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日記の本番 2024 秋

これは2024年、秋の日記の本番です。

始まり

始まりは、このブックマークレットである*1*2*3*4

Amazonの本を国会図書館で検索する - Hatena::Let
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気になった本があったら Google で検索する。 Amazon のページがヒットする。というのは定番の流れだと思う。このブックマークレットを使うと Amazon と 国立国会図書館サーチの検索結果を接続することが出来る。国立国会図書館には出版されたすべての本が納入されている*5。だから原理原則的にはこの国立国会図書館サーチにはすべての本が登録されている。

ちょっと気になった本は Amazon の Wishlist 山脈、Cosense の砂場の海、 Twitter のタイムラインの奥底、などなど「最寄りのテキストエリア」に突っ込まれている。突っ込まれているけれども、どの記録にも大抵は、その書籍の出版社のサイトではなくて Amazon の URL が貼られている。それは URL の文字列やタイトルが(ある程度)統一されていて便利だから*6。つまり Amazon を使って書籍情報を正規化しているわけだ。

便利ではあるけれど、ある特定の私企業に、自分の大事な資産である「積読山脈」を牛耳られているっていうのはいったいどうなんだ? と、ちょっと引っかかっているところがあった。

Infobox

次は、 Cosense ( Scrapbox ) に Infobox が追加されたときである。

book_index - taizooo
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Infobox についての説明は端折る*7*8。下の画像の右側の列がそれである。

正義論 - taizooo
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Cosense にはかなりたくさんの本が Amazon の URL と一緒に貼られていた*9ので、この URL *10と Infobox の機能を利用して、国立国会図書館サーチの URL が生成されるようにした。これで大事な資産である「積読山脈」が国立国会図書館サーチと接続した。

正義論 改訂版 | NDLサーチ | 国立国会図書館
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本にはいろいろな情報が付随する。ジョン・ロールズ『正義論』改訂版ではこんな感じ。

  • 国立国会図書館請求記号: A123-J35
  • 国立国会図書館書誌ID: 000011058939
  • 国立国会図書館永続的識別子: info:ndljp/pid/10201596
  • ISBN: 978-4-314-01074-0
  • NDC9版: 321.1 : 法学

国立国会図書館では ISBN ではなく国立国会図書館書誌IDで管理されている。キーが国立国会図書館書誌ID。最初は、なぜ国際的な標準規則の ISBN じゃないのか、ダサイな、とか思っていたけれどちゃんとした理由があって、それは国立国会図書館で管理されているものが本だけではないから。あらゆる資料が管理されているらしい*11。すごい。

インターネットの図書館

その次は、国立国会図書館デジタルコレクションである。

正義論 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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国立国会図書館サーチでアカウントを作成すると*12*13*14、電子化されていて公開されている本については、Web で閲覧することができる。とっくの昔に廃番欠品になっていて入手困難で中古価格がびっくりするような値段になっている本をインターネットで読むことが出来る。OCR されていて全文検索まで出来る*15*16

これはあとあと考えてみると、国立国会図書館にジョインした、ってことだった。初めての図書館が国立国会図書館だった、ってことだ*17。国立国会図書館は見たこともなければ入ったこともないし、どこにあるのかさえ知らない。

本物の図書館

そしていよいよ、本物の図書館である。

山梨県立図書館に行って図書館利用カードを作った。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/10/10/223101

本物の図書館にジョインした。

最寄りの図書館は山梨県立図書館*18。これは、「今しかできないことをする」「一刻も早く経験する」という活動の話でもある*19*20。そして一番最初に借りてきたのはこの3冊。

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そして話は冒頭に戻る。NDC の話。図書館の本は日本十進分類表(NDC)区分表に則って分類されていて、書棚も NDC と作者名の順に並んでいる。NDC がわかればだれに頼ることなく自分で探すことが出来る*21

この話は、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』に出てくる、ローベルト・ムジール『特性のない男』の図書館司書に繋がる*22。読むべきは、本そのものではなく文献目録(書誌)、っていう話。読むべきは本そのものではなく本のネットワーク。

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インターネット、そして Amazon から、ブックマークレットと Cosens を介して、国立国会図書館サーチとデジタルコレクション、そしていよいよ図書館へ。

という感じに、この秋、読書習慣も積読山脈も大きな変化があった*23。じつのところまだ大きな変化の真っ只中にあって、この流れを乗りこなせるかどうかわからない。大波に揉みくちゃにされている。激流に飲み込まれる笹舟みたいなもんである。

返却日に追いかけられているみたい。ひたすら文字列をダーっとなぞっている感じ。なぞっているというか、視線が泳いでいるというか、紙面を泳いでいるというか。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/10/24/175907

*1:いや、実際にはもう少しだけ、その前史がある

*2:最初は nagata クンのこれ / 日本十進分類表(NDC) - nagata https://scrapbox.io/nagata/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8D%81%E9%80%B2%E5%88%86%E9%A1%9E%E8%A1%A8(NDC)

*3:それに関して僕の思ったこと。最初は NDC に否定的だった / NDC と ISBN - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/NDC_%E3%81%A8_ISBN

*4:そして yuta サンのこれ / デューイ十進分類法 - yuta25 https://scrapbox.io/yuta25/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E5%8D%81%E9%80%B2%E5%88%86%E9%A1%9E%E6%B3%95

*5:納本制度|国立国会図書館―National Diet Library https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/deposit.html

*6:ちゃんと書影もあるし

*7:いまだに公式なドキュメントが公開されていない。情報強者のみが使いこなせるとか、運が強いヤツだけが生き残れるとか、そういう弱肉強食な Web サービスには困ったものである

*8:Scrapbox の infobox について - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/Scrapbox_%E3%81%AE_infobox_%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

*9:200冊? "amazon.co.jp" の文字列で検索したけど Cosense の検索は100個までしか表示されないので、全部に Infobox のタグを貼れたかどうかわからない。全体を把握できていない

*10:正確には 、(1)URL に含まれる ISBN 番号か、または、(2)ページタイトルに含まれる書籍名

*11:そのへんは kotoriko の書いたものに詳しい / 国立国会図書館デジタルコレクション の検索結果 - 山下泰平の趣味の方法 https://cocolog-nifty.hatenablog.com/search?q=%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

*12:利用者登録(メールアドレス入力) | NDLサーチ | 国立国会図書館 https://ndlsearch.ndl.go.jp/register/mail

*13:国立国会図書館の利用者登録(個人)について|国立国会図書館―National Diet Library https://www.ndl.go.jp/jp/registration/index.html

*14:国立国会図書館の利用者登録(個人)について:本登録|国立国会図書館―National Diet Library https://www.ndl.go.jp/jp/registration/individuals_official.html

*15:電子化された時期が新しいものについては

*16:国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索、該当箇所にマーカーがつくようになった。便利。URL にも検索文字列が付記されるようになってるから、シェアもできる https://x.com/taizooo/status/1841267592427913325

*17:学生時代の学校図書館を除く

*18:山梨県立図書館 https://www.lib.pref.yamanashi.jp/

*19:「今しかできないことをする」「一刻も早く経験する」 - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/10/10/101318

*20:「一週間に一回、図書館へ行って、本屋へ行って、温泉へ行って、コーヒーを飲みに行きたい」 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/10/22/161633#%E4%BE%A1%E5%80%A4%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%84%9F%E8%A6%9A

*21:実際にはすべての本が閲覧エリアの書棚に置かれているわけではなくて、書庫に保管されている本の方が多いのでどうやって本を探すのかはテクニックと知識が必要そう

*22:『読んでいない本について堂々と語る方法』読解 - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/%E3%80%8E%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E5%A0%82%E3%80%85%E3%81%A8%E8%AA%9E%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95%E3%80%8F%E8%AA%AD%E8%A7%A3

*23:実際には読書だけではなくて、生活にも大きな変化があったのだが、その話は、運が良ければまた今度

「日記の本番」が書けない。書けないので書けることを書く

日記の練習です。

「日記の本番」が書けない。書けないので書けることを書く。しょせん書けることしか書けないのだ。

9月から大きな変化があった。8月は、それを目前に、見なかったことにしてごまかしていたのかもしれない。というか考えたくなかった。そして9月。

9月も半ばまですすんで、状況はほとんど変わっていないんだけど、不思議なもので人間は慣れる。慣れるというか飽きる。落ち込んだり後悔したり思い悩んだりすることに飽きるのだ。つまりそれでも腹は減るし、おもしろければ笑うし、夜になれば眠くなるのだ。人間は。

止まったのは読書。ギリギリ踏みとどまったのは音楽。走ることは止まらなかった。時間が解決することもあって、左腰と左脚の不具合は8割くらい戻ってきた。

時間が解決することもある。

日記の本番 2024/07

これは2024年7月の日記の本番です。

BOREDOM

中央本線を八王子あたりまで行くと視界が開けて「東京は真っ平らだ」と思うけども、二駅戻ると高尾は山の端にあって馴染のある風景になる。『ベスト・オブ・ザ・イヤー』にも参戦してもらっている tomoyayazaki クンのコーヒーショップに立ち寄った。

今週末の良かったこと(雨を避けて、インターネットから高尾、三鷹へ) - copy and destroy
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そのコーヒーショップの名前は "BOREDOM" といいます。 "BOREDOM" とは「退屈」のことです。さて「退屈」とは何なのか?

