三年日記
三年分が終わって、新しい三年日記になった。三日で終わる予想は大きく期待を裏切って三週間、三ヶ月、三年と大幅に記録を更新した。三年日記、まっさらなページに何かを書くことが出来るのは一年目だけなので、めくるページ、めくるページが真っ白で新鮮。
流れを読む話
今年も正月休みを生き延びた。そのための心構えについて貼っておく。何回でも貼る。自戒の念を込めて。
自分のペースが保てないときには、流れに逆らうんじゃなくて、流れに上手いこと乗るようにする
したたかさとか邪気のなさとかそういう強さ。
悪いときは悪いなりに、良いときは良いなりに、そこになにかの流れを見出していくこと
流れを読むというのは、なにも見えないところから何かを見出すことで、
あれをしたい、これをしたいという「我」を張らないようにした。正月は神様のためのものなので。ここで簡単に「神様」と言っているけども、ようは「自分ではない何か」全般を指して「神様」と言っている。
出来ることなら年末年始という特別な時だけではなくて毎日をそういうふうに過ごしたい。
床屋の話
髪ボサボサだけど、寒すぎて床屋には行きたくなかった。なにかと理由をつけて、いろいろなものを先送りしている。あるものは翌日へ、あるものは来週へ、そしてまたあるものは来月へ。
毎年、年末は忙しくて髪切りに行けない。もうホントに毎年毎年。で、今年は訳あって年明けてすぐに床屋へ行った。明けると床屋も空いている。年末のクソ忙しさをどうやって切り抜けたのかという、床屋のおかみさんの何割増しか盛っている話を、聞くとはなしに聞きながら髪を切ってもらった。ほとんど味のしないホットコーヒーをごちそうになって帰ってきた。
積読について
この積読の山の中にある大物は、アダム・スミス「国富論」とチャールズ・ダーウィン「人間の由来」。そろそろいきたいとは思っている(いくとは言っていない)。
ということで、
2019年はあっけなく始まったが、例年通り、新年の誓いとか抱負とか目的とか目標はない。週末まで生き延びて月曜日が来たら書くだけ。繰り返し、繰り返すこと。