copy and destroy

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今週末の良かったこと

走ることと空っぽさ

今週末は走った。土曜日は昼間、公園のアップダウンと川沿いのフラットを繋いだコースで3時間、それと夜、ステーショナリーバイクをゆるゆるクールダウン代わりに1時間。日曜日は町内会の奉仕活動が終わってから、川沿いのフラットをイージーに1時間。これくらい走ると他になにもする気にならない。読書もほぼ停止。それ以外も全部先送りした。その代わりに昼寝、土曜日2時間、日曜日1時間。

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走ることの良いところは、頭が空っぽになるところだと思う。こんなになにも考えないなんてことが出来るのか、と思うくらい空っぽになる。人によるのかな、とは思うけども、自分の場合はそうだ。空っぽ。

とにかく空っぽになりたいので、ハートレートモニターとかアクティブトラッカーみたいなものはつけない。本当は時計もしたくないけど、長い時間走るときは、逆に時間を気にしないでいいようにカシオをつける。もとの場所、もとの世界に帰って来るためのアンカーとしてのカシオ。命綱。

読んだ先からどんどん忘れていくこと

読書はほとんど進まなかった。数ミリ。読もうとしていたのはイタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」と「アメリカ講義」の2冊。キンドルなので「冊」と呼ぶのはちょっと躊躇する。どちらも読み散らかして放っておいたものなので以前読んだときのハイライトが残っていた。とても邪魔だった。もうそれは最初に読んだときの自分といまの自分は他人なのでハイライトはノイズにしかならなかった。泣きながらポチポチと全部のハイライトを消した。ハイライトは消えたけど気力も消えてしまった。はたしてこの後、読むことになるのだろうか?

「なぜ古典を読むのか」の第1章は、自分にとって大事なモチーフになっている「窓の外のノイズ」の話が載っている。ここは何回も頭の中でオートリバースしているのでカルヴィーノが書いたんじゃなくって自分が書いた体になっている。その他のページは全然記憶に残っていなかった。読了したのかさえ定かではない。

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「アメリカ講義」はどのページも全然記憶に残っていなかった。 Amazon のウィッシュリストに残骸が残っていて、載っている文献がピックアップされていた。それによると第1章「軽さ」第2章「速さ」だけ読んだらしい。読了は間違いなくしていない。

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書いた先からどんどん忘れていくことと、走った先からどんどん忘れていくこと

ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」によると、「読んでいない本」には「読んだことはあるが忘れてしまった本」が含まれるそうだ。正直な話、たった今、読んでいる本であっても読んだ先からどんどん忘れていっているに違いない。この「今週末の良かったこと」を書いた先からどんどん忘れていっているように。

https://taizooo.tumblr.com/post/168982204080

なにか書いて、気持ちとかそういうよくわからないものもそこに封じ込めて、そして忘れて、先に進む。
書くっていうのには、そういう効果があると思う。

なにか読んで、そして忘れて、先に進む。なにかを書いて、そして忘れて、先に進む。走って、そして忘れて、先に進む。

それから、

トンガの噴火、8000km、音速、8時間、全国(全世界)の気圧上昇(+2hPa)、太平洋岸全域の潮位変動、津波警報・注意報

https://www.jma.go.jp/bosai/tidelevel/#area_type=class20s&area_code=1342100&point_code=124434&class30s=13004000&filter=0
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それから、それから、

今週末のプレイリスト。1曲目は1年前のプレイリストからフォー・テット "Parallel 6" 。今回のプレイリストは前半、ずっと緊張感が続いていて、いつもは金曜日の夜、鳴らしっぱなしで寝るんだけど、ちょっと無理だった。「こんなんで、寝られるか!」って感じ。だからといって悪いわけではない。イイ。ルイ・アンドリーセン " Workers Union" とてもイイ。でもパリンパリンに緊張させる。ヤバイ。


ヴァンフォーレ甲府は、1次キャンプが始まって、吉田達磨監督がいよいよ合流した。2022年は始まりつつある。

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今週末の良かったこと

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キンドルで本を読むの、いまのメインはこんな感じ。Fire HD10 をスタンドで横置き、ところによってスマートフォン、雨は夜更け過ぎに、布団の中ではペーパーホワイトとなるでしょう。

オデュッセイア、語ること、語られること

ジョン・サザーランド「若い読者のための文学史」、読みたかったところだけガーっと読んでしまったんだけど、最初から読み直した。この「Chapter2 すてきなはじまり――神話」からホメーロス「オデュッセイア」を掘り始めた。まだ読んでいない。読む前に Wikipedia からテキストをコピー・アンド・ペーストしている。

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あわよくば、読まずに読んだような感じにならないかと思った。それは、ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」を真似できないかと思ったから。そんなに上手くいくわけはなくって、なんとなくこれは読まねばならないのだ、読む運命だったのだ、みたいな感じになりつつある。ヤバイ。そもそもジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」が「オデュッセイア」を下書きにしているらしい、というただそれだけの理由で気まぐれにコピー・アンド・ペーストしてみただけのことなのだ。

キンドルのライブラリを漁るとイタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」を見つけた。たしかに買っていたし読んでいたし引用もしている。第1章以外、記憶にない。第1章は例の「窓の外のノイズ」の話が載っている。第2章が「オデュッセイアのなかのオデュッセイア」だった。「オデュッセイア」読まなきゃならないっぽい。

オデュッセイア、大きくは三部からなっている(らしい)。父オデュッセウスの不在に悩むテレマコスの苦悩を描く前段、オデュッセウスの冒険を描くの中段、そしてオデュッセウスの帰還を描く後段。