「川の始まりって?」

スチャダラパーのアルバム "WILD FANCY ALLIANCE" 『彼方からの手紙』で彼らは、誰かがつぶやいた「川って海に繋がってるんでしょ?」という一言で、その先を目指します。3時間ほどしたところで誰かがつぶやきます。「川の始まりって?」。来た道をくるりと反転、その先を目指します。ふたたび3時間ほどたったところで誰かがつぶやきます。「なんかお腹すかない?」。あっさり戻ってたらふく食って川のことなんてすっかり忘れて、そんなふうに一日が終わっていきます。これは Out & Back と呼ばれます。行けるところまで行く、来た道を戻る、無事に家まで戻って来る。 Out & Back は冒険の最小単位です。

スポットライト、ドーパミン、テストステロン

現代において人類が冒険に挑む理由はだいたい100個くらいあると考えられています。名誉、称賛、承認、バズ、ロックスター、嬌声、歓声、 etc 。情報化社会ではすべてが測定、計測、評価されます。ソーシャルネットワークの時代にはすべてが公開、共有されます。難しく、高く、より速く、照らすスポットライト、アドレナリン、ドーパミン、テストステロン、リブログ、イイネ、リツイート、これらは人類を魅了する眩しい危険なミックス・カクテルです。この魅惑的なパワーは人類を月面にまで導きました。

しかし冒険にはもっと必須で純粋で原始的な理由が存在します。根源的な核、コア、原子的、始原的、まあなんと呼んでもいい、それが「退屈」です。『彼方からの手紙』の中に、それを発見することができます。

視床下部、下垂体、扁桃体

「退屈」とは心理的・認知的な過程に関連する情動的経験のことを言います。情動、つまり感情です。怒り、恐れ、喜び、悲しみ、これらの感情は本能に依っていると考えられています。それは視床下部、下垂体、扁桃体といった生物の進化的に古い脳の領域に関係しています。情動は脊椎動物が自然淘汰を生き抜くために進化させてきたメカニズムです。僕らが抱く欲求の正体は、それに繋がる快情動、不快情動に依ると考えられています。僕たちは「退屈」を本能的に恐れています。「退屈は悪だ!」「退屈から脱出せよ!」

宇宙の秩序、人間の限界

あるスポーツの中で人類は、限界の天井を大きく突き破りつつあります。それは一見、僕らの知っているスポーツとはまったく無関係に見えたりします。そのスポーツの特徴は、宇宙の秩序である重力と、人間の限界である理性を弄んでいる点にあります。スカイダイビング、ベースジャンプ、フリークライミング、スノーボード、フリースキー、サーフィン、フリーダイビング、ウルトラランニング。これらのスポーツの発展は生物の進化スピードを大きく上回っています。その進化を担っているメカニズムは「フロー」と呼ばれてます。

"4%" のスイートスポット

ミハイ・チクセントミハイによると「フロー」は生活のあらゆる場面で発現する可能性があります。その発現はチャレンジとスキルの、あるバランスによって起こります。それは「退屈」と「不安」という感情の中間にあると考えられています。マジックナンバーは "4%" 、挑戦するべき課題が持っているスキルを4パーセント上回るときに初めて出現します。それ以上ならば不安からの恐怖、または失敗からの死を、それ以下ならば退屈からの無関心、または不注意からの敗北を。"4%" 、この僅かな差異が「フロー」のスイートスポットなのです。この僅かな差異が繰り返しという複利によって大きな変化を生み出します。

繰り返される Out & Back

人類は、この「退屈」と「不安」の間を揺れ動く、カラフルな感情のループを回し続けることで、アフリカ大陸に生存する霊長類の一種から脱し、地球上の食物連鎖の頂点に立ちました。人類は何回目かの氷河期に、ごく狭い地域に、わずか数百人という絶滅寸前にまで追い込まれましたが、その後、何回もアフリカ大陸からの脱出を試みています。その冒険は人類をユーラシア大陸を越えアメリカ大陸の南端へ、または台湾から太平洋を越えポリネシアの隅々にまで導きました。これらは繰り返された Out & Back 、つまり無数に繰り返された「退屈」が生み出したのだ、と言っても過言ではありません。

僕らが冒険に出る理由

以上の考察によって一つのことが明確となります。「川って海に繋がってるんでしょ?」「川の始まりって?」「なんかお腹すかない?」、すべては簡単な問いから始まります。「全部を後回しにしちゃいな」「勇気なんていらないぜ」、現代において僕たちは、冒険に挑むための理由を、なに一つ必要としていません。必要なのはただ一つ、「退屈」、ただそれだけです。

そのコーヒーショップの名前は "BOREDOM" といいます。"BOREDOM" とは「退屈」のことです。退屈、情動、不安、フロー、スイートスポット、繰り返される Out & Back 、

「飛び出せハイウェイ」

私からは、以上です。

日記の本番 2024/06 の補足

日記の本番の補足です。

6月の「日記の本番」*1の補足を書きます。

イアン・ハッキングが『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の最初でパート A 「観念の全盛期」を扱ったのかというと、まずこの時代がデカルトから始まった「観念論」のまさに全盛期だったというのが一つ、もう一つはこの時代の哲学者たちは「言語を哲学の問題であるとはみなしていなかった」ことを明確にしたかったから。

僕はすっかり「観念論」に魅せられてしまったけれども、ハッキングはべつに「観念論」を掘り下げたいわけではないので、僕を置いてきぼりにして、時代を一気に遡って20世紀まですっ飛ばしてしまうのだった。

そんなわけで写経のようにして読んでいる『言語はなぜ哲学の問題になるのか』はとっくの昔にパート B 「意味の全盛期」に移っているんだけど、ちょっと停滞している*2。そんな気分に一区切りつけるために6月の「日記の本番」を書いたというのもある。

脱線の気配がメチャメチャ漂っているので一区切りついているかどうかちょっとわからない。


ハッキングは日本語版の序文で「言語観の転換はいつ生じたのか」を新たに書き下ろしている*3。パート A 「観念の全盛期」からパート B 「意味の全盛期」への二世紀間の飛び越えについての補足が挙げられている。

「観念」から「意味」への変遷において『観念」の最後の代弁者がコンディヤック(エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック)、「意味」の時代の先駆けがヘルダー(ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー)だ。

そしてこの変遷についての鍵は「言語観」の変化で、それについての重要な文章を残しているのはミシェル・フーコーとノーム・チョムスキーだ。

脱線するための落とし穴はハッキリとしっかりと口を開いている。

日記の本番 2024/06

これは2024年6月の日記の本番です。

言語はなぜ哲学の問題になるのか - taizooo
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シナの百科事典

その百科事典にはこう書かれている。


― 動物は次のように分類される。
(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳飲み豚、(e)人魚、(f)寓話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれるもの、(i)狂乱状態のもの、(j)数え切れぬもの、(k)駱駝の毛の極細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)たった今、ツボを壊したもの、(n)遠くから蝿のように見えるもの

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

ホルヘ・ルイス・ボルヘス( Jorge Luis Borges 1899~1986 )『ジョン・ウィルキンズの分析言語』からの引用です。その百科事典は「シナの百科事典」と呼ばれています。そこで動物はこのように分類されています。「この分類自体に含まれるもの」「その他」「たった今」「蝿のように見えるもの」、分類不可能。

「観念の全盛期」

イアン・ハッキング( Ian Hacking 1936~2023 )『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の一番最初のパートのテーマは「観念の全盛期」です。それは17世紀から18世紀にかけての出来事です。

『観念』という言葉で彼(ジョン・ロック)が意味するのは、彼自身認めているように、ほとんど、人が好きに選んだ何でもよいのである。

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

これはジェフリー・ウォーノック( Geoffrey Warnock 1923~1995 )がジョン・ロック( John Locke 1632~1704 )の言う「観念」について説明したものです。何でもよい。

ロックは「観念」という語を非常に幅広い仕方で用いる。それは少なくとも次のものを含んでいる。
(a) 感覚知覚(感覚印象)、(b) 体感(痛みとかくすぐったさのようなもの)、(c) 精神的心象(イメージ) 、(d) 思考と概念

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

これはデイビッド・アームストロング( David Malet Armstrong 1926~2014 )の「観念」ついての説明です。感覚、痛み、心象、思考と概念。全部。

後の註釈家たちは17世紀の哲学者たちの「観念」というキーワードを理解するために、時代を遡り書かれたものを漁りまくって、そして絶望します。

この様子を見てハッキングは、先の「シナの百科事典」に書かれている動物の分類を並べます。そして、思考の限界、思考することの不可能性について触れます。われわれには思考できないものがある。「観念」はそれである。少なくとも現代の僕らにとっては、と。

ここで使われている「観念」という語は "idea" (イデア、イデー)という語の日本語訳として西周( Nishi Amane 1829~1897 文政12年~明治30年 )が当てたものです。もともとは仏教用語でした。1873年、明治6年、19世紀半ばのことです。

