日記の練習です。
ロールズは自分たちのことを注釈家と呼ぶ(そしてカントやヘーゲルたちのことを著述家と呼ぶ)。
で『鉄鼠の檻』の話。
気がつくとこの本を注釈家が書いた本みたいに読もうとしてしまうんだけど。それはこの物語のなかで、禅の歴史、禅宗とは、科学と信仰の関係。理性と「理性では推し量れないもの」(一言でなんと呼べばいいかわからない)の関係、判ることと判らないことの関係、美(等しく美しいと感じること)と芸術(カテゴリーとしての)と芸能(絵画、陶器、工芸といったそれぞれ)の関係、とかとか、そういった事柄が登場人物の口を借りて一つ一つ、あちらこちらで気まぐれに緻密に語られ提示されているからで、
でもそういう読み方って、小説読みとしては下の下で、小説には小説の読み方がたぶんある。それからは逸脱しつつある。
小説、日記とは明らかに違ってて、物語にまったく関係ない人が現れない。すべての出来事は物語の最後に回収されるために起きる(意図して回収されないこともある)。すべてに意味がある(読者がそれを理解できないとしても)。作者がたとえすべてをコントロールできていないとしても、なにが起きるのかを俯瞰して見ている。それは創造者のいる世界。神の視点。
日記、というか僕らの日常には意味のある出来事はめったに起こらない(僕らがそれを理解できていないのかもしれない)。登場する人々も、意味とかそんなこと全然関係なく、現れたり遠ざかったり近づいたり消えてしまったりする。日記のような小説、それはたぶんおそらく恐ろしいほど退屈な物語だと思う。それでも自分のものではない誰かの日常(損得勘定も感情移入もまったくないどこかの誰かの日常)はまるで小説のように見えるのだろうか。傍観者の視点。