まだ神話、口承の物語の色が濃く残っている時代の作品なので、「語る」こと「語られる」ことが大事になっている(らしい)。文字として書き留められない文学なので「語る」こと、「語られる」ことが止まるときは物語が終わるときになる(らしい)。だからオデュッセウスの帰還が語られ続けることが大事で、それが止まるというのは、オデュッセウスの死を意味することになる(らしい)。

それから、

今週末は走った。ハートレートモニターはつけない。公園には時計があるのでリストウォッチもなし。これはザック・ミラーがいうところの「山小屋の時計」トレーニング( “cabin clock” training )です。

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そして今週末のプレイリスト。1曲目は1年前のプレイリストからピーター・コットンテイル "Way Up High" 。

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1年後に聴いたらどう感じるかわからないけど "Way Up High" からレディオヘッド "Kid A" 、シベリウスの "Tempest" 、ロバート・グラスパー "Shine" 、すごく上手く繋がった気がする。意外な取り合わせ。

今週末の良かったこと

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正月休みと雪崩落ちる積読山脈の話

この休みに、12月の半ばに気まぐれに買った「世界文学全集 短篇コレクションⅠ」を読了した。ブルース・チャトウィン「黒ヶ丘の上で」から小説づいている。小説って数えるほどしか読んだことがない。小説、英語では "Novel" 。これは "New" を意味するそうだ。"A Happy New Year"

「世界文学全集 短篇コレクションⅠ」、フリオ・コルタサル「南部高速道路」、冒頭、これのスピーディーさにすっかりやられてしまった。スピーディーさにやられたにもかかわらず、この小説は高速道路の渋滞の話だったりする。

で、このコレクションで気に入ったのは、金達寿「朴達の裁判」、トニ・モリスン「レシタティフ――叙唱」、アリステア・マクラウド「冬の犬」、マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」。 短篇コレクションⅠはヨーロッパ以外の作家、ということもあるのだろうけど、その中でもちょっと辺境というか周縁を扱ったようなストーリーが心をつかんだ。


窓拭きが終わった日に、國分功一郎「暇と退屈の倫理学」を買った。記憶をたどると2019年に「退屈とはなんなのか」なんていう事柄に囚われたことがあって、そのときからずっと心の積読山脈ベストテンに連なる一冊だった。この年末にちょうど文庫化されたのと同時にキンドル化されたので気まぐれに読み始めた。いつものとおり飛ばし飛ばしで先に結論を読むと、「この本は結論だけ読んでも当たり前のことしか書いてない。通読しないと意味が理解できない。」と書いてあった。よし、じゃあ通読してやるわ、って序論から一気読みした。半分ずつ、まる二日で読みきった。遅読な自分としてはここ最近では最速だった。不平等の話、ファシズム、環世界、痛みは記憶である、時間の話といったここ最近追いかけていた話題が全部、この一冊に絡め取られてしまった。言ってみればまだ解いていない問題集の解答例を全部、先に読んでしまったみたいな感触。「ここに書かれていることは、本当は、この先、自分自身で発見するはずだった」、みたいな。いつもだったら注釈にぶら下がっている参考文献をダーっと盗んでいくのが通例なんだけど、しばらく触りたくないな、と思ってしまった。

ちょっと途方に暮れてしまって、手っ取り早く別の本でも読んで、このモヤモヤを上書きしてしまおうと思った。ということで、読みかけのピーター・ドラッカー『「経済人」の終わりに』に、一瞬手をつけるものの、ページは1ミリも動かず。


で、これまた心の積読山脈ベストテンの一冊、ティム・インゴルド「ラインズ」を買った。2021年の総集編みたいな本を読んでしまったので、いまこの場所から一番遠くまで行けそうな本を、ということで選んだ。「序文、まったくなに言っているのかわからない! 全然、頭に入って来ない! いま居る場所からめちゃめちゃ遠い!」。「本を読むってのは、こうでなくっちゃ!」。本の内容だけじゃなくって、自分もなにを言っているのかわからない。まあ、だが、しかし、いま自分が居る場所から遠くに行くことが出来る、ということで言えば、本というのはビークルだと思うし、どうせ乗るならバカっ速いヤツに乗りたい。そういうことだ。

この本は紙の本で買うべきか、キンドルでもイイかとちょっと思い悩んだ。どうしてかというと、紙の本はそのまま手がつかずに積読山脈の地層になってしまうことが多くて、キンドルだとすぐに手をつけて読み始めるんだけど結局、そのまま読みかけで塩漬けになってしまうことが多いから。ということで、さきの「暇と退屈の倫理学」と同じように一気に読んでしまおう、であるならば、いま読もう、すぐ買おう、ということでクリックしてダウンロードした。一瞬で空から降ってくる。2021年と2022年、大晦日と元旦をはさんでその隙間で読み進めた。この本もまる二日で読みきった。


大晦日に、ジョン・サザーランド「若い読者のための文学史」を買った。ちょうど「世界文学全集 短篇コレクションⅠ」を読み終わったタイミング。全然「若い読者」じゃないけど、原題は "A LITTLE HISTORY OF LITERATURE" つまり「文学小史」なので誰が読んでも大丈夫。イェール大学出版の「リトル・ヒストリー・シリーズ」は前々からちょっと気になっていた。読みたかったのは「1922年」について書かれている第28章だった。

「文学史上すばらしい年は数々あれど、1922年は最もすばらしい年だと言えよう。この年がすばらしいのは、その年(そしてその前後の年)に出版されたものによって、文学の未来に対する読者の考えが変わったためである。」「2022年は大きな100周年記念となる。」1922年前後には大きな変化を生んだ作品が名を連ねているそうで、それはジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」といった作品。