かん‐ねんクヮン‥【観念】
〘 名詞 〙
① ( ━する ) 仏語。心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。
[初出の実例]「親授二灌頂一、誦持観念」(出典:性霊集‐四(835頃)請奉為国家修法表)
「我、一心に極楽を観念するに」(出典:今昔物語集(1120頃か)一五)

観念(カンネン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

④ 哲学で、何かを意識したり、考えたりしたときに、意識のうちにあらわれる内容。人間の意識内容として与えられているあらゆる対象。
[初出の実例]「観念の字は仏語に出づ、今此書には英のアイデア、仏のイデーなる語を訳す」(出典:生性発蘊(1873)〈西周〉一)

観念(カンネン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

神から人間へ

「観念」(イデア)という言葉は時代とともに大きく変化します。

プラトン( Plato BC427~BC347 )は「イデア」を創造主である神の側に置きました。人はそれぞれみんな違う人間ですが「人間」という共通性を持ちます。これをプラトンは「人間のイデア」と呼びました。人間のイデア、犬のイデア、猫のイデア、大きさのイデア、美しさのイデア。神が世界を創造するときにその元となったものがイデア。神は「人間のイデア」から「人間」をお作り給うた。(神は「人間のクラス」から「人間のインスタンス」をお作り給うた。)

デカルト( René Descartes 1596~1650 )は「観念」(イデア)を人間の心の中にあるものとしました。ちょうどその頃、世界の中心が地球ではないことがあきらかになりつつありました。この無限の広がりをもつ世界の中で、ちっぽけな人間がいったいどうすれば世界を知ることができるのか。

「世界は神がお作り給うた」から「人はどのようにして世界を知ることができるのか」に変わりました。神にではなく僕らの心の中に「観念」はある。世界を知ることは正しい「観念」を捉えることである。どうしたら正しい「観念」を捉えることができるのか。「わたしは考える」( Cogito ergo sum )。

思考すること、視ること

ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の主題はタイトルの通り「言語」です。タイトルが全てです。わたしたちは言葉によって世界を認識しています。世界に存在する対象(個物)(意味)をその名前(言葉)(記号)を呼ぶことで指し示します。それは車のキャブレターだったり、料理の本だったり、あるいはポケットの中の硬貨だったりします。

しかし17世紀の彼らはそうではありませんでした。対象は「個物」ではなく「観念」でした。

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

『対象』(オブジェクト object )という言葉は、これと結びついている『主体』(サブジェクト subject )という言葉と同様、哲学史の内で一種の意味上の転倒を被ったのである。

サブジェクト(主体)は、かつては、例えば命題がそれについての命題であるところの当のもの、認識という処理を得る以前の、それ自体において実際に存在しているとおりのもの、のことであった。

これに対してオブジェクト(対象)は、かつては、常に『何ものかのオブジェクト』( object of ~ ) であった。欲望の対象、思考の対象は、我々の現代の意味でのオブジェクト(すなわち『ポケットの中の硬貨』のような個別的な事物)ではなかった。

「対象」のパラダイムが観念であって硬貨ではないということは、この「思考のエキゾチックなシステム」の魅力(あるいは、的外れであること)の一部をなしている。


対象は心の中にあります。ボルヘスがシナの動物たちについて書いたように、それは全く違ったエキゾチックで魅力的な思考システムでした。「観念」は黙想されるものであり「観念」は視るものでした。

(そして)観念が対象であるということは物語の半分であるにすぎない。残りの半分は、観念による推論が、見ること( seeing ) に似ているということである。

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

デカルトの世界は、徹底的に視覚的である。眼でもって視るということは、精神で知覚するということだったのである。

思考を視覚になぞらえる - taizooo

知ることが視ることを意味していたことの名残りは "Now I see." という慣用句に残っています。思考することは視ることでした。

すべては光

1665年、ロバート・フックは世界初の顕微鏡による図版集『ミクログラフィア』を出版した。フックの図版集にはコルクの薄片、針の先端、カミソリの刃先、そして怪物のように巨大なノミの姿が書かれていた。1676年、アントニー・ファン・レーウェンフックは、改良した顕微鏡で、水滴の中に微小な生物が潜んでいるのを観察した。

今週末の良かったこと(レーウェンフックの顕微鏡、デカルトの観念、詩神を召喚す、機械翻訳) - copy and destroy

17世紀は顕微鏡、望遠鏡の発明と発展の時代でした。望遠鏡は遥か彼方の天体の世界を開き、顕微鏡は人が知ることができない微細な世界の存在を開きました。

ニュートン( Isaac Newton 1642~1727 )の『光学』は1704年に発行されました。(ニュートン力学についての)『プリンキピア』はラテン語で書かれましたが、それにも関わらず文学や社会に大きな変化を与えました。『光学』はその最初から英語で書かれました。専門的な知識がない人たちでもそれを読むことができました。その影響は計り知れないほどです。

美と科学のインターフェイス - 国立国会図書館デジタルコレクション
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「ニュートン、ミューズ(詩の女神)を召喚す」。当時、(顕微鏡や望遠鏡で)なにかを「視る」ことは、すごくクールでヒップでカッコイイ行為だったのです。それは哲学とか文学とかそういう知識人の間だけではなくて、社会全体に満ちていたのだと思います。

ティム・インゴルド( Tim Ingold,1948~ )は『ラインズ』の最終章でこのよう言っています。

啓蒙思想は "Enlightenment" と呼ばれる。「光」を意味する。光は直線的に進む。進歩は同様に直線的に進むと考えられている。それはゴールが存在すること、進むべき正しい方向があること、そして自分はそれを進むのだ、という強い意志を意味する。

今週末の良かったこと(スーパーカップと光と直線と断片と希望の話) - copy and destroy

17世紀、18世紀は光の時代でした。

すべては言葉(記号)

21世紀に生きる僕らも世界を見ていますが、僕らは言葉で世界をとらえています。言葉、もう少し広く捉えると記号です。僕らは LCD や OLED の画面を通して青赤緑の三原色の点々で世界を捉えています。そこには表面だけがあります。どこまで行っても奥行きがありません。低精細度、高参与性、クールなメディア。

その事実に直面したのは日産 KICKS ( ニッサン キックス 2016~ ) の「インテリジェント ルームミラー」を使ったときのことでした。「奥行きがない!焦点が合わない!」

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僕たちは実際に振り返ることなく後方視界を確保できると思っているのと同様に、文章や映像や音楽によって世界が理解できると信じて疑いません。

冨田恭彦( Tomida Yasuhiko 1952~ )は『観念論の教室』のあとがきに「僕は、19歳の頃、数カ月の間、熱狂的な観念論者だった」と書いています。僕自身もこのミステリアスでエキゾチックで魅惑的な「観念論」にやられています。ハッキングの『言語はなぜ哲学の問題になるのか』を放っておいて、冨田サンのデカルト、ロック、カントという「観念論」に関わる一連の著作へ逸脱寸前です。

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と、まとまらないので、ここまで書いて筆を置きます(つづく)。

日記の本番 2024/05

これは2024年5月の日記の本番です。

「熱量持ってやらないとダメなんですよ」 by 武富孝介*1

https://x.com/vfk_official/status/1788164965725348326
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毎年5月は「公」の行事が多くてかなり圧迫される感じなんだけど、やっと一段落ついた感じになっている。こういう圧迫されている気分のときにはどうしても「日記の練習」が滞りがちになる。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/05/24/090400

5月、例年通り、寄せては返し寄せて返す「公」の波にもみくちゃにされながらなんとか生き延びた。

mochilon サンの日記には「良かったやつ」*1っていうタグが貼ってあって、mochilon サンの場合、それはだいたい音楽で、しかも最近はクラシカル・ミュージックであることが多いんだけど、こういう日々の記録の中に一つそういう「良かったやつ」が入っているというのはイイなー、などと思った。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/05/24/090400

というわけで、5月の「良かったやつ」を書いておく。

論理学をやっている

金子洋之『記号論理入門』をやっている。「やっている」というのはノートに書き下しながら進めているという意味で、つまり教科書を予習復習するようにやっているということを指す。

本を「読む」というのは正直な話、ちょっと手が空いた瞬間とかそういうちょっとした間に少しだけサボるように、サッと読み進めることができるのだけれど、論理学を「やる」のは、そういうスキマではできない。そして家に帰ってしまうともうそんなことする気力もなくなってしまう。というわけで帰り道、ちょっと寄り道してだいたい1時間くらい論理学を「やる」ようになった。希望は毎日なんだけど、それはちょっと無理で、だいたい週に3回くらい「やっている」。

場所はバーガーショップかファミレスか公衆浴場の無料休憩所だったりする。ノートに書き下しているので照明が重要で、左肩の上から照明が当たるような席を選んでいる。コーヒー一杯(もしくは牛乳一本)で一時間。

「やっている」のは自然演繹法というやり方で、これは4つの接続詞(論理記号)「〜でない」(否定: ¬ )、「かつ」(連言: ∧ )、「または」(選言: ∨ )、「ならば」(条件式: ⇒ )について、どういう場合にこれらの接続詞(論理記号)を使いたくなるか【導入則】、どういう主張*2をこれらの接続詞(論理記号)から導くのか【除去則】、という二点から論理を解ほぐす、というものだ*3。例題や問題を一つ一つ解いている。

