日記の練習です。
ラーメンを食べに来ていた大学生の男子のひとりは曲が流れた途端に「ブンブンブン...」と楽しそうにしていた。彼は他にも「ビブラートに包んで言うけど」っていう最近流行ってるユーチューバーのネタも会話に取り入れていた。
https://twitter.com/ryohoben/status/1721494195796586897
自分はゼロ年代をまるまるティーンエイジャーとして過ごして、当時は最悪な時代だと思っていたけれど、それでも当時のポップカルチャーが懐かしくなる。対して『インフルエンサー』はいつ発表された曲なのかも知らなかった(6年前らしい)。自分にとって懐かしいものになることはきっとないだろう。
https://twitter.com/ryohoben/status/1721496810458685918
そこで自分は、ポップカルチャーに触れるということは、当人の意識にかかわらず、好意的であるか否定的であるかにもかかわらず、その時代を生きる当事者であることを背負うということだなと思ったのだった。
https://twitter.com/ryohoben/status/1721495349414826461
文脈をぶった斬って持ってきているのでアレですが、「ポップ」を享受するためには「当事者」であることが必要で、その「当事者」であるためには「ユース」さ( "YOUTH" さ) が必須、ってことを言っているのだと思う。
話は変わって、これ、書きかけで post しちゃったんだけど、
「ポップとはなんなのか」、これ、もうずっーと、本当に悠久の昔(インターネット的な過去)から追っかけてるんだけど、まあ、全然わからないんだけど、2023年のヴァンフォーレ甲府を体験することは、
https://twitter.com/taizooo/status/1721506836749439399
2016年くらいからずっと、「ポップとはなんなのか」を追いかけていて未だに全然わからないんだけど、毎年毎年飽きもせず諦めもせず、ローカルでスモールなサッカークラブを追いかけることは、まさに「今」を身体に刻みつけていると感じる。
冒頭の post の主張が、「当事者」意識には "YOUTH" が必須、というものならば、ローカルでスモールなサッカークラブを追いかけ続けることは、永遠の "YOUTH" を手に入れたのだ、と主張することも出来るだろう。
なんて言ってみたりみなかったり。