「長篇小説というのは基本的に伝記であり年代記である。そうではない型式、技法が勇敢な作家たちによって開発されてきた。その代表が、ヴァージニア・ウルフと ジェームズ・ジョイスである」という話が「世界文学全集 短篇コレクションⅠ」折り込みの「短篇の時間、長篇の時間」に書かれていた。それを確認しておきたかったというわけ。

そしてこの「若い読者のための文学史」の第37章を読んで「文学」、これってじつは広大な Web なのだと気づいてしまった。気づいてしまったからには掘るんだろうな。ということで、2022年は轟々と雪崩落ちる積読山脈のなかで幕を開けた。

それから

今週末のプレイリスト、1曲目は1年前のプレイリストから The JuJu Exchange "The Circuit"

今週末の良かったこと

2021AC2021

2021 Advent Calendar 2021

2021年のベスト・オブ・ザ・イヤー・アドベントカレンダーが無事完走した。今回止まったのは三年日記だった。


via https://suzuri.jp/taizooo/9015422/acrylic-block/m/clear

https://twitter.com/taizooo/status/1474589623238422532

祝祭は終わった。

https://twitter.com/taizooo/status/1474589542430961664

バカみたいに tweet するのも、もうお終い。

世界文学全集 短篇コレクションⅠ

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読み進めている。 コレクションⅠはヨーロッパ以外の作家、 コレクションⅡはヨーロッパの作家による短篇集とのこと。なんのひねりもなく作家の生まれ育った場所だけで分けられたこの二つの違いは、ファンタジーとリアリズムの違いだ、とある。

短篇コレクションⅠ、冒頭のフリオ・コルタサル「南部高速道路」にすっかりやられてしまった。

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折込のチラシがついている。こちらにその全集についての解説が載っている。コレクションⅠは「短篇の時間、長篇の時間」。

「長篇小説というのは基本的に伝記であり年代記である。そうではない型式、技法が勇敢な作家たちによって開発されてきた。その代表例が、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』と ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』」。

そして「短篇小説は長篇小説に対して短い時間を扱う。そのために長い時間をカットしたりスキップしたり場合によっては巻き戻したりしている」と。そう、つまり短篇小説はタイムマシン、タイムトラベルなのだ。

「南部高速道路」についてこのように書かれていた。

「八月のうだるような暑さ」の日曜日の午後に始まり、翌日になり、翌々日になり、そのうち時間の経過は加速されて、寒さが厳しくなり、雪が降り……と書けばわかるであろうが、この話の中の時間はリアリズムを大きく逸脱したファンタジーの時間なのだ

そういえば、2021AC2021 で youkoseki サンが書いていた短いフィクション? も時間を操作してたな。

それから解説には「イソップの寓話や『今昔物語』にはことの経緯はあっても時間はなかった。違う性質の時間を組み込むのが現代の短篇の原理なのだ」とあった。カルヴィーノ「イタリア民話集」、柳田國男「遠野物語」読み直そうかな、とか思いつつある。

今週末のプレイリスト

1曲目は1年前のプレイリストから Kan Sano "Untitled (How Dose It Feel)。プレイリストのタイトルが "Untitled" というのもまたイイかな、みたいな気持ちもあった。

手癖になっているアーティストについて tweet でつぶやいてから意識して外すようにしてる。

https://twitter.com/taizooo/status/1470367818478759945

「今週末のプレイリスト」手癖になってる選曲ってあって、それは、サン・ラ、ララージ、マイク・クーパー

他にも、ベニー・シングス、ジェイコブ・マンとか。逆にサム・ゲンデル、サム・ウィルクス、オリバー・コーツは好きすぎてわざと外すようにしていたり。毎週末なので、なかなか大変。

今週末の良かったこと

備忘録的な

今日、死ぬほど忙しかったので、忘れないように

  • ステーショナリー・バイク 90分、5分に1回立ち漕ぎすると飽きない、みたいな技
  • 本屋という名の裏山で2時間
  • 世界文学全集とは
  • 加速劣化試験 3時間15分
  • 5℃を下回ったときのランニングの服装について。いよいよタイツ着用した(おたふく手袋のタイツ)。そしてウインドブレーカーはモンベルのゴミ袋みたいなヤツ
  • 天皇杯は見なかった
  • 今週末のプレイリスト

プレイリスト

今週末の良かったこと

加速劣化試験とか

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土曜日は「加速劣化試験」と呼んでいるメニューで3時間、日曜日は5分:1分のウォークブレイクで2時間走った。なんかひさびさに思い描いたとおりの量、時間、走れた。12月はこのままダラダラ走って、祝祭が終わって正月休みが終わったら裏山に入れるくらいまで仕上げたい。

走り出しが11時くらいでそれから2時間走ると、気温が10℃~13℃くらい。風さえ吹かなきゃまだ全然短パンでいける。長袖Tとその下にドライレイヤーを着てバギーズショーツ。あとコンビニで買えるような裏表のない毛糸の手袋と、バイザーのついたダサい毛糸の帽子を被っている。猛者たちが教えてくれたアメ玉をごっそりポケットに突っ込んで走っている。美味しくてバリバリ食べちゃう。

読書は止まった

呪いが解けてて、読書が止まりつつある。そうはいっても、ちょっと頑張ってみるか、ということでジェイムズ・グリック「タイムマシン」を書見台に載せた。載せただけで終わった。

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サッカーはなかった。サッカーはあった。

オレたちのサッカーはなかった。しかし天皇杯準決勝があった。大分 vs 川崎の試合は凄かった。

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引き分けのないルールでは、サッカーは違うスポーツになる。 J1 覇者の川崎が破れて J1 降格する大分が勝利した。サッカーの女神は気まぐれだ。