論理学、ノートに書いて証明するの、メチャメチャ、フィジカルな行為っぽい*4。手で書くとなぜか解ける*5。そして楽しい*6

写経のように読む

論理学を「やって」いて、これは読書ではないのではないか、と、はたと気がついたんだけど、だからといってまたいつもみたいに、適当によその本に寄り道してしまうと、せっかくやりかけた論理学を途中でおっぽり出してしまうのではないか、というのとまた一方では、このままだと、ふつうに本を「読む」のを忘れてしまうのでは、などと行ったり来たりしていた。

ということで、エイヤッと勢いでイアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』を読み始めた。もともとは、この目次に「ウィトゲンシュタインの分節化」という章があったのが理由で、積読山脈に積み上がっていたのだった。「分節化」という言葉はマジックワードで、アリストテレスの生物学と、この「分節化」という言葉から「言語の哲学」を掘り始めたのだった*7

この本は3つのパートから成っていて、最初の「パート A」は観念説、観念論、観念主義についてで、17世紀から18世紀のトマス・ホッブズ、アントワーヌ・アルノーとピエール・ニコル(ポール・ロワイヤル)、ジョージ・バークリーから始まる(脇役にジョン・ロック、ルネ・デカルト、ジョン・スチュアート・ミル、エリザベス・アンスコムという豪華布陣)。

これを乗り越えると、進むべき「パート B 意味の全盛期」「パート C 文の全盛期」へとたどり着けるのだけれど、

いきなり全然理解できなかった。イアン・ハッキングは博覧強記でしられていて、この17世紀の話に、現代から過去の哲学者、注釈家の引用があちこちに散りばめられて、行ったり来たり、話の本筋が辿れない。まるで鬱蒼としたジャングルをたどるよう。ということで、ルール違反ギリギリ、かぎりなくグレーな姿勢で、まるで写経のようにして読み始めたのだった。

ちょっと気を抜くと違う方向に心を持っていかれる。脇道の方が本筋の様に見える。しかもそっちの方が面白そう。なんていう感じ。そもそもの始まりが言語の哲学だったのに、いまではこの見たこともない、聞いたこともない「思考のエキゾチックなシステム」*8にすっかり魅了されている。

積読山脈、再始動

「写経のように読んで」いて、これも読書ではないのではないか、と、はたと気がついたんだけど、だからといってこれ以上、違うなにかを積んだらもう取り返しがつかないのではないか。ぜんぶ中途半端かよ、というのとまた一方では、このままだと、本当に、ふつうに本を「読む」のを忘れてしまうのでは、などと行ったり来たりしていた。

ある週末 LINE にオワンクラゲの写真が送られてきた。ノーベル化学賞。「緑色発光タンパク質」(GFP)。これが積読山脈に積んであった一冊と接続した。あっという間だった。タガが外れた。また積読山脈の泥沼にはまりつつある。もうどうにでもなれの心である。なるようになる。ならないならならない。

国立国会図書館サーチと国立国会図書館デジタルコレクション

Cosense ( aka Scrapbox )に infobox という機能が追加されたことをきっかけに、貯めに貯めまくっていた書籍のページを整理し始めた。 infobox の LLM の力を借りて、それぞれのページに、国立国会図書館サーチのリンクが表示されるようにした。

これまでは、リファレンスとして Amazon の書籍ページを貼っていた。この URL には ISBN (ASIN) の情報が含まれていて、ページタイトルには著者や訳者の名前が入っていて、形式として便利だったから。 ただまあ、これは便利だけど、特定の企業に大事な情報の首根っこを抑えられている感じで、気持ち悪さをずーっと持っていた。

そんなこともあってリファレンスを国立国会図書館サーチに変えた。古い書籍のいくつかは国立国会図書館サーチから国立国会図書館デジタルコレクションにリンクされていて、アカウントをつくると Web で読むことができる。

最近気がついたのだけれど、国立国会図書館デジタルコレクションと同じように Internet Arhive にも古い書籍のデジタルアーカイブが存在する。その気さえあればあらゆる書籍にリーチできる世界を生きている。その気さえあれば。熱量があれば。

*1:https://x.com/taizooo/status/1788179394575695961

*2:「命題」は「主張」される

*3:入門!論理学 - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/%E5%85%A5%E9%96%80%EF%BC%81%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6#66137bb1b30c010000d0e308

*4:https://x.com/taizooo/status/1798335395522048402

*5:https://x.com/taizooo/status/1798335489273143405

*6:https://x.com/taizooo/status/1798336520052707625

*7:自然の切り取り方には多くの方法がある。そして切り取られたものはそれぞれが異なった相を見せている。 アリストテレスはどこに切れ目を入れたのだろう? どのような科学を作り出したのだろう? https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/06/093220

*8:言語はなぜ哲学の問題になるのか 読解 - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B_%E8%AA%AD%E8%A7%A3#665441f5b30c010000577871

日記の本番 2024/04

これは2024年4月の日記の本番です。

業務における筆記用具は原理原則として修正することが許されない。本人確認として押印する文書の場合、修正する際の手順も定められていて「修正箇所に二重線を引く。その書類に押印されるものと同じ印を用いて修正印を押す」ことになっている。誰が何を修正したのかを明確にすることが求められている。

そんなふうにしてボールペンを使うようになってどれくらいたっただろう?

https://twitter.com/taizooo/status/934450761919950848
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野矢茂樹『論理哲学論考を読む』をガイドにしてルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読み終わって(読み終わったことにして)、全然自分に足りなかった原因の一つである論理学を、どうしたってやらないわけにはいかないのだった。

以前、当てずっぽうに間違って買った、野矢茂樹『入門!論理学』をとりあえず読み始めた。たかだか200ページちょっとくらいの新書で、論理学なのに縦書きで、論理学なのに論理記号も出てこなくて、論理学なのに真理値表も出てこない、っていう普通ではない論理学についての本で、その中に出てくる、まったく普通の日本語で書かれた、よくわからない命題の例題を読み解くために、ノートと「とりかえしがつくシャープペンシル」と消しゴムを買ってきた。こんなこと何百年ぶりかわからない。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/04/08/155504
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僕が真似しているこの「日記の練習」「日記の本番」の元祖である、くどうれいんサンの連載がこの3月分の日記をもって終了した。印象的な話がいくつかあってそのうちの一つに「とりかえしのつかないペンの話」(とりかえしのつくペンがない話)がある。

ページを開いたまま歌集を伏せてペン立てを漁る。ボールペン、水性ペン、油性ペン、ボールペン、ボールペン、筆ペン、ボールペン……(取り返しのつかないペンしかないじゃん)

「日記の本番」7月 くどうれいん|本がひらく

そして最終回の日記の本番は「とりかえしのつくペンの話」(とりかえしがつくペンがある話)で幕を閉じた。

(おいおい、こんなに丸を付けていちゃきりがないだろう)とも思ったが、構わず丸を付けまくった。これはもう取り返しのつくペンなのだ。わたしはいくらでも丸を付けていい。

「日記の本番」3月 くどうれいん|本がひらく

僕はいくらでも書き間違えてもいい。これはもう「とりかえしがつくシャープペンシル」なのだ。そんなわけでいま僕の手元には三菱鉛筆のクルトガ・アドバンス 0.5mm (黒芯)とクルトガ・スタンダード 0.5mm (赤芯)の二本が並んでいる。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/04/23/174604
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曲がりなりにも『入門!論理学』を最終章までやり終えて、巻末の「おわりに」にあげられていた「このあとに読むべき本」の中の一冊、金子洋之『記号論理入門』へと進んでいる。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/04/24/091846
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(1) 命題論理と述語論理を区別せず、最初から述語論理を視野に入れて叙述を行う。(2) 自然演繹法を中心に据える。(3) 真理関数は扱わない(つまり真理値表は扱わない)。

今週末の良かったこと(片や、書見台とテーブルに釘付け、片や、山は笑い膝も笑う) - copy and destroy

こんどのは、論理学だから横書きだし、論理学だから論理記号も出てくるし、産業図書だから本物の教科書だ。これはいったい読書なのか?とか、いったい僕はなにをやろうとしているんだ?とか、心にブレーキを掛けるような考えがチラチラと浮かんだり消えたりしているけれど、そんなことは振り切って進むのだ。前進に犠牲はつきものだ。どうせ倒れるなら前のめりに、だ。

ピエール・バイヤール 『読んでいない本について堂々と語る方法』によると、人はどうせ読みながら片っ端から忘れていくし、読んでいない本についてだって語れるし、視界に入った瞬間からその本はすでに未知の本ではなくなるんだ、たとえその本についてなにも知らなくても、なんて言っていたけれど、いま掘っているこの辺りについては、少なくとも今のところは、一つずつ順番に、一ページずつ少しずつ、着実に確実に、先へ進んでいくことが求められていると思う。

