れるノイズだらけのハッシュタグと Facebook に投稿される断片的な写真と数十分おきに更新される GPS の軌跡。0時が迫る頃トラフィックはあふれ GPS のページは表示されなくなった。自分も含めて人というのはこれだけの限定的な情報でも感動したり共感したり出来るのだなと思った。GPS の点々と日記に繰り返し書かれる代わり映えしない言葉。

三年日記、木曜日には決まってかかれる言葉がある。「木曜日なので、夜、実家で食事」。三年間なので約150回の「木曜日なので」が並んでいる。10年ほど前、オヤジが亡くなってからのことだ。それからオフクロは一人で生活している。10年、500回の「木曜日なので」。木曜日の夜、会社帰りコンビニで食事を買い実家で食べ、別になにを話すわけでもなくテレビを見て、そして帰る。日記にはそれ以外のことは書かれなかった。何を食べたか、何を話したか、何のテレビを見たか、どんな表情だったか。全ては余白に隠れている。今年の11月の木曜日が最後の「木曜日なので」になった。なにも残らなかった。しかし確かにその時間はあった。それだけは確かだ。そういうものだ。

「今週末の良かったこと」

さて、わたしたちは残念ながら毎日の中でその日に起きた事柄や湧き上がった感情や考えたことのどれがその後重要な鍵になるか見極めることは不可能だ。例えるなら真冬から少しだけ春に近づいた日々に木々の色合いがわずかに変化する様子をその日一日だけで見極めることが出来ないということ。数ヶ月の後に見比べたなら明らかに季節の変化は木々の色を変えるけども毎日の中でそれを知るのは困難だ。小学生のころアサガオの絵日記の宿題があった。毎日その様子を絵に描くのだが、毎日にそんなに変化はない。子供心にもそれだと面白くないと思ったのか少しずつデフォルメして描いていた。気がついたときには実際のアサガオより絵日記のアサガオの方が大きく成長した。そういうものだ。

おくのほそ道、松尾芭蕉に同行した曽良の日記が残っている。曽良随行日記と呼ばれている。書かれているのはどこそこの誰々とあった、何を食べた、どこそこの角を曲がりどこそこから何里の進んだ、というものだ。そこにはなにも面白いことはない。普通に日記を書くということはそういうことになるのだろう。自分自身の三年日記を読んでいるように感じた。正岡子規の仰臥漫録や夏目漱石の修善寺日記などというのはごく普通のわれわれには書けない。百代の過客でキーンは大抵の日記は実に退屈で面白い日記はだいたいにおいて書き直されている。脚色されていると言っていた。

「今週末の良かったこと」、2015年6月から始まった。もともとは cut_c サンの「今日の良かったこと」「今日の悪かったこと」の真似だった。大抵のものはみんな誰かから盗んだものだ。毎日は無理だな、というのと、悪かったことは考えたくないな、という単純な理由だった。一番最初は twitter に書いていた。だから箇条書きな感じに三行くらいだった。コーヒーのフレーバーみたいに「甲府勝利」とか「さんぷくのつけそば」とか「寺崎コーヒー」とかただ単純になにかが並んでいた。2016年からは tumblr の text post になった。書かれている内容はそんなに変わらなかった。不思議なもんで書いているうちにただ単語の羅列だったものがだんだん文章になってくる。文章の長さは気まぐれに長くなったり縮んだりを繰り返しながら徐々に散文になっていった。

「今週末の良かったこと」、最初は本当にその週末の出来事、事柄、雰囲気を書いていたけど、だんだんその週のまとめを書くようになる。書かれるのは読書のこと、音楽のこと、サッカーのこと、コーヒーのこと。走ること。だいたいそんな感じ。なんでも書けるわけではない。所詮、文章などというものは文章として書けるようなものしか書かれない。書かれるものよりも書かれないものの方が遥かに多い。

「今週末の良かったこと」が散文形式になっていくところは、たぶん先見日記の影響を受けている。先見日記は世のひとかどと呼ばれるような人たちが2002年から2008年まで交代交代に毎週毎週書き続けたもの。自分が先見日記を発見するのは2015年1月のことで、発見したからには掘るんだろうな、という言葉を残した通り、それから1年と数ヶ月をかけて延々と読み続け延々とリブログし続けた。先見日記はブログ以前の出来事なのでその形、書かれている内容、雰囲気が新鮮だった。先見日記以降、いろいろな日記を読むようになった。