それから、

今週末のプレイリスト。1曲目は1年前のプレイリストからサン・ラ。

今週末の良かったこと

2021 Advent Calendar 2021 開幕

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アドベントカレンダーを主催する上での3つの責任のうち、1) 25枠を埋めること、2) 初日に post すること、が終わったので、最後の1つ、3) 25日間必ず完走させること、に集中する。こんなもの、本当に怪しいバランスでなりたっているので、毎日途切れずに続くことは奇跡としか言いようがない。そこにこそ価値があるし、意味がある。

adventar.org

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https://twitter.com/taizooo/status/1460530708640718849

ラインナップから溢れる、(オレの考える)インターネット感が半端ない

最終節

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甲府 vs 水戸 ホーム 小瀬 3-3 ドロー。
リードされて追いつき、またリードされて追いつき、そしてまたリードされてロスタイムに追いついた。残念ながら5連勝にはならなかった。勝点はドローの1を加えて80となった。

今シーズンは終わった。

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ストーブリーグは嫌いだよ。

読了

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ブルース・チャトウィン「黒ヶ丘の上で」読了した。

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読み始めたのが11/7。本が届いたのが7月。たまたま在庫があった。今はない。

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次、なにを読むか。

今週末のプレイリスト

1曲目は、1年前のプレイリストからプリンス "Musicology" 。一番最後のベニー・シングス "On Christmas Morning" がヤバかった。気をつけないと心を持っていかれる感じ。

2021年を探す

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intro

2021.01.23 Saturday ニセコなだれ情報 第46号
http://niseko.nadare.info/?eid=1069489

「雪は素晴らしく良いが天候急変に注意。等圧線が狭まればすぐに吹雪く。」

「滑るならフォールラインを。昔スコット・シュミットはここを3ターンで滑っている。谷は雪崩の走路となる。谷底にいてはならない。ヘルメットの着用とビーコンの携行を勧める。これらの道具は自分を守るだけでなく仲間の命も守る。良い週末を。」

1.0

ブルース・チャトウィン「黒ヶ丘の上で」、1900年にウェールズとイングランドの境界の村で生まれた双子の100年の物語だ。そこはウェールズからもイングランドからも遠く、辺境の地と呼ばれている。英雄でもなければ悪者でもなく、喜劇でもなければ悲劇でもなく、淡々と日々の生活が描かれる。たとえ世界の涯であったとしても、20世紀を生きるということは、そのあとに続く雪崩のような流れの中を生きることを意味する。歴史の中にはフォールラインが走っている。

1900年に生まれた彼らと、100年後を生きるわれわれは、相似の位置にいる。まるで鏡をはさんで向う側と、こちら側にいるかのようである。

1.1

1914年7月、大きな戦争が始まった。それは後に第一次世界大戦と呼ばれるようになる。まるで一つの存在のように一つの家、一つのベッドをともにしてきた二人は、違う町、別々のベッドで日々を生きることになった。ヨーロッパは1815年のワーテルローの戦いのあと戦争を経験していなかった。だれもがいつか戦争になると思っていたけどもそれがどんなものになるかわかっていなかった。

100年前、伝令と騎兵と歩兵だった戦争は、100年後、電信と鉄道と機関銃と戦車の戦争となった。

1.2

1918年11月、あらゆる場所を穴だらけ焼け野原にして戦争は終わった。弟は兵舎の営倉の病室で苦しんでいた。彼はスペイン風邪をひいていた。門の外では兄が中へ入れろとわめいていた。彼の目の前には銃剣を持った歩哨が立ちはだかっていた。

1.3

2020年1月、新たな感染症が世界に広がった。それは後に COVID-19 と呼ばれることになる。最初は中国、武漢での出来事だった。しばらくしてそれは横浜港沖のクルーズ船での出来事になった。そのうちにそれは世界、日本、そして半径3mでの出来事となった。ソーシャルディスタンス。人類はスパニッシュ・インフルエンザのあと疫病を経験していなかった。だれもがいつか危機がやって来ると思っていたけどもそれがどんなものになるのかわかっていなかった。

100年前、経験と迷信と洞察力と信仰と行き当りばったりだった感染症との戦いは、100年後、かたや、 PCR 、ワクチン、医学と科学の進歩と、こなた、デマ、中傷、分断といった鈍臭さとの戦いになっていた。テクノロジーは進歩したが人類は全然進化していなかった。

1.4

2021年7月、何回目かの大きな感染拡大のあと補欠リストからの繰り上がりでワクチン接種に滑り込んだ。前々日の金曜日、「急ですけど、どうします?」と聞かれたけど、あまり深く考えずに「打ちます、打ちます」と返事した。だんだん重くなる左肩を引きずってその足で本屋へ向かった。トマ・ピケティ「21世紀の資本」、ブランコ・ミラノヴィッチ「大不平等」、そしてピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」を買って帰ってきた。寝込んだら本でも読もうと思っていた。寝込まなかった。

2021年8月、それまでと比べようもないほどの感染拡大が広がっていた。2回目の接種、史上最高の体温を記録して2日ほど寝込んだ。本なんて一行だって読めなかった。ベッドの足元には空のペットボトルが何本も並んでいた。

2.0

2021年1月、何冊か本を買った。世界を揺さぶる感染症との戦いなんて知ったことかという1ヶ月に渡る祝祭が終わって、とにかくなにかが始めたかった。とにかく分厚いヤツが欲しかった。手当り次第に手に取った。アルフレッド・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ」、ウォルター・シャイデル「暴力と不平等の人類史」、アンドレア・ウルフ「フンボルトの冒険」。本当に断続的に、何年かに一度、読書期がやってくる。2021年は2017年以来の大きな波になった。