うーん、これはいったいなんなのか、なんのためにこんなことを始めたのか、もう全然思い出せない。

日記の本番 2024/03

これは2024年3月の日記の本番です。

Self-Confidence: An Interview with Jasmin Paris About Her 2024 Barkley Marathons Finish – iRunFargyazo.com

3月の終わり、世界最恐と呼ばれるバークレーマラソンが開催されていた。twitter で #BM100 という Tag をずっと追いかけていた。1986年から開催されているこのレース*1ではこれまで、たった15人しか完走したことがない。これはまさに失敗するためだけに開催されるレースだ。

1周32km、5周で160km、つまり100マイル、そして累積標高は20,000m? 30,000m? もうよくわからない*2。1周は12時間のタイムリミットがあって最後の制限時間は60時間*3。そんなバークレーマラソンの様子をずっとタイムラインで追っていた。

1周おきに人数が減っていき、最後の5ループまで残ったのは7名だった*4。これは過去最多だった。完走の期待が膨らむ。その中にジャスミン・パリスがいた。今回、唯一の女性だった。これまで女性の完走者は一人もいなかった。

このレースでは周回コースを時計回り、反時計回りと交互に繰り返していく。そして最後の5ループは、先にスタート地点に立ったランナーに、時計回りか反時計回りを選ぶ権利があって、それ以降のランナーはその反対回りを選ぶ。ジャスミン・パリスは6番目に4ループを終えていたが、どうしても時計回りを選びたくて、休憩もそこそこにスタート地点に立った*5。5番目に4ループを終えていたジャレド・キャンベルは完走に有利な時計回りをジャスミン・パリスに譲った。二人はレース中、パックを組んでいた。

このレースはたぶん競争ではない。そもそも競っていたら完走できないんだろう。だって生還する可能性は数パーセントしかないんだから。だれも完走出来ない事が約束されたレース。倒さなければならない敵は『誰か』ではなくてこの茨の道*6*7*8とそして自分自身。だからランナーはパックを形成してコースを踏破する。チャンスもピンチもリスクもお互いに共有する。そして最後の1ループはそれぞれが自分自身の力だけで生きて帰って来なければならない。

そして最後の5ループを5人のランナーが完走した*9

ジャスミン・パリスはその一番最後、制限時間まであと90秒というタイミングでゲートに戻って来た。まさに世紀の一瞬だった*10

ジャスミン・パリス、バークレーマラソンの挑戦は3回目だった。その最初から全く同じ一足のシューズを使っていた。シューズには何箇所も修繕した痕がある。

ジャスミン・パリスがスポンサードが切れていて、しかも穴の空いているこの inov-8 にパッチを当ててバークレーマラソンを走ったのは、こういう理由だった。

https://www.runnersworld.com/uk/news/a40744146/the-green-runners-paris/

ジャスミン パリス、ダミアン ホール、ダン ローソンを含む数人のウルトラランナーによって設立されたこの団体は、世界中のランナーに環境を助けるために個人的な変化を起こすよう促すことを目的としています。これらは、動き方、身支度、食事、声の出し方という 4 つの柱に基づいています。

もっと地元のレベルで言えば、公共交通機関を使ってレースに行くことはできますか?これを支援するために、グリーン ランナーズは、公共交通機関でアクセスしやすくするために、特定のレースの開始時刻を変更することを検討するようレース主催者に奨励したいと考えています

「ハードロック 100 には応募しませんでした。バークレーに旅行したことがあり、1 年に 2 回米国に飛ぶことが正当化できるとは思えなかったからです」

「私はあらゆる企業のアンバサダーから離れたので、今はグリーン・ランナーズに立候補しています」と、以前は Inov-8 のスポンサードを受けていたパリスは言う。 「8月末にグリーンランナーとしてUTMBに出場します。私にとって、それが独立性を維持する方法になります。スポンサー付きのアスリートとしてその真っ只中にいて、その誠実さを維持するのは難しいことです。したがって、私にとっては、そこから離れることが重要でした。」

ジャスミン・パリスの何箇所もパッチでリペアされた inov-8 をカッコイイと感じる、こういうことの積み重ねが時代を変えていくんだろうな*11

*1:レースと呼ぶのも、大会と呼ぶのも、たぶん全然正しくない。その文化に近しい人達であればもう少し正確に言い表すことが出来るだろう

*2:実際にはコースがあるのかないのかよくわからないのでたぶんそれ以上なんだろう。 GPS の使用は許されずマップとコンパスだけが頼り。ランナーには主催者から適当に選ばれたリストウオッチが渡される。ちゃんと動くかどうかは運次第らしい。あるんだかないんだかわからないそのコースを踏破したことの証明は、中間点の『タワー(火の見やぐら)』通過と、ルートのあちこちに何冊か隠されたペーパーバックから自分のゼッケンナンバーと同じ番号のページを破いてくるというルール

*3:過去、ほんの数秒を残して完走を逃したランナーがいた。ジョン・ケリーが初完走した年だから2017年だったか

*4:井原サンは3ループをビックリするくらいのタイムでリカバリーしてファンランを達成、そしていよいよ4ループに突入した。しかし残念ながらここでドロップアウトとなった。早朝のことだった

*5:ライスプディングが喉を通らず吐きながら次のループの準備をしていた

*6:これは例えでもあり、事実でもある。レッドブルのサイトにあるバークレーマラソンについての記事のヘッダー画像を参照

*7:完走者ほぼゼロ… 悪魔のウルトラトレイルラン “バークレイ・マラソン” | 耐久レース | レッドブル https://www.redbull.com/jp-ja/the-barkley-marathon-guide-nicky-spinks

*8:https://gyazo.com/ad5c634ba63d39285b95f2c1bd2017e9

*9:2024 バークレーマラソン ラップタイム https://docs.google.com/spreadsheets/d/1PuBNALExIHWnjDkbur0qVWG5Mldoj6umQRXiFTaZaao/edit?usp=sharing

*10:ゲート横で声援を送っているのが先にゴールした彼らだ

*11:https://twitter.com/taizooo/status/1778925504969756843

日記の本番 2024/02

これは2024年2月の日記の本番です。

2月、いつも通りのタイミングで花粉症が始まった。

2月、デカいバックパックを使うようになった。たくさんの本を持ち歩くようになった。積読山脈は移動するようになった。

2月、アクティビティ・トラッカーを Amazon のカートに入れたり出したりしていたが、ハッと我に返って返す刀で大量の本を積読山脈を積み増した*1

2月、月への着陸に成功した小さな探査機*2は、過酷な月の夜を乗り越えて再起動に成功した。月の一日は地球の4週間だった。


2月、僕らの ACL 冒険の旅が終わった*3。喪失感はあった。そして昨年末に書いた文章(心の中では「エッセルスーパーカップの話」と呼んでいる*4 )を読み返してみたりなんかした。センチメンタルというかなんというか、この気持ちをなんと呼べばいいのだろう。

この旅について今、決定的ななにかを書くことも出来るだろうし、いま書かないと忘れてしまうこともあるだろう、とは思うけど、それがこのタイミングだとは思えない。いまは終わったことを思うよりこれから始まることを考えたい。そんな気分。

勝っても負けても引き分けても、いつだって次の試合が一番大事。ということで2024年のシーズンが始まった。J2 開幕。予感がする。今度の旅もきっとすごいよ。

この強度、この記憶、この感情、全部このまま持っていくぞ*5


そんなわけで、いつもより全然早く、昨年12月に書いた文章を読み返したりなんかしたんだけど、思ったわけです。「こんな文章もう書けない」。たった3ヶ月しか経っていないのに。そう思う理由はいろいろあるけれど、決定的な感想は「この文章はウィトゲンシュタイン以前の文章だ」。

ウィトゲンシュタインを原点にとると世界の見方は、ウィトゲンシュタイン以前、ウィトゲンシュタイン自身、ウィトゲンシュタイン以降の三つに区分される。


2月、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を発見してからこっち、もう世界は全然違う形になっている*6

クラシカル・ミュージックを掘るようになったときにも世界が開けるような経験をしていて、まず最初がグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲、その次が Mode Records のジョン・ケージを全部聴く、っていうのをやったとき。

ジョン・ケージを原点にとると世界の音楽は、ジョン・ケージ以前、ジョン・ケージ自身、ジョン・ケージ以降の三つに区分される*7


この旅は、読書を取り戻すために右往左往していた2023年から始まっていて、まず最初がアルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』*8。その次が、全然違う用事で東京に出かけたのになぜか握りしめて帰ってきた、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』*9

ここには、これまで自分がこだわってきた「もの」*10に関わる「ぶっとい何か」*11が埋まっているような気がする、という感覚と、

まだ全然理解が追いついていないんだけど、これまで自分が追ってきた歴史の流れがなぜかこの辺りに流れ込んでいることだったり*12、ここからの連なりが数学や統計や文学や言葉やそれどころか果てはコンピュータやインターネットや AI にまで流れ込んでいることだったりする*13


ここまで書いてみて「これは絶対に誤解を招く書き方だな」と思うんだけどここで言いたいのは、「ウィトゲンシュタインを崇め奉っている」というよりも「これはいかようにでも切り刻んで好きに遊べる楽しい何かだ」という感覚に近い。そういう感じ。そう思わされたのは実は『論理哲学論考』のその文章のスタイルだったりする。短い文章を畳み掛けるように積み重ねていくそのやり方。