「ベスト・オブ・ザ・イヤー」

「今週末の良かったこと」、本当はポップ中毒者の手記になりたかったのだと思う。でも無理だった。ポップ中毒者の姿勢とかその行動はマジアレさんに教わったことでもあった。でも自分はポップ探求者ではなかった。ポップ中毒者が時代の先っぽで轟々と流れている時間に立ち向かって髪の毛をボッサボサにしながら真っ赤に染まった目をカッと見開いて仁王立ちにしている感じには憧れるけども、自分はどうかんがえても墓掘りであり時間の洞窟を地下深く潜っていく方の人間だった。そのことに気がつかされたのは 「ベスト・オブ・ザ・イヤー」アドベントカレンダーだった。

「ベスト・オブ・ザ・イヤー」、高らかに「今年こそはきっと私もカッコイイ幕引きが待っているに違いない。」と宣言したものの、実際のところカッコよさとは一年をどういう言葉で綴るのかではなく、一年をどういう姿勢で過ごすのか、という話だった。自分の持っている姿勢、フォルムはポップではなかったし、別にポップである必要なんて全然なかった。

「ベスト・オブ・ザ・イヤー」で自分が書いているものは2013年の「 tumblr 創世記」の形が元になっている。その初期衝動は2007年からずっとあった。インターネットを再発見したのが2007年の tumblr だった。そのとき感じたこの世界、インターネット、未来はすでに過去になってしまっている。わたしたちは未来を生きている。この10年はだれかが見たかった未来でもあり、だれかが知りたかった過去でもある。だれでもなくわたしたち一人ひとりが過去と未来をリンクするこの一点に立っている。その両方を繋ぐのは自分だけにしか出来ない。だれも書かないのであれば自分が書くしかない。だから2017年の「ベスト・オブ・ザ・イヤー」が全然2017年のベストについてではなくこの10年のインターネットのアイコンである tombloo について書かれたのは自分にとっては自然なことだった。

2018年、「今週末の良かったこと」をそれまでの tumblr からはてなブログに移した。「ベスト・オブ・ザ・イヤー」と同じ形で毎週毎週、書こうと思った。とにかく必ず月曜日に post すると決めた。書ける範囲で精一杯書く。書けないときはとにかく何かを貼る。とにかく続ける。そういうことを考えていた。結果何が起こったというと今回の「ベスト・オブ・ザ・イヤー」で書くことが無くなった。何回何回もこねくり回したが結局、一度書いたことがあることの再生産になってしまった。全然面白くなかった。一年の変化の中からは認知出来ないことを書こうと思った。

三年日記、「今週末の良かったこと」、「ベスト・オブ・ザ・イヤー」という3つの日記、記録からこぼれ落ちるものってなんだろうか、と考えていた。インターネットの10年間で理解したことの一つは AutoPagerize で、それは時間軸を移動すること。認知の範囲には限界の底( dsbd の底)があって、でも実際にはその底の向こう側にも世界が広がっていること。もう一つは Powers of Ten で空間のスケールを変化させること。いくつもの階層が折り畳まっていることと、その外側には別に龍は住んでいないこと恐れることはないこと。

2018年12月の時点で過去を振り返ったときにその方向から見たときには見えなくなることがある。今、結果的に残ったものしか見ることが出来ない。生き残った、三年日記、「今週末の良かったこと」、「ベスト・オブ・ザ・イヤー」以外のものは消え去っている。それは読書の記録だったり「管制塔ノート」だったり「能率手帳」だったり積読のままの本だったり wishlist に残ったままの CD だったり禁コーヒーの話だったり見に行けなかったサッカーの試合だったり。生物の進化において系統樹は生き残った種の枝しか描かれない。あったかもしれない現在や未来の枝は存在しない。それは余白になる。だから自分自身の視点を過去のある位置まで移動させてそこから未来の方を見ないとならない。あったかもしれない未来を知るにはそれしか方法がない。

自分自身のタイムラインを AutoPagerize することはあまり考えたことがなかった。実際にその過程で見たこと感じたことのうち文章に出来ることはほんのわずかでしかない。そして書かれなかったことはまたきっとあっという間に忘れてしまうだろう。それだけじゃなくて書かれたことも忘れ去られてしまう。書くことにはそういうところがある。書いて忘れる。忘れることで先に進む。わたしたちは毎晩毎晩ゆっくりと死んでいて、毎朝毎朝ゆっくりと生まれ直している。そういうものだ。さあ、そろそろ時間です。