「史上最悪のインフルエンザ」はその後、宇野重規「民主主義のつくり方」、ルイ・メナンド「メタフィジカル・クラブ」、そして「プラグマティズム古典集成」からなんと哲学へと進んで袋小路にハマった。

「暴力と不平等の人類史」はその後、トマ・ピケティ「20世紀の資本」、ピーター・ドラッカー「傍観者の時代」、アレックス・ロス「20世紀を語る音楽」を巻き込んで、ブルース・チャトウィン「黒ヶ丘の上で」と思いも寄らない方向に繋がっていく。

2.1

2007年7月、インターネットの前衛、周縁、辺境、境界、世界の涯、まあなんと呼んでもいい、 tumblr の dashboard にログインして以降、世界の見方は間違いなく変わった。トンカチをもっている人間には全てがクギに見えるように、世界にはあらゆる方向にリンクが貼られているように見える。

ここまで続くこの読書もリンクを辿る旅でそれは2011年、ローレンス・レッシグ「CODE」から始まった。驚いたことにそれは、2003年に初めて Amazon で購入したうちの1冊だった。8年間の積読山脈。忘却と再生というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

2.2

松尾芭蕉は「おくのほそ道」でリンクをたどるように旅をしている。 芭蕉の旅が古典、歌枕のリンクをたどる旅だったように、インターネットでリンクをたどることは歩くことに似ている。人は一度に一つの道しか歩くことが出来ない。同じように人は一度に一つのリンクしかたどることが出来ない。

バラバーシ・アルベルト・ラースローは、ただひとりの人との繋がりをもっているだけで世界中の人とつながる、と言っていた。リンクが臨界数に達したときネットワークに根本的な変化が生じる。閾値は 1 だ。ただ一つのリンクを見つけることが出来れば、世界に接続することが出来る。「つながる可能性にリンクを開いておく」。

3.0

「フンボルトの冒険」、原題は "The Invention of Nature" つまり「自然を発明した」。 ここでいう自然というのは「生命の網」"the Web of Life" のことを言う。 自然は、一つ一つバラバラの事象がてんでバラバラに存在いているのではなくて、それぞれがリンクしている。その全体の繋がり、広がりにこそ本質がある。 この本の中で、フンボルトに影響を受けた人たちについて、それぞれ一章を当てている。フンボルトは歴史の上では、スケールフリーネットワークでいう巨大なノードとして存在する。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、トーマス・ジェファーソン、シモン・ボリバル、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ジョージ・パーキンス・マーシュ、エルンスト・ヘッケル、ジョン・ミューア、そしてチャールズ・ダーウィン。ダーウィンはビーグル号の航海に、フンボルト「新大陸赤道地方紀行」を携えていった。

3.1

チャールズ・ダーウィン「ビーグル号航海記」は5年間の旅の記録だ。その旅もリンクを辿る旅だった。大西洋からマゼラン海峡を回って太平洋へ、ガラパゴス諸島、オーストラリア、アフリカ喜望峰を回って再び大西洋へ。

その後、二度と海を渡ることはなかったが、彼は系統樹、つまり進化というリンクを描いた。

3.2

「ビーグル号航海記」、読み終わるのに8ヶ月くらい掛かった。8ヶ月かかってもダーウィンが船上で過ごした5年と比べるとはるかに速い。読むことと書くことはそのスピードが全然違っていて、そこには大きな非対称性がある。作者が命を掛けて何十年も書き続けた作品を派手に手荒に適当に扱って木っ端微塵に読み散らかすことも出来るし、そのまま放っておいて何年間も積読山脈に積み上げておくことも出来る。自分たちが完全に主導権を握っている。そこに読書の素晴らしさがあると思う。

本を読むことは、自分が実際に過ごしている時間とは別の時間軸を持つことになる。そしてそのスピードを上げたり下げたり、ページを飛ばしたり戻ったり出来る。時間は相対的なものだ。それは延びたり縮んだりする。発展と停滞というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

4.0

2019年にこのベスト・オブ・ザ・イヤーで発見したのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だった。ベスト・オブ・ザ・イヤーといいつつその底を抜けて1989年までさかのぼった。それはインターネットの最初を追いかける旅だった。

時間は先送りしたり巻き戻したりスキップしたりリピートしたり出来る。それが明らかになったのは、1980年 VHS とベータマックスの間で繰り広げられた血の流れない世界大戦、ビデオフォーマット戦争が VHS の勝利によって終結したときだった。ハレルヤ。

4.1

葉っぱの坑夫は、日本語には未来形がないと指摘している。過去とそれ以外しかない。「過去とは、いま現在から前に存在するすべての時間。茫洋とした時のかたまり。すでに起きたこと。すでに起きたことで周知のこと」、「過去以外は、それ以外の時間。現在とその先に広がる未来の総和」。清水克行によると、中世までの日本語では「アト」には「未来」、「サキ」には「過去」の意味しかなかったそうだ。後日と明後日、先日と先々日。

過去が前にあって、未来は後ろにあった。

マーシャル・マクルーハンは、われわれはバックミラーを通して未来を見ていると言った。

「背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでいく」。躊躇なく、背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、というのは歴史家、考古学者もしくは墓掘りのあるべき姿だと思う。

4.2

ジェイムズ・グリック「タイムトラベル」によると、時間が過去から未来へと流れると意識されるようになったのは、ハーバート・ジョージ・ウェルズ「タイムマシン」の影響が大きかったそうだ。