1 世界は成立していることがらの総体である。
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.
1.1 Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.

https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p1GER

gyazo.com

Dive Into Philosophy*14

見つけたからには掘るんだろうな。私からは以上です。

*1:Wishlist じゃなくて物理的な積読山脈

*2:SLIM

*3:これは終わりの話でもあり、そしてまた始まりの話でもある - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/22/092245

*4:FUJIFILM SUPER CUP とエッセル スーパーカップ https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/12/01/000000#FUJIFILM-SUPER-CUP-%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97

*5:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/29/094914

*6:少し、いやかなり誇張しています

*7:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2020/12/01/000000#14

*8:アリストテレス, 生物学の創造 の検索結果 - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9+%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%89%B5%E9%80%A0

*9:今週末の良かったこと(ヘトヘトからの東京観光、雨を避けて走る) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/05/131811

*10:哲学的には事物とか実体とか事実とかいいたくなる

*11:音楽的にはドープとかファットとかシットとかいいたくなる

*12:それは20世紀初頭、二つの大戦の狭間というのはそういう時代だったのだ、ということと、ウィトゲンシュタイン自身もそういう流れを乗りこなしていたビッグウェーバーの一人だったのだ、ということなんだと思う

*13:それはプラトン、アリストテレスから連なっていて、アクィナス、ちょっと端折って、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、そして現在へと、分析哲学、言語哲学、科学、論理学、数学と姿を変えて、巨大な濁流となって僕らを轟轟と絡め取っていく

*14:Dive Into Greasemonkey

日記の本番 2024/01

これは2024年1月の日記の本番です。

1月なので、話は元旦から始めます。

元旦、地元の J2 クラブの大卒1年目の選手が日本代表選出された*1。その日本代表とタイの親善試合の中継が終わってすぐに緊急地震速報が立て続けに鳴った。能登半島で大きな地震が起きた。海岸線が何メートルも隆起するほどの地震だった。翌日、羽田空港で航空機同士の大きな事故が起きた。

正月明けて最初の週末、インフルエンザに罹った。熱が下がらず一週間休んだ*2。その後、Jリーグ開幕前のキャンプか?ってくらいの勢いで身体を作ってランニングを復活させた。そして入った最初の裏山、最後の最後に右足首を捻った*3。ちょうどその日は確定申告の医療費控除を集計していた。一年前の尾骨骨折*4の診察を記入していた。右足首は大事には至らなかった。ラッキーだった。

1月の終わり、日本の小さな探査機*5が月面へのピンポイント着陸に成功した。2本あるメインジェットのうちの1本が消失して*6逆さまに着地した。太陽光パネルに光が当たらなかった。数日後、月面の夕日が太陽光パネルを照らして探査機は再起動した。タカラトミーが作った超小型ロボット*7が着地寸前に切り離されて、探査機の写真を撮影していた。まさに逆さまだった。画面の中央に一列、横方向のグリッチが走っていて、僕はそこにリアルを見出した*8*9


読書は完全に復活した。2017年、2021年以来のビッグウェーブといっても過言ではない*10

アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』読了した。とっくの昔に読み終わる感じだったけど、ループして延々と終わらないテリー・ライリー "You'er Nogood" みたいに*11読了を先送りしていた*12

アルマン・マリー・ルロワがこの本を書くきっかけになったのはダーシー・トンプソンが翻訳したアリストテレス『動物誌』(1910)だった*13。そして寺田寅彦がルクレティウス『物の本質』を読むきっかけになったのもダーシー・トンプソンの書評(1928)だった*14。そして『生物のかたち』(初版 1917)もダーシー・トンプソンだった*15

この本から始まった二つの脱線のうち、最初の「科学哲学」は止まってしまった*16。もう一方の「言語哲学」には見事に嵌った*17。文脈原理、命題関数、事実、対象、分節化*18、そして、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン。どうやら論理・数学・言語は隣同士に並んでいるらしい。

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1922年、ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』を出版した。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』も1922年だった*19。1922年はエポックメイキングな年だった*20*21。なんだよ、また20世紀かよ*22*23

アルマン・マリー・ルロワの『アリストテレス 生物学の創造』も、寺田寅彦の『ルクレチウスと科学』も、僕が「20世紀」に絡め取られているのも、古典を現在の視点から捉え直すという意味で、古楽復興(ピリオド奏法の探求)と近しいんじゃないか*24

なんて適当なこと言って、今度はニコラウス・アーノンクールを掘り始めようとしている*25


いよいよ次に来る季節のことを考える*26

冬なのに何回も雨が降った。次々とやって来る南岸低気圧の危機。天気予報を見るたびに、明治 エッセル スーパーカップが思い出される*27。2月を先取りしておくと、いよいよ ACL ノックアウトステージ、そして Jリーグ開幕。

*1:大卒1年目で J1 クラブに移籍して、ヴァンフォーレ甲府所属で日本代表に選ばれるという、伊東純也のキャリアをさらに早回しするかのようなその選手の名は三浦颯太という

*2:今週末の良かったこと(インフルエンザから復帰) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/15/111354

*3:今週末の良かったこと(読了、医療費控除と裏山と右足首、そして「買ったからには読むんだろうな」) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/29/101138

*4:今週末の良かったこと(臨機応変に対処する、尾骨骨折、 ChatGPT 、 Natural History ) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/01/23/175156

*5:小型月着陸実証機 SLIM

*6:予定より横方向の推力が働いて

*7:LEV-2 、愛称「SORA-Q」

*8:https://gyazo.com/e6e489bd77df9797c45c6a6390768f13

*9:JAXA | 変形型月面ロボットによる小型月着陸実証機(SLIM)の撮影およびデータ送信に成功 https://www.jaxa.jp/press/2024/01/20240125-4_j.html

*10:読書についての記録集成 - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2%E9%9B%86%E6%88%90

*11:2021年を探す - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2021/12/01/000000#70

*12:読了っていうのは、最後のページまでたどり着いたことを言うのか、その本を閉じたことを言うのか、それともまた別の話なのか。 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/31/182036

*13:ダーシー・トンプソンは20世紀の初めに、アリストテレス『動物誌』を翻訳した。自身のギリシア語と動物学の知識を総動員して「アリストテレスの博物学の知識に注釈をつけ、説明を施し、批評を加え」た。その注記はときに本文を圧倒するほどだった https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/02/214117

*14:1928年に寺田寅彦が読んだ Nature の書評を買った - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/1928%E5%B9%B4%E3%81%AB%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A0_Nature_%E3%81%AE%E6%9B%B8%E8%A9%95%E3%82%92%E8%B2%B7%E3%81%A3%E3%81%9F

*15:https://scrapbox.io/hysysk/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%A8%E8%8A%B8%E8%A1%93

*16:読書は科学哲学に関するものを読んでいる。ここまで読んできたものから太くリンクが繋がっているから読んでいるんだけど、そんなに気分が盛り上がっているわけではない。たぶん飽きている。 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/15/111354

*17:野矢茂樹『言語哲学がはじまる』読了した。フレーゲ、ラッセルときて一番最後にウィトゲンシュタインで、そこでやっと「分節化」が出てきた*3。すごい遠回りをしている。意図的に遠回りしているわけだが https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/29/101138

*18:なによりもまず、世界が分節化されていなければならない。 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/06/093220

*19:「文学史上すばらしい年は数々あれど、1922年は最もすばらしい年だと言えよう。この年がすばらしいのは、その年(そしてその前後の年)に出版されたものによって、文学の未来に対する読者の考えが変わったためである。」 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2022/01/04/191507

*20:エポックだ - taizooo https://scrapbox.io/taizooo/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%A0

*21:Tumblr 創世記 - hub https://scrapbox.io/hub/Tumblr_%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98#61c115a8b30c0100004f2619

*22:気がついたけど、いま自分がいる場所は「20世紀、科学の世紀の哲学」だった。なんだよ、また20世紀かよ。 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/26/094103

*23:100年前のことを考えている。そのままスライドさせると、20世紀から21世紀を生きる自分たちのことになったりする https://scrapbox.io/taizooo/1920_to_2020

*24:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/18/133701

*25:追悼ニコラウス・アーノンクール ~すべての演奏家の道標となった録音の数々、広く受け継がれていくであろう演奏理念 | Mikiki https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/10815

*26:気象庁の区分によると、冬は12月から1月までを言います

*27:FUJIFILM SUPER CUP とエッセル スーパーカップ https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/12/01/000000#FUJIFILM-SUPER-CUP-%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97

日記の本番 2023/12

これは2023年12月の日記の本番です。

ちょっと長い前置きから始めます。

2023年、読書は全然で、数ページだけ読んでは止まってしまったり、なんとか巻末までたどり着いても、そこから先へは繋がらなかったりした*1

7月の始め、押し寄せてくる「公」に抗うように、積読山脈の最下層からクロード・フィッシャー『電話するアメリカ』を引っ張り出して読み始めた*2*3。積読山脈の中でもとりわけ昔からずっとそこにあった本で、しかも買った当時、すでにそれは十分、古い本だった。「そういえば読む本は分厚いければ分厚いほど精神が安定するような気がするな」という単純な印象、ただその物理的な分厚さから、という理由で読み始めた。