では、ボタンを押して、ハイ、おしまい。


この post は 2018 Advent Calendar 2018 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は youkoseki サンです。お楽しみに。

今週末の良かったこと

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今週末の良かったこと


「然り」「否」の話

「あなたがたは『然り、然り、』『否、否、』と言いなさい。それ以上のことは悪い者から出るのである」( via マタイによる福音書 5章37節)

過去の tweet を "マタイ" という語で漁ると、この tweet が一番最初だった。2016年1月、グリックの分厚い「インフォーメーション」を読んでいた。おそらく「然り」と「否」は bit の "0" と "1" を暗喩している。

マタイ受難曲の話

そんなこととは全然関係なく、バッハのマタイ受難曲、聴いている。

聴いているといっても全部通すと3時間くらいかかる。そう簡単には聴けない。さらにマタイ受難曲は、いろんなオーケストラが演奏している。ということで、マタイ受難曲、1曲目の合唱だけ片っ端からいろんな演奏をとっかえひっかえ聴いてる。

一曲目だけでも、オーケストラによって時間が全然違う。長くて11分、短くて6分。同じ曲がそんなに違う。オットー・クレンペラーとかウィレム・メンゲルベルクのマタイ受難曲はまさに自分が思うオーケストラって感じで凄く壮大で緩やか。で、ジョン・エリオット・ガーディナーとかポール・マクリーシュのマタイ受難曲はスピーディーで軽やか。メンゲルベルクとクレンペラーのあとに聴くとダンス・ミュージックといえなくもないくらい違う。

「忘却」と「再生」の話

ここで話を一気に端折る。バロック時代の演奏法はそれ以降の音楽の進化(古典主義、モダン主義、20世紀の音楽へ)の中でロスト・テクノロジーになっていた。20世紀の最後の30年、そのロスト・テクノロジーの探求がなされた。そして、この軽やかでスピーディーな演奏が再発見されたと。それは「古楽奏法」「ピリオド奏法」と呼ばれた。ということらしい。

この「忘却」と「再生」というループは、歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

サッカーの話

2018年 J2 リーグ 最終戦 小瀬 甲府 vs 横浜FC 0対1 敗戦。

訳あって、行けなそうな感じだったけど、訳あって、行けた。勝敗はともかく、ちゃんと現地で今シーズンを終わらせることが出来た。
甲府、まだ天皇杯、準々決勝が残っている。11/21 小瀬 甲府 vs 鹿島。J2 9位のクラブがアジア王者を倒したっていいんだ。訳あって、行けなそうなので、鹿島ぶっ倒して、浦和ぶっ飛ばして、決勝まで行ってほしい。

今週末の良かったこと

ゴルトベルク変奏曲の話。

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菊地成孔は、平均律クラヴィーア曲集をスタンダードとして選んでいたけども、ファンクを掘った経験から言うととにかく一番古いヤツから遡るのが基本なのでグレン・グールドの一番古そうなヤツを選んだ。それがバッハのゴルトベルク変奏曲だった。1955年の録音。モノラル。

ゴルトベルク変奏曲、もともとはチェンバロのために作曲されたらしいので、手当たり次第に他の演奏も聴いた。ワンダ・ランドフスカ、タカエ・オオニシ、エディット・ピヒト=アクセンフェルト。

ゴルトベルク変奏曲、チェンバロの演奏で聴いて、ほほう、とか言ってる(全然わかってない)

楽器の違いもあるけど、ワンダ・ランドフスカとタカエ・オオニシだとこれがまた全然違う

グレン・グールド自身もデビューの頃と、亡くなる直前くらいの別々にゴルトベルク変奏曲を録っている。

グレン・グールドのゴルトベルク変奏曲、1955と1981だとこれ全然違う。面白い

1981みたいに誰も弾いてない。チェンバロから一番遠くて、ビアノに極端に近い

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#BACHstudy の話(#FUNKstudy の話)。

ファンクは #FUNKstudy というタギングで記録してきた。バッハは #BACHstudy で記録する。
音楽(いわゆるポップ・ミュージック)を、"ファンク" or "ファンク以外のなにか"、で分けて聴いてきた。クラシカル・ミュージックは "バッハ" or "バッハ以外のなにか" で分けて聴く。

