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日記について(「おくのほそ道」と「曾良随行日記」から)

日記を読むこと。それは、ライフワークだ。

インターネットで「先見日記」を再発見したことから始まって、その後、「オン・ザ・ロード」「ボリビアンダイアリー」「イワン・デニーソヴィッチの一日」「ビーグル号航海記」「仰臥漫録」「修善寺大患日記」「火星の人」そして「百代の過客<続>」と続いていて小説もフィクションもその他いろいろも日記とみなしてたりしている。

角川文庫「新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き」、ゴールデンウィーク(なんと、沖縄旅行!!!)に「本文」を読んで(実際には文庫本で50ページくらいしかない)、それから「本文評釈」「解説」「発句評釈」の順で読んだ。そしていま「曾良随行日記」を読んでいる。

「おくのほそ道」を読み出したのは、深夜ドラマ「サイタマノラッパー」に感化されたから。サブタイトルが「マイクの細道」で、完全にロードムービーな感じで、あれ、ひょっとして「おくのほそ道」ってロードムービーな感じに読めるかも、と思ったのがその発端。

「曾良随行日記」、味も素っ気もなくて、まるで自分が書いている三年日記を読んでいるみたい。何月何日、何時に出発した、何処から何里進んで、何処其処から何丁進んで、どこそこに寄って、とある家に宿をとった、みたいなことが書かれている。それと比べると「おくのほそ道」は本当に文学的。

日記、普通に書くと、箇条書き的に起こった事柄を書くことになる。あまり心情的なことって書けない。

よほど詩的な素養か訓練がある人じゃないと、あまり唐突に心情だけを吐露することが出来ない。それはたぶん「書く」というのは「読む」というのを前提にしているからで、なにか思ったことを書こうとすると、その理由や因果を説明しなければならなくなる。そういうのはとても面倒。理由や因果を説明しないで文章として成立するような詩的な文章を書ける人はなかなかいない。

じゃあ、そういう説明とか因果をすっ飛ばしてバラバラに断片を書こうとすると、それもまたごく普通の才能の人間にはなかなか難しい。そういうのはまたそのための特別な才能や訓練が必要だと思う。

「おくのほそ道」はおそらく一生かけて書き直してて、何回も何回も推敲を重ねてて、どうも虚実ないまぜに作られてる。なぜそうなのか。それはそっちの方が文学的だから。

産業革命は、その頃の人たちが名付けた名称ではなくて、未来の人が過去を振り返って、その変化を革命と読んだ、という経緯がある。産業革命の中で生きた人たちは、それが革命だとは思っていなかった。そういうふうに、変化は小さく小さく、徐々に徐々に日々の中に起こる。その最中にいる私たちは、それを関知することが出来ない。

毎日のことを真面目に日記に書こうとすると「曾良随行日記」みたいに、ただひたすら愚直に起きた事柄を並べ立てるしか出来ない。そうでなければ、ちょっとした小さな引っかかりを増幅して、さも大きなドラマとして書くかしかない。前者は全然面白くないし、後者は疲れるし、だいたいにおいて間違った認識だったりする。

ドナルド・キーンは「百代の過客」で、たいていの日記は退屈で全然面白くない、と言っていた。面白い日記はだいたい、後から書き直されている。脚色されている、と言っている。

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