未来が前に進んで、過去は後ろに下がった。

科学も哲学も文学もその影響から逃れられなかった。われわれは「過去から現在、そして未来へ」という一直線に貫く時間の矢印から逃れることが出来ない。

4.3

Web の中にフォールラインを描いたのは Twitter の Timeline そして Tumblr の dashboard だった。 Web に矢印が突き刺さされた。それは画面の上から下方向へ流れる、現在から過去への流れだ。

過去は積み重ならない。ただ縦に並んでいる。

5.0

2007年1月、 AutoPagerize が誕生した。ハレルヤ。それは Firefox の GreaseMonkey で動く Userscript だった。その基本的な動作は、表示しているページから「次のページの URL 」を読み込みパースして「必要な部分」を取り出し現在のページに継ぎ足すというものだった。

かつて otsune は「nクリックを1クリックにすると商売になる。1クリックを0クリックにすると革命になる」と言った。 AutoPagerize はまさにそれだった。 AutoPagerize によって初めて Web に一直線にフォールラインが描かれるようになった。インターネットはスピードを上げていった。だれもがその底を目指すように潜った。「スピード! スピード! スピード!」

5.1

かつてマイクロソフトとネットスケープの間で繰り広げられた血の流れない世界大戦、ブラウザ戦争は Internet Explorer が市場のほぼすべてを制圧して終結した。それは第一次ブラウザ戦争と呼ばれた。ネットスケープはのちに Mozilla と呼ばれるオープンソース、インターネットにおける正義を選択するが復活はなかった。しかしこのときにまかれた種子は Firefox として結実する。ハレルヤ。

Firefox は部分を成す小さなコアと、全体を成す拡張機能によって構成されていた。XUL/XPCOM といった仕組みを介して開発者は Firefox の全体にアクセス出来た。開発者は創造も破壊も可能であり何をするもの自由だった。その気さえあれば。その設計思想は、一塊の大きな物体と化していた Internet Explorer に対するアンチでありポストモダンでもあった。

3つの特徴的な拡張機能があった。 Firebug 、 GreaseMonkey 、 Stylish 。それぞれは解析ツール、 Userscript の実行環境、 Userstylesheet の実行環境だった。これらが意味したのはなんだったか。われわれは創造も破壊も可能であり何をするもの自由になった。その気さえあれば。 Web は書き換え可能なものとなった。 "Because it's your web."

5.2

2007年7月、休日出勤の気怠い昼休み、その地に第一歩を踏み出した。その名は tumblr 。ほんの気軽な気持でメールアカウントとパスワードを登録した。

なんの確認もなく呆気にとられているうちに彼の地は自分を受け入れた。あまりに殺風景な景色。なにも表示されていないまっさらな dashboard 。引用した文字はやたら大きく、自分の書く文章は躊躇したような小さな文字、なんの注釈もなく貼り付けられるフォト、そして表側右上の”Reblog”の文字。全然、意味がわからない。これはなに? ただ dashboard でくりひろげられている post の流れだけが何かを理解する手段であり場の流儀だった。ひと月と待たず dashboard の住人と化す。もう手遅れです。ご愁傷様でした。チーン。

6.0

dashboard には底がある。一つは世界の始まりとしての底。それは、David Karp によるファースト・ポストがそれにあたる。そしてもう一つの底は、われわれの世界の始まりとしての底。つまりわれわれの世紀の起源、紀元0年にあたる地点のことである。それはわれわれが初めて Tumblr を発見したその瞬間であると言える。ハレルヤ。

インターネットも底がある。Web は1991年に CERN にて Tim Berners-Lee によってその歴史が始まった。これがビッグバンの瞬間だ。

爆発的に拡大したこの網の目を見渡すためには Google Search にインデックスされている必要があるがその稼働は1997年のことだった。考古学的に Web を探求するためには地層を発掘する必要があるが Internet Archive の Wayback Machine だけがこの役割を担っている。その稼働は1996年のことだった。つまりそれ以前の Web に到達する方法はないのだ。

われわれの認識には起点が存在する。物事には始まりがある。宇宙の誕生。原始地球からの自己複製子の登場。生命の誕生。自分の誕生。自我の目覚め。ハレルヤ。

6.1

AutoPagerize は dashbord を食い尽くすようになった。その底はあっという間に浅くなった。その頃 dashboard の深さとわれわれの持っている時間の間には大きな非対称性があった。

深くフォールラインに潜るというのは、同じ情報に何度も何度も出会うことでもある。本当に重要なことは何度も何度も目にすることになる。反復、反響、エコーは大きな力を持っている。その力から逃れることは簡単ではない。そしてこの力は、大多数の人たちにとって重要ではない情報は淘汰されてしまうことを意味した。

みんなにとって大事なことには何度も何度も出会うことになる。自分にとって大事なことには出会うことさえないかもしれない。

6.2

2008年11月、 Endless Summer というささやかな Userscript が誕生する。ハレルヤ。それは AutoPagerize に寄生する小さなスクリプトだった。その基本的な動作は、表示しているページとは直接接続されなかったはずの「次のページの URL 」をランダムに読み込みパースして「必要な部分」を取り出し現在のページに継ぎ足すというものだった。

描かれるはずだったフォールラインはバラバラに分解されて過去と現在と未来という時間軸は継ぎ接ぎに繋ぎ合わされた。そこにあった反復、反響、エコーはズタズタに引き裂かれて、いつまでたっても始まらないディスコ・チューンのイントロのように成り果てた。

墓掘りたちはノイズだらけの dashboard に皆、喜んで潜り続けた。「みーんな取り憑かれてるんだ。AutoPagerize とか LDRize とか tombloo とか Tumblr とかインターネッツとか自由とか、そーいうものに。ご愁傷様でした。チーン」。

