copy and destroy

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今週末の良かったこと

せとか

この冬はどれだけミカンとか柑橘類を食べたかわからない。せとか、いよいよ終わりを迎えつつあって、はねだしもの。

彼岸桜

公園の彼岸桜は八分咲き。一週間くらい早い。

読書

サッカーが始まらないから頭にキテ、金曜日、仕事帰りに雑誌を二冊買って帰ってきた。

思いのほか面白くて、で、土曜日の天気が雨で走らなかったので本屋へ行った。そして新たに積読が追加された。

片方はサッカーで「戦術的ピリオダイゼーション」というか「ゲームモデル」の話。
こちらのキーワードは「言語化」と「視覚化」。

もう一方は野球で「セイバーメトリクス」というか「マネーボール」のその後というか「数値化からこぼれ落ちるものを拾う」みたいな感じ。
で、こちらのキーワードは「成長マインドセット」。

視覚化と言語化

「2019年を探す」のバック・トゥ・ザ・フューチャーのところで書いたんだけど、 VHS の普及によってスケートボードの世界ではトリックのレベルが上がって、コミュニティーの連携が深まった、というのがある。「視覚化」の話。

1980年代、スケートボードは何回目かの死を迎えていた。忘却と再生というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。ブームの終焉とともにスケートパークを失った彼らはその場をストリートに求める。新しい兆しはいつでも、ぶっ壊れている中から生まれる。当時、スケート・シーンはアメリカの各地に分断されていた。それをかろうじて繋ぎ合わせていたのはスケート雑誌の写真と記事。動かない写真からトリックやムーブを想像する。想像力だけがものをいった。

1985年、バック・トゥ・ザ・フューチャーが公開される。ハレルヤ。マーティ・マクフライはキックスクーターのハンドルを取っ払って街を駆け抜ける。ほどなくしてスケート・ムービーの時代がやって来る。

そのムーブメントはいまだに止まっていなくて、あらゆる分野に広がっているんだけど、

いまの子たち(短距離)の雰囲気ですが、スマホやタブレットの映像を上手に使ったりトップ選手の youtube をリピートしたり、イメージと感覚と実際を凄いスピードですり合わせてる感じがあります

それはもう息をするように

で、外から見た形の話と、意識的無意識的な動きの話は、われわれの感覚と違って、あまり区別が明確ではないみたいな。あえて言語化が必要な閾値が上がっているというか、

また一方で、こんな話もある。「言語化」の話。

スイミング界隈の人と話したんだけど、いまは間違いなく競技者、コーチ、場合によっては観客も(つまりファンとかサポータも)、身体性について言語化のレベルが上がっていて、そういうことが競技レベル向上に繋がっている。間違いない、って話でした。

「視覚化」と「言語化」というのは相反するものではなくて、直交している2つの軸だったりする。それは X-Y 平面を構成する。ベクトルはその2つの合成によって決まる。

理論と実践、分断と融合

人類は電磁気学もなにも知らないうちに電信線で大西洋をつないだ。一番最初に莫大な費用をつぎ込んだ電信線はわずか数時間の通信で解けてしまった。科学は工学を後追いしている。このことを忘れてはいけないと思う。 実践が理論に先行する。

ベスト・オブ・ザ・イヤーのアドベント・カレンダーをやるようになってインターネットの人、コードの人、アートの人、アクティビティの人、いろいろな人がいるのを知った。面白いと思うのは、カッコイイ人たちはみんな、息をするように「実践」しているということ。

で、このときに抵抗というか反作用というか逆向きに働く力みたいなのがあって、それは分断や対立を呼ぶようなもの言いだったり態度だったりする。それは無自覚だったり、無邪気だったりする。

多様性を重んじますが。その多様性をカテゴライズ、ラベルに紐づけて、世界を分断、対立させていく動きには断固として立ち向かわなければいけない

インターネットを守るために

覚悟

先週、じつは体調が整わなくて、「適当に身体を動かす活動」滞った。月曜日、火曜日、水曜日とノラリクラリとやり過ごして木曜日にリカバリーに成功した。いままでだとわざわざ心と身体に負荷をかけてドツボにハマるパターンだったろうと思うけど、少しは成長していて(皆さんに朗報です! オッサンであっても成長可能)、そういったことに対処できるようになった。全然余裕ではない。必死にバランスをとっている。一生懸命。生活するっていうのはそういうことなんだろう。

人間というのは感情や気分に大きく影響を受けている。そういうストレスとかを甘くみちゃいけないし、自分自身にはやさしくしてあげないといけない。

covid-19 なんとなくわかってきたことが増えてきて、ちょっとはマシなパターンも、ウゲっという最悪なパターンも見えてきた。でもそれよりもこれを受け入れる覚悟が出てきた気がする。それは「慣れた」ということかもしれない。もしくは「飽きた」。

日常っていうのはたとえ戦争がドンパチ始まっても、空から降ってくるものに雨や花粉だけではなくミサイルや放射線が含まれるようになっても、そこら中に活断層が走っていることに気がついても、自分の寿命がじつは毎日毎日どんどんゴールに近づいていることに気がついても、そんなことにはお構いなく、朝が来たらベッドから起き上がって、夜になったら畳むべき洗濯物を畳んで、ってことなんだろう。

ファイティングポーズをとるわけじゃないけど、そういうのを覚悟っていうのかな、などと思う。

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