音楽がサブスクリプションの時代になって、持たざる者であっても月々980円で世界中の音楽に触れることが出来るようになった。出来るようになったけども、人間というのはそんなに自由ではなくて、知らない音楽を好き勝手に聴けるように耳も脳も出来ていないらしい。方法は一つしかなくて、とにかく聴くこと。聴き続けること。

バッハずっと聴いていたら、とうとうメロディーが頭の中で勝手に鳴るようになってきた。特定の一曲のモチーフだけだけど

それがゴルトベルク変奏曲の最初の曲。


迷路の話(もしくは、脱線とか誤読とか妄想の話)。

短時間で「効率的」に身につけるとか理解するとか成果を上げるとかそういうの多いけども、迷路の壁に沿って歩けば必ず外に出られる、みたいな、一番ヒマなヤツが事を成し遂げる、みたいなやり方が好き。#FUNKstudy とか #BACHstudy とかリブログがそれ。

最終的には、迷路から脱出するというゴールがどうでも良くなって、いかにカッコイイラインを迷路の中に描くのか、みたいな感じになるというのが理想的。とにかく、いかに迷路に長くとどまることが重要で、脱線とか誤読とか妄想とかそういうエラーが起きる可能性が高まることに意味がある。

とにかく自分が思いもよらないような場所へ行くための方法。


グレン・グールドの話(もしくはカット・アンド・ペーストの話)。

若い頃からライブよりレコーディング好きで、アナログ録音も切り貼りしてたようです。

あーアナログのときすでに、テープを切り貼りしてたんですねー。エディットだ!

そうそう。カットアンドペースト。

おー、カット・アンド・ペースト!!

ヤバイ、俄然、グールド、同じ仲間に感じてキタ。われわれと

新しいメディアたる録音は、聴衆を音楽に関与させる力を持ち、両者の平等な関係を回復させるという。録音には、自身の満足できる芸術を創ることができるという長所も見出したグールドは、自身が気に入るテイクを得られるまで何度でも録音をし直し、気に入ったテイク同士を自身で接続したこともあったと語っている。グールドは、録音を映画に喩え、テイクを切り貼りするのは、より良い作品を創るための正当な行為と捉えていた。


サッカーの話。

山口方面の空に、ありったけの念を送っておく。

あー、今シーズンが終わってしまうー

しょうがない、訳あって今年はまだまだ物足りないので、アジア王者でもぶっ飛ばすかー

リーグ戦は残り一試合。そしてその後、 ACL を制覇した鹿島を小瀬に迎える天皇杯準々決勝。別に J2 のクラブがアジア王者をぶっ飛ばしても全然法律には抵触しないし世界は逆さにもならない。やってやれ(やってやる)。

今週末の良かったこと

平均律クラヴィーア曲集の話。

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やっぱりバッハがいいかな。グレン・グールが弾く『平均律クラヴィーア曲集』の第1巻と第2巻。

バッハが、「平均律」という、僕らが今使っている音階。1オクターブを12分割にしたものがまだなかった時代に、それを想定して作った曲集です。現在の「調性音楽」つまり、無調のノイズ音楽や、様々なサンプルネタをレイヤーしていくヒップホップとは違って、ちゃんとキーのある音楽の 「あけぼの」なんです。

それを、ピアノの名手であるグールドが弾いている。


クラシックの話。

「音楽それ自体は、理解するための二つの耳と脳さえあればよい

(via ギャレス・マローン)

ここ何年かファンク掘っていて(2014年からか)、

このスタイルでひょっとしてクラシックもいけるかも、なんて思ってしまったというのが始まり。さて、どうなるか。


本の話。

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訳あってちょっと込み入った感じだったけども、ちょっとだけ一息ついた。で、なにをしたのかというと本を買った。

昨年は、この時期、ギックリ腰だった。で、なにをしたのかというとやっぱり本を買っていた。

読書、10月の始めに捻挫してやっと治ったところで11月の始めにギックリ腰やらかして、ヤケになって読書が再開された。なにがきっかけになるかわからない。ラス・ロバーツの「スミス先生の道徳の授業」がとても良くて、いよいよアダム・スミスの「道徳感情論」に手を出した。700ページもある大著で読むのが遅いので普通に考えると半年くらい掛かると思われる。半年先まで生きる目標が出来た。

