それは 2025AC2025 と呼ばれます
2025年のベスト・オブ・ザ・イヤーが終わってからひと月がたちました。もう2026年も十二分の一を経過しました。なんてことだ。あんなに熱に絆されていたのにもう何光年も彼方のできごとのようです。
今回のベスト・オブ・ザ・イヤーは
毎年もう本当に集中して、みんなの post を読むんだけど、今回はたくさんコピー・アンド・ペーストした。それは引用であったり、関係するなにがしかの事柄であったり、私見であったり。いままではあまり私情というか私心を持ち込まないようにしていたんだけど、タガが外れた。
四方八方に飛び交うリンク
自分自身のベストは、というと、ちょっと、というか、けっこう、というか、かなり苦戦して、結局はその年の終わりになって読んだたった一冊の本、『鉄鼠の檻』を膨大に引用して終わった。
牛と鼠について。簡単にまとめると身も蓋もないけど、禅宗と怪異の話。切羽詰まっていたので自分自身でもなにに心が囚われていたのか全然わかっていなくて、いつもだと書いたらもう二度と読まないって思うんだけど、今回は、結構、何回も読み直していた。それからもうずっと、それこそ正月休みが終わるまでずっと、そのことばっかり考えていたんだけれど、このままじゃダメだ。なにも手につかなくなってしまう、いったん忘れよう、なんてことで捨て置いて結局、そのままひと月たってしまった。もう色々なことを忘れてしまっているけれど、
「宿題」ということで、いろいろ書き溜めていた。
トンカチを持っているとあらゆるものがクギに見えるように、なにかに気づいていしまうとすべてがリンクして見えてくるというけれど、はたしてどんなリンクが四方八方に飛び交っていたのか。
西域探検紀行全集とか井筒俊彦とかプラナカンとか
ここで話をうんと端折る。
今年の『2025年を探す』でそのようにしか書けなかったそれが、 hysysk サンのベストを見た辺りで「アレ?」と思い、 nagata サンのベストで芯に喰らって、そして一苦労して復元した youpy のネットプリントの中にも驚いたことにそれはあった。
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2025/12/10/215441
hysysk サンのバンコクへのロングステイと「アジア美術アーカイブ」、nagata サンの「存在が花す」と井筒俊彦の「東洋」の話、youpy サンの『西域探検紀行全集』(ここでの「西域」とは中国にとっての西の地域を指す)の話、quoposk サンの『岬の兄妹』と境界と間(あわい、あはひ)の話、suyhnc サンの大江健三郎という本を読む話、 yomoyomo サンのジョー・チャット・ロードのトムとジェリーとプラナカンの話、tomoyayazaki サンの呪いと祈りと信仰の話、
そして僕の牛と鼠の話。
正月とか節分とか丙午とか
ここで話をちょっと巻き戻す。
ジョン・ロールズ『道徳哲学史講義』で、ロールズはその序文で、近代道徳哲学(それは17世紀から18世紀に成立して、現代に地続きになっているもの)は、16世紀の宗教改革が契機になっている、と言っていて、そのキーになる著述家はすべてプロテスタントだったと述べている。そしてさも当然のように道徳や倫理という概念と、宗教(ここでいう宗教は一神教であるキリスト教やユダヤ教のこと)や信仰を結びつけている。
が、残念ながら、そのことは僕らにとってはまったく、さも当然なことではないのだった。言っていることはわかる。わかるのだが言っていることそのままでは、僕らにはまったく共感できないのだ。
またここでちょっと話を端折る。
だいぶ昔、全然関係ないちょっとしたことがきっかけで、なぜか孔子『論語』を読んだ。漢語と現代語訳が併記されていて、当然、漢語の方は全然なんだけど、書かれている内容はスーっと理解できた。
ここ最近、Folkways Records や Nonesuch Records 、そしてたまたま発見した Death Is Not The End というレーベルの民族音楽に嵌っていて、そしてひょんなきっかけで金沢明子が歌う津軽民謡をプレイリストにコンパイルした。全然違和感がない。耳にスーっと入ってくる。
ベスト・オブ・ザ・イヤーが終わって正月がやってきて、うかうかしていたら節分が昨日終わったとか、今年は60年に一度の丙午(ひのえうま)、だとか、そんなニュースもスーっと理解できる
ユーラシア大陸の東の端に住む僕ら
百種のアルファベットを持ち、数万の漢字を持ち、七十二の季節を持ち、八百万の神を持ち、歳月が十二年と十年の二重周期をもって六十年で循環するという国、
https://taizooo.tumblr.com/post/98962961465
リチャード・ホロウェイ『若い読者のための宗教史』で、死者を弔うことから始まって、突如啓示に打たれたモーセ、因縁と輪廻のヒンドゥー、王子から仏陀、プラグマティックな孔子、陰と陽、バランスと相補性の老子、そしてその先の東アジアの端っこの八百万の神が棲まう、という日本列島の話につなげる。
網野善彦は、日本列島はアジアの東の端で、北の民と南の民が交流する架橋だった、と言っていた。
僕らは西洋が積み上げてきた道徳や正義や科学や思想や資本主義や民主主義や自由主義をさも当たり前のように受け入れてきているけれど、そんな僕たちの無意識の基底にはこういった玉石混交、なにもかもがミクスチャーになっている文化や風習みたいなものが流れている。
泥土かき上げる
四方八方に飛び交ったリンクをうまいこと言い表す言葉を僕は持たないけれど、
こんなミソクソみたいな、なんともいいようのない雰囲気を、リチャード・ホロウェイは(あえていうなら)神が、「泥土かき上げ」てそれは生まれた、と言った。