そんな『電話するアメリカ』がやっと最終章までたどり着いた8月始め、さらに猛烈に押し寄せてくる「公」に抗って、アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』を買った。上下巻で700ページ、8,000円。思いつきで買うにはちょっとしたサイズと金額だった。酔っ払ったその勢いだった*4。書き出しにやられてしまった。『電話するアメリカ』は止まった。やっとたどり着いたのに*5

そんなふうにして読み始めた『アリストテレス 生物学の創造』なのにあっという間に脱線が始まって、レスボス島、アリストテレスの生物学が始まったその場所、を調べ始めてアテンションは散逸した。せっかく読み始めたのに。メチャ面白いのに。元のページには戻れなかった。結局『アリストテレス 生物学の創造』も止まった*6


時は進んで、2023年12月。

「公」も終わって、 2023AC2023 の当番*7も終わった12月の始め、再び『アリストテレス 生物学の創造』を読み始めた*8。それでもなかなか読み続ける感じにはならなくて数ページだけ読んでは止まって、数ページだけ読んでは止まってを繰り返して、やっと第6章《イルカのいびき》までたどり着いた。そこでこんなフレーズを発見する*9

自然の切り取り方には多くの方法がある。そして切り取られたものはそれぞれが異なった相を見せている。

アリストテレスはどこに切れ目を入れたのだろう? どのような科学を作り出したのだろう?

アリストテレスの一番大きな仕事は生物学を作り出したことだ。アリストテレスが成したと言われる論理的な思考も、そのための道具だった。

アリストテレスは生物を540種に分けた。分けることは「分類」と呼ばれる。

アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』上巻
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切り取る、切り出す、境界を引く、分けること、これらは2023年を象徴するモチーフだった。

言葉は境界となって世界を二つに分ける。「Aである/Aではない」。境界が引かれれば現実が立ち上がり事実が生み出される。世界を分けることは人間の認識の根幹に関わる

2023年を探す - copy and destroy

パンチラインがカチリと音を立てて嵌ると、事態は大きく動き出す。

なかなか動き出さない僕の読書はいびつな大きな大きな石の塊みたいなもので、揺すっても揺すってもなかなか動き出さない。ところがなんかの拍子にちょっと重心がズレると、グラっと傾いて一気にゴロゴロと転がり始める。

本屋の新書コーナーで気まぐれに開いた本のページに、こんなパンチラインを発見した。

なによりもまず、世界が分節化されていなければならない。

世界は「事実」の総体である。「事実」は「性質」「対象」「動作」といった要素によって構成されている。

「白い」「犬」「走る」。

これを分節化という。

われわれはすでに分節化された世界に生きている。分節化されていない世界とは、いわば徹底的な抽象画の世界にも喩えられるだろう。そこでは、あらゆる対象の輪郭が失われ、それら対象がもっていた意味も消え去る。そんな世界。

野矢茂樹『語りえぬものを語る』
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転がりだしたらもう止まらない。たった一つのパンチラインが、一冊の本を越えて、時間軸も超えて、次々と繋がり始める。

『アリストテレス 生物学の創造』の中に唐突に「プラグマティズム」という文字を発見したり*10

7月、読書を取り戻そうとして行った本屋で結局なにも買わずに帰って来たんだけど、そのとき気になった本の目次にあった「帰納」「自然の斉一性」「信念」「習慣」といった言葉が12月になって繋がったり*11

1月、参加しないミートアップのために書かれたプレゼンテーションの、パンチラインとの偶然の一致だったり、

現実があって地図があるのではない。地図ができあがれば、そのとおりに現実が立ち上がり、領土が生み出される

ページが切り出されると現実が立ち上がり事実が生み出される - taizooo


これはセレンディピティなのか、それとも "Joshua Tree Principle" なのか、それともただの妄想か。

草花は一度覚えたら、かならず向こうから目に入ってくる

https://taizooo.tumblr.com/post/715102030236106752

一度転がりだしたら始まりです。もう手遅れです。ご愁傷様でした。チーン*12

2023年を探す

これは2023年の日記の本番です。

FUJIFILM SUPER CUP とエッセル スーパーカップ

2月のある金曜日、甲府盆地には雪が舞った。2023年のシーズン開幕を告げる大会、日本のトップリーグである J1 の勝者と、日本中のサッカークラブから日本一を決定する天皇杯の勝者が、雌雄を決する試合のその前日に、である。ひたすらウェザーニュースをリロードし続けた。雨雲レーダーは降雪を表す濃い色で画面を塗り潰し続け、天気予報は「数年ぶりの大雪」「南岸低気圧通過」「雪雲通過が続く」「湿った大雪に警戒」という文字列を表示し続けた。

2023年なんていうのは、人間が社会を成り立たせるために適当に区切られた一つの単位に過ぎない。昨年、愛する地元のサッカークラブは、なにもかもうまくいかなかったその最後に、次々と J1 リーグの強豪をぶっ飛ばして天皇杯をその頭上に掲げた。そんなフワフワしたような、信じられないような幸運を抱えたまま、今年を迎えたのだった。

土曜日、甲府盆地の片隅の駐車場に立っていた。「公」は「私」に優先された。

空は信じられないほどに青く、数時間かけて掻いた雪はひたすら溶け続けてキラキラと眩しかった。

gyazo.com*1

FUJIFILM SUPER CUP は、明治 エッセル スーパーカップになった。

"Enlightenment" と直線

2022年、読書が完全に止まった。

2023年、だからといって手をこまねいているわけにもいかないゾ、と右往左往していた。怒涛の読書期には2日間で読み切ったティム・インゴルド『ラインズ』を積読山脈から掘り返して、ノロノロ、ヨタヨタと読んでいた。

最後の章に啓蒙思想の話が出てくる。 "Enlightenment" と呼ばれる。それは「光」を意味する。「光」は直線的に進む。進歩も直線的に進むと考えられている。それはゴールが存在すること、進むべき正しい方向があること、そして自分はそれを進むのだ、という強い意志を意味する。

そんなことを、青空にキリっと立ち上がるビルを見上げて、思い出していた。

甲府盆地は「空が狭い」とか言われる。視界の中にはいつでも山のフォルムがあって、地面と空の境目は上ったり下ったり曲がりくねったラインだ。そんな風景のなかで、橋や建物や電柱や鉄塔は、全て直線から成り立っている。

進歩が直線的に進むと信じられているのは、過去から未来へ時間が一直線に流れると考えられているからだ。であるならば、青空にキリっと立ち上がるビルが描くこの直線は、きっと空から地面へ重力が一直線に貫いているからに違いない。

ハーフウェイラインと境界

甲府盆地をぐるりと取り囲む、地面と空を切り分けている山々は、その内側と外側に境界を引いている。雪に覆われた山々は、国立競技場の青々と輝くピッチと丸く青空を切り取る屋根を見上げていたはずの僕と、甲府盆地の底で青空に突き出すビルを見上げている僕との間に、明らかな境界を引いた。想像と現実の。

サッカーではいくつもの境界が引かれる。ピッチではハーフウェイラインを挟んで敵と味方に。取り囲むスタンドではその観客がホームとアウェイに。ファン、サポーターはそれぞれのゴール裏で立ち上がり飛び跳ね歌を歌い手を叩き、選手たちを鼓舞する。境界ははっきりと引かれる。それを侵犯することは許されない。輝かしい勝利か、無様な敗戦か。

境界ははっきりと引くべきである。それを越えるにせよ越えないにせよ

https://note.com/dannna_o/n/n6ff89d332db9

境界が引かれれば現実が立ち上がり事実が生み出される。それはわかりやすいフィクションだ。

エッセル スーパーカップになった FUJIFILM SUPER CUP は、ヴァンフォーレ甲府、1点ビハインドで迎える後半ロスタイム4分、迎える最後のコーナーキック、 ハーフウェイラインを越えて相手ゴール前に上がってくる河田晃兵、横浜Fマリノスのクリア、押し返す甲府、ラインを上げる横浜、こぼれるボール、そしてジェトゥリオのシュート、揺れるゴールネット。フラッグを上げる線審、オフサイド。試合終了を告げる笛。

試合終了を告げる笛は、2023年のシーズン開幕を告げる笛でもあった。長い長いシーズンが始まった。

練習と本番

「公」は「私」に優先された。それは3月から始まった。

毎月一度だったそれは7月から週に一度になった。「私」に侵食してくる「公」に余白がどんどん削られていく感覚、千々に乱れ粉々になる毎日に囚われつつあったときに、くどうれいん『日記の練習』を発見する。

うまくいきすぎてあっという間だったりうまくいかなすぎてあっという間だったりして押し流される日々の中で、杭を打つようにせめて書く

https://nhkbook-hiraku.com/n/n834faf81aa22

『日記の練習』と『日記の本番』。この二つには大きな可能性がある。「本番」はやって来ないかもしれない。でも、もしかしたら、いつか「本番」がやって来るもしれない。その可能性が輝いて見えた。そういう希望としての「本番」と、その希望に向けて毎日をつなぎとめるための「練習」。