半年先まで生きる目標が出来た。


サッカーの話。

訳あってちょっと込み入った感じだったので、全然見れていない。そういうときもある。省略。

今週末の良かったこと

衣替えについて。

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訳あって、超高速で衣替えした。15分くらいで終わった。ここ最近、着るものはかなり取捨選択していて一年通して着るモノ、夏のモノ、冬のモノ、とても単純になっている。整理したというよりは片っ端から捨てている。最低限2枚を洗濯して着回せるとすれば、本当に少ない服だけで生きていける。単純。


ランニング、冬の装いについて。

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  1. 地面に霜がおりはじめるまでパンツは使用しないこと
  2. 実際より11℃高い(歩いているときではなく、走り出してから10分後の体感温度)気温を想定してウェアを選ぶこと
  3. トップのレイヤーは2枚、ボトムのレイヤーは1枚。保温レベルの調整は気温と、自身が走るときに暑くなりやすいか寒くなりやすいかの傾向に合わせること

via パタゴニア 2018 Fall / Winter カタログ

朝が苦手なので、走るのは昼間。10月末現在、日中の気温は20℃前後。体感温度プラス11℃とすると真夏と変わらない。当面はTシャツと短パンで大丈夫そう。でも実際には日陰だと少し肌寒く、風が吹けば体感温度は下がる。一番必要そうなのはランニング用の手袋。指先とかは強く冷える気がする。あとアームウォーマーか。

甲府の初霜、平均値は11/3、昨年は10/31とのこと。文字通りいよいよ冬。


サッカーの話。

甲府 vs 讃岐、ホーム、1-0で勝利。しかしこの一戦を待たずに昇格プレーオフ進出の可能性は無くなった。

訳あってスマートフォンでの観戦。コンビニの駐車場、小さな画面のなか、松橋からのクロスをファーで待ち構えていたモリコウタがヘッドでゴールを決めるのを見た。ちょっと涙が出た。残念ながら今シーズン、オレの禁コーヒーは火を吹かなかった。リーグ戦残り3試合、それと天皇杯、最後に笑うのはオレたちだ。

排ガスまみれの国道や県道、荒れた畑、プレハブの廃屋、いかにもまずそうな客のいないラーメン屋、切れた街灯、どこを運転してもイオンタウン、洋服の青山、東京靴流通センター、パチンコ屋、ファミレス、ホームセンター

美しい里山なんてものはなく、排ガスまみれの国道や県道、荒れた畑、プレハブの廃屋、いかにもまずそうな客のいないラーメン屋、切れた街灯。ポツンと建つ家には電気が灯っているが、ここで行き倒れてもその家の人はきっと出てきてもくれまい

セックスとクルマしかなくて、でもどこを運転してもイオンタウンと洋服の青山と東京靴流通センターとパチンコ屋とファミレスがあるだけ。

東京にいた頃はホームセンターを見かけなかった。だからホームセンター的なものが必要になった場合、どうすればホームセンター的なものを補充できるのかわからなかった。自転車も建築資材も安い家具も洗剤も下着もそこですべて揃えることができるのだ。ここに住んでいるひとはどこでガムテープを買うんだろう。

皮肉ではなく、ほんとうに。探さないと見つからない、というものではなく、どこにでもあるもの。スナックだってラブホテルだってワンルームマンションだって、そこらへんにいくらでもあるものばかりだから。

今週末の良かったこと

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時計の話。

今年になってから腕時計を着けるようになった。普段しているのはこの、カシオ自身が作った G-Shock の偽物のようなモデルで、別に G-Shock が欲しかったけどお金が無かったわけではなく(いや、お金は無いけど)、カシオでもカシオ以外でも、ヴァイブレーションが付いているモデルはこれくらいしか無かったから。

普段、10時、12時、15時、17時30分、そして19時が休憩時間なので、時報とアラームを鳴らしている。ヴァイブレーションなので、周りの人はそれを知らない。

会社のチャイムは日本標準時から微妙にずれているので手動で時間合わせしている。会社のチャイムからさらに15秒時計を進めていて、周りの皆より15秒、未来を生きている。ヴァイブレーションなので、周りの人はそれを知らない。


走る時の話。

右手にカウントダウンタイマー、左手にハートレートモニター(胸にはベルト)をつけて走っている。経過時間は、カウントダウンタイマーがアラーム音で教えてくれて(15分ごとのカウントダウンタイマー)、運動の強さは、ハートレートモニターがアラーム音で教えてくれる(心拍値をアラーム設定 138-{年齢}/2 通称:ニコニコペース)。