7.0

テリー・ライリーは The Harvey Averne Dozen の"You'er Nogood" をズタズタに引き裂いて、 MOOG と2台のオープンリールで継ぎ接ぎに繋ぎ合わせた。1969年、ブロンクスがブレイクビーツを発見する遥か昔の話だ。カットアンドペースト。コピー、エディット。ハレルヤ。わずか3分のその曲は、延々と交互にループで引き伸ばされて、最後、ノイズにすっかり覆われてしまった。

アレックス・ロス「20世紀を語る音楽」にはこのようにあった。「音楽はときとしてノイズに似ている。なぜなら音楽はまさにノイズだ」「どこにいようと聞こえてくるのはほとんどノイズだ。ノイズは無視するとかえって邪魔になる。耳をすますとその魅力が分かる」

イタロ・カルヴィーノは「なぜ古典を読むのか」の中で「みんなにとって大事なこと」を「時事問題」と呼び、それを「窓の外のノイズ」に例えた。そしてそのノイズは絶対に必要なものであると。なぜならそれは、自分が今どこにいるのかを指し示す指標だから。そしてこう言った。「ノイズを BGM にしてしまうのが古典である」そして「もっとも相容れないたぐいのノイズがこの世界をすべてを覆っているときでさえ BGM のようにささやきつづけるのが、古典だ」と。

7.1

ノイズとはいったいなんなのか。情報理論においてシグナルとノイズは明確に区別出来ることになっている。クルートレイン・マニフェストによるとこうある「インターネットとは一連の合意の総体である。それはプロトコルと呼ばれる」。プロトコルから外れた情報は打ち捨てられる運命だ。

生物学においてシグナルとノイズは区別がつかない。そもそもその区別に意味がない。ユクスキュルはそれぞれの生物はそれぞれの環世界を持つとした。環境から受け取る情報を元に、それぞれの環世界を構築している。情報には、利用されるものと利用されないものの区別しかない。森田真生は「数学する身体」でこう言った。「設計者のいないボトムアップ、つまり「進化」では使えるものは見境なくなんでも使われる」「物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はない」。

人間もそれぞれがそれぞれの環世界を築いている。そして他者とのコミュニケーション、対話においてもシグナルとノイズの区別に意味はない。使えるものは見境なくなんでも使われる。たとえ傍目からはそれがノイズに見えたとしても。

7.2

かつて marco11 はこう言った。「アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う」。これはわれわれにとっての聖典、イコン、古典である。

みんなにとって大事なことには何度も何度も出会うことになる。自分にとって大事なことには出会うことさえないかもしれない。

8.0

クルートレイン・マニフェストはこう宣言する。「インターネットではわれわれがメディアだ」。

藤井正希によると、マクルーハンはメディアを「人間の生み出したテクノロジーの別名であり、それは人間の能力を外化、拡張したものを指す」と定義した。そしてそれを2つに分けた。「コミュニケーションに用いられるメディア」と「能力拡張のテクノロジーとしてのメディア」。

はたして、インターネットはコミュニケーションのためのメディアなのだろうか。それとも、人間の能力が拡張されたものなのだろうか。

8.1

マクルーハンは、テクノロジーの進歩とコミュニケーションの変化を「グーテンベルクの銀河系」から「グローバル・ヴィレッジ」への変化と捉えた。われわれは銀河系の住人からムラの住人になろうとしている。

「グローバル・ヴィレッジ」、グローバルという大きな世界を表す言葉とヴィレッジという小さなムラを表す言葉の合成。大きさと小ささ。スケールの大きさとその中に含まれる断裂、対立、分断のイメージ。

鷲田清一は、宇野重規「民主主義のつくり方」の書評にこう書いた。「統合ではなく対立や分断を内に抱えていることが社会の構成要件になってゆく」。断裂、対立、分断は歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

8.2

クルートレイン・マニフェスト、その冒頭でインターネットが抱える3つの脅威について触れている。一つ目は「愚か者」、愚か者はいつだって勝手に地雷を踏み抜いて爆発する。場合によってはわれわれを道連れにしたりする。二つ目は「略奪者」、略奪者はいつでも親切に良心的な顔をしてわれわれをコケにしようと近づいてくる。

そして最後に、最も危険なのは三番目の大群「われわれ」であると。

だがしかし、インターネットが築き上げた栄光は、この大群で未分化で個別でバラバラなわれわれを結びつけたことにあったはずなのだ。

8.3

COVID-19 の感染拡大は、この世界、インターネットだけではなくて、この毎日、まさにこの生活の場が、目に見えない大きなネットワークを成していることを明らかにした。無症状感染と人流と感染経路と検査陽性率と実行再生産数、たちまち動きを止めたサプライチェーン、滞留し停滞するロジスティクス、乖離する実体経済と金融市場、混乱し混沌と化す政府と地方自治。断裂、対立、分断は何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

われわれは、一人ひとりバラバラの人間がてんでバラバラに存在いているのではなくて、それぞれがリンクしている。その全体の繋がり、広がりにこそ本質がある。全てのリンクは繋がっている。

9.0

世界との向き合い方について、カート・ヴォネガットはこう言っている。「二つある」。

「まず、宇宙全体をきちんとするなんてことはできないと認めること」、「そうして二番目は、それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ。粘土の塊とか、四角いキャンバスとか、紙切れとか、そうしたものを」。

9.1

「20世紀を語る音楽」の最後にこうある。

「反復的音楽はよりしばしば、この後期資本主義消費社会において、私たちみなが繰り返し (また練り返し、そしてまた繰り返し…) 直面しなくてはならない数多くの反復的関係性を目の当たりにして、感謝と警告と防御 (あるいはただ美的なスリルさえも) を提供してきた。私たちはこの文化のなかで同じことを繰り返してきた。私たちは同じことを繰り返し尽くすことができるかもしれない」。

