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linklog 2025-04-07

ブルーノ・ムナーリのビジュアル・コミュニケーション

https://design-cecilia-polidori-2014-2.blogspot.com/2014/04/una-semplice-lista-della-spesa-del-xvi.html

通信とは、送信者から始まり、 特定のコードを通じて受信者に届く情報を交換することを意味します。しかし、コミュニケーションは 無意識のうちに行われる可能 性があり、自由な解釈が働くと、送信されたものと比べて歪んだメッセージが届く可能性があるということ、あるいは、受信者が意味をコード化できる共有コードを使用して意図的に行われる可能性があることを考慮する必要があります。それでも、この最後のケースでも、感覚的、操作的、文化的な変数が影響し、伝えようとしていることの認識が変わる可能性があります。

https://it.wikipedia.org/wiki/Comunicazione_visiva

視覚的コミュニケーションは、現実を比喩的に表現する画像(そのため、ギリシャ語の「イメージ」を意味するeikonから、アイコニックコミュニケーションと呼ばれることもある)を通じてメッセージを伝達するものである[ 1 ]。画像を介したコミュニケーションは、その強力な吸引力、多くの場合即時の理解可能性、そして記憶の容易さのおかげで、可能な限り短い時間で最大のコミュニケーション効果を達成することができます。それは、写真、グラフィック、絵画、文章、ビデオなどのさまざまなツールを通じて実現できます。

https://x.com/taizooo/status/1908337137050935382

第2部「ヴィジュアル・コミュニケーション」第2節 ヴィジュアル・メッセージ p96.ff

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https://x.com/taizooo/status/1908705173318623434

ムナーリ『デザインとヴィジュアル・コミュニケーション』、小口を見ればわかるけど、そのほとんどが図表、図版、写真。凄まじい物量

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https://scrapbox.io/taizooo/ブルーノ・ムナーリのヴィジュアル・メッセージ

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優秀な印刷工が新刊を手に取ると、まず表紙を見て裏を見る。そしてしっかりと指で折り目をつけながら本を開く。どのようにレイアウトされているか、書体は何を使っているか、オリジナルの文字なのか、どこから借用してきたのか。じっくりとタイポグラフィーの特徴を見る。紙を触りながら綴じ方に目を移し、背表紙を見る。丸みを帯びているのか、角張っているのか、どのように本文が始まるのか(どのくらいの高さか)、どのくらいの余白があるのか、ページ数はどこに打ってあるか、その他いろいろなことについてじっくりと批評のまなざしを向ける。

一方印刷について何の知識もない読み手は、タイトルを読み、値段を確認して、購入し、本文を読む。どんな文字の題字だったか聞いてみても無駄。何も分からないし、興味もない。彼のもつ個人的イメージの世界には、こういったことはなんの接点もない。なぜなら、まずうそれについて知っている事柄がなく、どんなタイポグラフィーの文字かなんてことは見てもいないのだから。

銅像の犬(三部作)

https://dragonboss.hatenadiary.com/entry/2025/04/04/225818

心なしか嬉しそうであった、もちろん気のせいである、気のせいだがそういう事にしておいた。ここまで来たら、まぁ次の建て替えくらいまではそこに居続けるだろう。もはや顔を合わせる時は少ないだろうから、銅像の犬に言うのもなんだが、いやあえて言っておこう、犬よ、幸あれ、と。

https://dragonboss.hatenadiary.com/entry/2024/05/14/220638

今日もまだ犬はそこにいて、こちらを見ていた。

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https://dragonboss.hatenadiary.com/entry/2024/08/09/230343

犬の周りから草が生えてきていて、何だか『もののけ姫』のシシ神みたいだなと思ったけれど、シシ神は踏んだあたりから草が生えては枯れていくのに対し、この犬は生えっぱなしなので、犬の方が生命を司っている気がしてきた。いつまでもそこにいてくれ。

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etc

https://tokyomariegold.tumblr.com/post/779901417692495872

「なんだ、友達いないと思ってた」

https://allreviews.jp/review/7279/

それにしても、世界中で行われている詩祭のなんと多様なことか。ストゥルガの詩祭は国家的行事で、詩人たちは大統領府に招かれる。ニカラグアのグラナダでは「ポエタ」(詩人)はモテモテで、女子学生の大群に(!)取り巻かれる。アントワープではかつて公衆浴場だった廃墟ビルに二百人が詰めかけ、明方まで詩と音楽の競演だ。

https://allreviews.jp/review/7099/

「いい言葉遣いではなく、いい加減でない言葉を心がけるか否かの違い」を意識して正しく運用した日本語は、「人間をどう生きるかに繋がってゆく」命綱となる。

https://arimuri.hatenablog.com/entry/2025/04/04/204457

日常の些細な機微を愛していこうね、みたいなのとも少し違っているから説明が難しい。自分は、アリーナで素晴らしいライブをみた感動も、朝カーテンを開けていい天気だった時の気分の良さも、同じレイヤーで捉えているところがある。極端な話、親族が死んでも一切心が動かないかもしれないし、スーパーで野菜を見て感動で泣いてしまうかもしれない、出来事の重大さと心の振れ幅の大きさは(そりゃ多少は相関はあるが)そんなに関係がない、

https://arimuri.hatenablog.com/entry/2025/04/06/150645

文字通り「よすぎるとよくない」わけではなく、よくする(ベクトルを長くする)過程で、往々にして、複数人の”よさ”の協奏を伴う都合上、向いている方向がぼやけがちな傾向を嫌がっているだけの話である。圧倒的なパフォーマンスを見せられると、それを賞賛せずにはいられない。一方で、よすぎるからといって、方向は方向でしかない。どっちを向いているのか。自分の思う良き鑑賞態度というのは、方向の認知の精度が高いことである。自分の方向が知りたいから音楽を作る。

https://note.com/mmmmm_mmmmm/n/n3f883a2d76ec

物理空間という別の全体の中に身を置くと,夢がたちまちに部分になってしまう.部分となった夢を書き残そうとすると,夢はさらに部分的になっていく.夢として感じている部分で文字にできる部分だけが残されていく.文字にして残すと,そこだけが残って,その文字から想起される夢の一部であったものを書くことになって,夢そのものではなくて,夢の一部が文字となってそこから想起されたものが,夢の断片となって残されていく.いくら書いても夢の全体に辿り着かないという諦めとともに,

https://yuta25.on.bolg.in/p/4VL5M6CSo1DhKnm9200b2a

入学祝いにすき焼きを振る舞いました。

https://lmnt.me/blog/chiefs-20th-birthday.html

チーフは経験豊富な旅行家ですが、次のフライトは今までで一番長いフライトでした。シアトルから私たちが現在住んでいる東京まで 13 時間です。彼を入国させるのに必要な検査や書類手続きは、私自身のものに匹敵するほどでした。

https://lmnt.me/blog/wallpapers/yamanote.html

この緑色の四角いハーフトーンの塗装は、山手線のすべての E235 系電車の車体に施されています。

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