これは日記の練習です。

冒頭にこの一文が置かれることで、日々の断片は書き残された。

「じゃあまたな」と散り散りに解散した

うまく切り抜け、結果としてそのときに約束を守れた人

私たちは困難を選ぶことはできないが、自分たちの反応を選択する自由がある

9月、「公」は一面を焼け野原にして終了した。そして僕は生き延びることに成功した。

けれどいずれにしたって、その折々に断片を書き残しておくことができたなら、思い返されるたびに勝手に注がれまくって迷惑している意識だって、すこしは楽にしてやれるのではないだろうか。うまくいきゃ深めることだって

https://murashit.hateblo.jp/entry/2023/03/24/140526

すべてが断片化されてバラバラになるならば、束ねること、つなぎ合わせることに価値が生まれる。もしかしたらそれは "Best of the Year" と呼ばれるかもしれない。

「チャンピオンたちの戦い」とユニフォーム

10月、天皇杯で優勝した甲府は、日本を代表するクラブとして、2023/24ACL(アジア・チャンピオンズリーグ)のグループステージを戦っていた。ACL がなにを意味するのかというとそれは「アジアサッカー連盟のチャンピオンたちの戦い」っていう意味だ。

11月始めの水曜日、会社を半休して国立競技場へ向かった。小瀬のスタジアムは ACL の基準を満たさず、ぐるりと取り囲む山々のはるか彼方の国立競技場で戦っていた。そこは "JAPAN NATIONAL STADIUM" と呼ばれる。

その日、甲府は、中国のトップリーグである超級第3位の浙江FCに前節アウェイでの敗戦の雪辱を果たし、その日、僕は、2月のエッセル スーパーカップの雪辱を果たした。国立競技場の青々と輝くピッチと丸く夜空を切り取る屋根を見上げていた。

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いつもと同じバックスタンドで、右隣は地元を離れてて久しぶりという青赤のユニフォームの学生、左隣は赤色のユニフォームを着た J1 リーグ強豪のサポーター、前にはお年を召した御夫婦と若いカップル、後ろには会社帰りに気まぐれにやってきたスーツ姿のサラリーマン達。そして振り返ると、スタンドのあちこちに J リーグの様々なクラブのサポーターが、思い思いに自分たちの色のユニフォームを着て集まっていた。ここで僕はユニフォームに掲げられた日の丸の意味を知ることとなる。

衣服には自分がいったい「どこ」の「誰」なのかを表す機能がある。

しかし重要なことは、かつて社会学者ゲオルク・ジンメルが指摘した「同調化」と「差異化」という2つのベクトルが、いかなるスタイルの形成においても見られるということであろう。 特定の社会的集団の一員であろうとする同調化の欲求によって、私たちは自分がどこに属するのかを示そうとする。そして、その集団内において自分と他人を差異化することによって、私たちは自分がだれであるかを解き明かそうとする。

https://fashiontechnews.zozo.com/series/series_fashion_technology/ken_kato

サッカーにおいてそのユニフォームを身に着けることは「無償の愛」を意味する。それは「好きとか嫌いの外側」にある。そして、それぞれが異なるユニフォームを身に着けているということは、そこに「敵対関係」が存在することを意味する。同じ空間を占めることは本来、許されない。

しかしその日の国立競技場には、信じられないくらいポジティブな空気が満ちていた。ちょっと信じがたかった。それぞれがそれぞれのユニフォームを着て、自分たちが「どこ」の「誰」なのかを表明しながら、それでも立ち上がり飛び跳ね歌を歌い手を叩き、その姿勢で甲府というクラブに対する大きな共感を示していた。

境界を溶かす。これはフィクションか、それとも現実か。

gyazo.com

リアルとフェイク

長かった J2 のリーグ戦が終わった
遠く山形の空の下で

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/11/14/174714

エッセル スーパーカップの雪辱を果たしたその4日後、僕らの2023年のシーズンが終わった。画面の向こう側でピッチに膝をつく選手たち。試合終了を告げる笛は聞こえなかった。ときに現実は非情だしワックだ。

gyazo.com*2

いまだ読書は戻って来ず、惰性にまかせて『おくのほそ道』を読み返していた。

文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河

『おくのほそ道』は点と点を繋げていく旅だ。それはかつて西行が詠った場所を辿ることを意味する。その地は、芭蕉たちが訪れたときには、すでに見る影もないほどに変わり果てている。芭蕉は、現実の風景を見たのではない。西行が残した句の向こう側に、彼が見たであろう風景を見ている。ときに虚構は事実よりリアルだ。

この旅は、江戸を立って松島に行きつくまでは、事細かく道中が語られるけども、日本海に至るや否や、時は先へ進み、歩みはスピードを上げる。新潟はたった数行で通り過ぎてしまう。曽良が旅から離れると、さらにスピードを上げる。やっと辿り着いた福井の汐越の松では、とうとう自分の句ではなく、西行の句を引用して通り過ぎてしまう。

夜もすがら 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松

ドナルド・キーンは「たいていの日記は退屈で全然面白くない」と言った。「面白い日記は後から書き直されている。編み直されている」と。そして『おくのほそ道』について「作り話や事実からの乖離が、永続的な真実感を高めている」「事実は、芸術には不十分だった」と。

真実かどうかなんて別にどうでもいい。そんなのはオレが決める

https://taizooo.tumblr.com/post/700344225

愛と力

公と私、敵と味方、 J1 と J2 、都市と地方、世界と日本、練習と本番、事実と虚構、空想と現実、ワックとドープ。

言葉は境界となって世界を二つに分ける。「Aである/Aではない」。境界が引かれれば現実が立ち上がり事実が生み出される。世界を分けることは人間の認識の根幹に関わる。言葉が与えられると境界が引かれそこに場所が生まれる。そして自分をそのどちらかに置く。ウォーラーステインはそれを「世界システム」と呼んだ。中核、辺境、アウトサイダー。

前衛,辺境,周縁,まあなんと呼んでもいい

https://taizooo.tumblr.com/post/24845803

gyazo.com*3

境界が引かれるとそこにフロンティアが生まれる。それは大航海時代の冒険の原動力となったものでもあるし、アメリカが西部を目指す原動力となったものでもある。そして先住民は征服され、黒船は下田に来航し、極地には国旗が掲げられ、人類は月まで到達した。僕らは自ら境界を引きながらその境界をこじ開け乗り越えようとする。たとえその結果が破壊的、壊滅的なものであっても。

難易度とスピードが強調されます。ハードであること、最高であること、最速であること。 その結果として生じるカメラのカクテル光線、危険、テストステロンはいつだって悲劇的です。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2019/12/01/000000

ゲオルク・ジンメルは『橋と扉』で、こう言っている。

私たちが結びついていると感じられるものは、まずは私たちが何らかの仕方でたがいに分離したものだけだ。事物は、一緒になるためにはまず離れ離れにならなければならない

僕らは生きていくために境界を引いて世界をバラバラに解体する。そして同時に断片を束ねつなぎ合わせ、立ち上がり飛び跳ね歌を歌い手を叩き境界を溶かし、世界を一つにしようとする。僕らは自己の差別化と個別化を望みながら、また一方では全体の均質化と統合化を望んでいる。アダム・カヘンはこれを「力」、そしてもう一つを「愛」と呼んだ。

すべて持つことはできない。 禁じられている。 選ぶことを学べ。

https://taizooo.tumblr.com/post/170040413

だがしかし僕らは「愛」と「力」の両方を選ばなければならない。


この post は 2023 Advent Calendar 2023 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は kzys サンです。お楽しみに。

「日記の練習」「日記の本番」

https://nhkbook-hiraku.com/n/n834faf81aa22

あなたの日記はもうはじまっている。「これが自分の日記だ」と胸を張って言うことができるように。わたしといっしょに、「日記の練習」をはじめましょう。

くどうれいんサンによる、毎月の「日記の練習」とそれをまとめた「日記の本番」。このやり方には大きな可能性がある気がする。たぶん「本番」が抜けてもいい。「本番」を書く可能性がある、ということの方が重要。そういう希望としての「本番」と、その希望に向けて毎日を繋ぎ止めるための「練習」。

  • Diary practice
  • Diary production
  • 日記の練習
  • 日記の生産

練習ってやつは、祈りを捧げるようなものだ。一週間に一回とか一か月に一回というわけにはいかない。

https://www.tumblr.com/taizooo/721293612

覚えていられることは書かなくていい、だって覚えているのだから!

nhkbook-hiraku.com

くどうれいん、日記の練習、日記の本番、連載予告の前口上より。

覚えていられることは書かなくていい、だって覚えているのだから!

(この人は日記を「続けるもの」と思っているのだな)と思って、(続く日記なんてなにもおもしろくないのに)と思う。

わたしの十年以上の日記はもう一本化して読み直すことはできない

日記は「日々の記録」ではない。「日々を記録しようと思った自分の記録」だ

いやなら自分で書くしかない。あなたの日記はすでに開かれている

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