例えば1時間走るときは、一回目のカウントダウンタイマーが鳴るまでがウォーミングアップで、そこまで少しずつペースを速くしていって心拍を上げる。その後はハートレートモニターのアラームが鳴らないギリギリのペースを維持して走る。そして三回目のアラームが鳴ったらクールダウンで少しずつペースを落としていって心拍を下げる。四回目のアラームで終了。

アラーム音に従うようになったら意識を向ける方向がとてもシンプルになった。シンプルに前を向いて走れるようになった。


病棟の夜の話。

入院の付き添いというのは時間の経過を強く体感する。9時という今どき意味不明な消灯時間が過ぎると朝6時がやってくるまでひたすら夜だ。その永遠と続くような夜は闇だけどもしかし完全な無ではなくて、様々な音が溢れている。看護士が巡回する音。カーテンを引く音。エレベータの音。誰かの息遣い。それはそれは豊かな音の数々。音というのは時間と結びついているように感じる。


サッカーの話。

省略する。だがしかし、この程度で絶望するほどヤワではないんで。

今週末の良かったこと

サッカーの話。

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甲府 vs 新潟、ホーム小瀬、0対0、スコアレスドロー
田中達也は怖かった。守備はギリギリのところで踏みとどまった。しかし得点は遠かった。手痛いドロー。
残り試合は6。中二日で徳島戦(アウェー)を迎える。いよいよ正念場。シーズンが極まってきた。

勝ち試合以外は、速攻でスタジアムを脱出する気楽なバックスタンド住人なんだけど、帰り際、背中越しにゴール裏が歌うチャントを聴きながら通りを歩いた。そういうことなんだと思う。


とんかつ力の話。




音楽の話。







今週末の良かったこと

連休の話。

三連休、木曜日に体調を崩してしまい、回復のためにほぼ三日間を使い切ってしまった。無念。だからといってまんざらでもない週末だったことをここに明記しておきたい。


主観的運動強度の話。


最近、気に入っているサイトに筑波大学陸上競技研究室がある。そこの記事に主観的運動強度(RPE: Rating of Perceived Exertion)についてのものがあった。

主観的運動強度:The rating of perceived exertion(RPE)とは,直前の運動に対して選手が感じた強度を表1のスケールを使用して示し,トレーニングや競技後の主観的な努力に関する情報を測定できる方法です.

ここに載ってる RPE の表が0から始まる10段階のもので、自分の知っている6から始まる15段階ものと違った。先のものを Omini Scale 、後のものを Borg Scale と呼ぶらしい。

ここで話を端折る。 ACSM Position Stand 準拠の Omini Scale/Borg Scale/%HRR 相関表が見つかった。

で、この週末はずっと手書きでメモ帳に、敬愛するフィリップ・マフェトンの MAF ハートレート(180公式)と、尊敬する田中宏暁サンのニコニコペース(138公式)を、1つのものさしに落とし込んでいた。その清書したものが巻頭の表です。


カウントダウンタイマーの話。

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カシオを購入した。オートリピートのマルチなカウントダウンタイマーがついてて、製品パッケージには「インターバル計測用」って書いてあった。

ランニング、距離やペースじゃなくて時間でコントロールする。15分を1単位として何回分かカウントする。例えば90分走るとすると、ウォーク、ウォーミングアップ、ランニング×2、クールダウン、ウォーク、で合計6単位分(15分 * 6set = 90分)。

いままではストップウォッチでコントロールしてたけど、それだとどうしてもペースが気になっちゃう。1km 何分とか。それから、そろそろ15分かと思って何回も時計を見てしまう。このカウントダウンタイマーのイイところは何ループ目か表示されるところと、時間が来るとアラーム音でお知らせしてくれるところ。

右手にカウントダウンタイマー、左手にハートレートモニターつけて走る。人間は手が2本あるので、便利。

ハートレートモニターはポラールの一番シンプルなヤツ。

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サッカーの話。

先週末、2連勝の勢いに乗って徳島に向かうはずだったサッカーチームは、台風24号の影響で早々試合の中止が決定して羽田から甲府にトンボ返りした。そして今週末、2週間ぶりの試合、アウェイ、東京V戦、1-0 勝利、3連勝。

プレーオフ圏内までの勝点差12。残り試合は7つ。




環界と対峙しているのが人間であるから,どんな特殊性や異種性の中でも一致や類似が存在していることは明らかである

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マイネル(1981)は「すべての種目の中で,環界と対峙しているのが人間であるから,どんな特殊性や異種性の中でも一致や類似が存在していることは明らかである」と述べています.つまり,種目は違えども人間がこの世界で行っている運動には,一致や類似がある.という解釈ができるのではないでしょうか.実際に七種競技の種目である100mHと走幅跳の記録の間には有意な相関関係が認められています.(山田ら,1992).

