日記の練習です。
純粋に、ただ体を動かしたい、応援したい、書きたい、読みたい、描きたい、見たい。これら説明のつけ難い、根源的な人間の欲求は全て同じ類のものであり、そして、それは、絵や物語だけでなく、走りの中にもあり、無限の広がりをもっていると言えるのではないか。 https://t.co/AAHAlSmVWn
— twwp™ (@taizooo) 2025年3月23日
以下、本文より抜粋。
まず現在偶然にもプロの日本人ランナーとして存在してしまっている私は、評価と結果の蓄積だけで己の血を通わせてきた訳ではない。結果を出そうと躍起になりながらも、よく考えればオリンピックも世界陸上もダイヤモンドリーグも駅伝も、誰に頼まれることなく気付けば走ろうとしてきたものだし、評価されないレースや種目にも好んで取り組んできた。
絵や物語など、たとえ望む形にならなくても、形になって失われていくものでも、人間が心から求めるもの、憧れの集合体が文化だとしたら、結果と固執と金銭的な価値だけで、スポーツという文化は生き残ってきたものでないと言える。文化というものを生み出す人間も、それらを育む風土も、全て無機物の塊でないのと同じことだ。
ただその源となる、憧れというものの正体は、漠として掴めないのはどうしたことか。
純粋に、ただ体を動かしたい、応援したい、書きたい、読みたい、描きたい、見たい。これら説明のつけ難い、根源的な人間の欲求は全て同じ類のものであり、私が絵になりたかった憧れも、クローディアが秘密を知りたかった憧れも、元を辿れば同じ類のもののようだとは言える。
そして、人間が抱く憧れの対象は、絵や物語だけでなく、走りの中にもあり、無限の広がりをもっていると言えるのではないか。