9.2

私たちは繰り返し、また練り返し、そしてまた繰り返し、繰り返し続けてきたことを、繰り返し尽くすことができるかもしれない。

繰り返し尽くすことができるかもしれない。

outro

2021.12.01 Wednesday 2021AC2021 Day-1

「場は凪いでいるが人々の無関心、悪意、どうでもイイ戯言に注意。閾値を超えれば場の雰囲気は急変する。」

「潜るならフォールラインを。かつてリブロガーどもは一晩で 7889post を実行した。いまやビットは濁流となってわれわれを押し流し続けている。それでもここに留まろうとする者には、リンクを繋ぐこと、ノイズに耳をすますこと、繰り返しまた練り返しそしてまた繰り返し尽くすことが、きっと力を与えるだろう。それは自分を守るだけでなく仲間の命も守る。良い祝祭を。」


この post は 2021 Advent Calendar 2021 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は esehara サンです。お楽しみに。

今週末の良かったこと

gyazo.com

せせらぎ

今週末のプレイリスト。

1曲目は1年前のプレイリストから菅原明朗 "Ruscello" イタリア語で小川、せせらぎとのこと。御喜 美江 Mie Miki のアコーディオンで。2曲目はいま、掘っているジャン・シベリウスの交響曲第3番の第1楽章。3曲目は1年前のプレイリスト1曲目、スチャダラパー "World IZ... (ヤバイ男知り合いにひとりイル)" から J.S.バッハ のカンタータ140番第4曲コラール。

ja.wikipedia.org

で、4曲目が出色で、 Jacob Mann Big Band "Kogi" 。最初の3曲はこの4分ばかしの曲のための壮大なるイントロになっている、みたいな。

今週末のプレイリストのルール (2021/12月 現在)

  • 1) 1曲目はちょうど1年前のプレイリストから選ぶ
  • 2) 全部で60分
  • 3) 同じ演奏者、アルバムから2つ入れない
  • 4) 同じ雰囲気で3曲続けない
  • 5) 知ってるヤツより知らないヤツ
  • 6) 外すときは好きな曲から
  • 7) チャンスがあれば大いにパクる

1曲目を選ぶルールは2年目に突入するときに変えた。

今週末の良かったこと - copy and destroy

それで1曲目を、「心のベストテン」(好きとか嫌いとかの外側にある曲)から選ぶという縛りから、1年前の「今週末のプレイリスト」から選ぶというルールに変更した。

それから、

甲府 vs 山口 アウェイ 1-0 勝利。

2位、京都との勝点差6、で迎えた第41節。残り試合は2試合。執念や覚悟を感じる素晴らしい試合だった。だがしかし、同一時刻の試合だった京都が引き分けて、甲府の J1 への挑戦は終わった。

次節、ホーム最終戦。勝っても負けても引き分けても、次の試合が一番大事。最後の最後の最後の最後に、必ず、右肩上がりで。

それからそれから、

adventar.org

2021AC2021 の第一日目に向けて、書いては読み、読んでは書いた。ちょっと体調不良なのと基本、シングルタスクなので、山も走っていないし、本も読んでいない。みなさん進捗はいかがですか? がんばりましょう、がんばります。

gyazo.com

今週末の良かったこと

みのぶまんじゅう

みのぶまんじゅうとベスト・オブ・ザ・イヤーの記事を書いている様子です。書きまくっている。

ベスト・オブ・ザ・イヤーと弱いつながりの話

ベスト・オブ・ザ・イヤーなアドベントカレンダー、25枠が埋まった。こんなわけのわからないアドベントカレンダーが毎年ちゃんと枠が埋まって続いていること、感謝しかない。

https://twitter.com/taizooo/status/1460895797113880579

残り1枠が埋まった瞬間の記録です

ラインナップから溢れる、オレの考える「インターネット感」が半端ない。今年もニューカマーが6名。old skool な面々からフレッシュな人たち、トレイルを走る人たちと世界にコードを刻む人たちとインターネットに潜る人たち。オレを接続点にして、すべての人が薄く弱くリンクしている、というのがまたなんとも言えない。つながるはずのないリンクがつながっている。バラバシ、バラバーシ・アルベルト・ラースローは、ただひとりの人との繋がりをもっているだけで世界中の人とつながると言っていた。

https://blog.goo.ne.jp/hajimetenotetugaku/e/ab4998d2ba7f2669d71a1d0396dd568d

リンクが臨界数に達したとき、ネットワークに根本的な変化が生じるのである。

閾値は1だ。

マーク・グラノヴェッターの「弱いつながり」(弱い紐帯の強さ)の話

今週末のプレイリスト

今週末のプレイリスト。1曲目は1年前のプレイリストからマイク・クーパーの "Bad Tempered Unprepared Guitar" 。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2020/12/01/000000

願わくば大好きなこの場所が、調整されていない不用意なインターネットであり続けますように。

2曲目はグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲。ゴルトベルク変奏曲、思い入れがある。

あと2節、残り2試合、勝点差は6

甲府 vs 秋田 アウェイ 2-0 勝利。


https://www.ventforet.jp/vfkdiary/cate02/521550

これは、試合が始まる前の写真、シリアスにならざる得ないこのタイミングに最高の写真じゃないだろうか。野津田って本当に最高の選手だと思う。そしてなんとか一矢報いようとして無表情に務める鳥海とニコニコな荒木。奇跡が起きないかな、起きてほしいな。シーズンの最後の最後に、まだ希望を持って試合に望める我々は、本当に最高なチームを応援しているんだと思う。

勝っても負けても引き分けても、次の試合が一番大事。そして最後は右肩上がりで。

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