哲学および科学の任務、原理の実践

さらに興味深いのは,「體育研究」の発刊元である体育研究所の任務は哲学および科学の任務であって,東京高等師範の任務は応用科学の立場にあるとされ,東京高等師範の社会的役割は,原理の研究批判よりもその原理を如何に実践するかの方法の研究と指導にあると考えられていたことです.

哲学と科学が並び称されていること。
原理の実践が同列に扱われていること。

今週末の良かったこと

台風24号の話。

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via https://tenki.jp/forecaster/deskpart/2018/10/01/2270.html

2連勝の勢いに乗って徳島に向かうはずだったサッカーチームは、予定より早く試合の中止が決定して羽田から甲府にトンボ返りした。
訳あって向かった鎌倉は、海は鈍く鉛色で、波は大きくうねっていた。そんななかたくさんのサーファーが海に漂っていた。
来るぞ荒れるぞとさんざんいわれていたものの日曜日の日中、雨は降っていなかった。
軒並み小学校の運動会は月曜日に順延されていた。
夕方あたりから雨に変わって、時間が進むにしたがって雨の量も風の速さも強くなっていった。
いままで経験したことがない音を屋根の上で鳴らせていた。
短い時間で一気に下がった気圧が頭痛を呼んだ。
蛍光灯は何回も何回も小刻みに明滅を繰り返したけども、とうとう停電はなかった。
月曜日出勤の朝、荒川はドウドウと大きく流れていた。外出時に見た塩川は、最近では見たこともないくらい川幅いっぱいに茶色の水を流していた。


ランニングの話。

来るぞ荒れるぞとさんざんいわれていたものの日曜日の日中、雨は降っていなかった。
その隙きを突いて3時間半くらい走った。
夏の間、好き放題に山とか走っていたのと、少しスピードが出るようになったので、結
構走れる気になっていて調子づいていたんだけど、
だんだん体調が崩れてきて、
もしかしたら根本的になにか間違っているかもしれない、と。
で、MAF テストしてみたら全然ダメだった。
マフェトンがいうところの エアロビック(脂質をエネルギーにする)ではなくて
アン・エアロビック(糖をエネルギーにする)な運動ばっかりしていたからということらしい。
そうはいってもあれだけ走っていたんだから、と思うものの、時計と心拍計はウソをつかない。
好き放題走ってて、自由に、感性にまかせてやっていれば、良い方に勝手に進むなんてウソだね。
で、悔しいので平らなところをノロノロ、グルグルと走っている。


読書の話。

キンドル、英文は横向きで読むようになった。文字サイズはこんな感じ。
なにも好き好んで英文を読んでいるわけではなくて、それは翻訳がないから。
英語が得意なわけではないので、本当に雰囲気で読んでいる。こんなもんは勢いだ。

Running Flow: Mental Immersion Techniques for Better Running

Running Flow: Mental Immersion Techniques for Better Running

"Running Flow" 著者にミハイ・チクセントミハイとあるけども、監修っぽくて書いているのは別の人らしい。本文の中で、チクセントミハイのことを "Dr. Mike" と呼んでいる。
チクセントミハイ、「フロー体験入門」(Finding Flow) を読んだ。もともとはスティーヴン・ コトラーの「超人の秘密」(The Rise of Superman : Decoding the Science of Ultimate Human Performance)(これも邦題が最悪だ)からの繋がりで。
チクセントミハイ、フローに最も遠い人達からしか読まれていないと思う(脳科学者とかいう人とか、ライフハッカーという人たちとか、そういうところにいる人たちとか)。
そして残念なことに、フローに最も近い人達は本なんて読まないし(今はなきシェーン・マッコンキーとか、アレックス・オノルドとか、そういうところにいる人たちとか)、
さらに、フローを最も必要としている人達は本なんて読んでる暇がない(オレとか、アナタとか、そういうところにいる人たちとか)。

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