FUJIFILM SUPER CUP
https://www.jleague.jp/match/supercup/2023/021101/live/#live
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朝から続いた「公」が終わってドロドログダグダをシャワーで洗い流してコンビニで買ってきたスーパーカップのフタを開けると同時にテレビをつけると14:30を少し回っていたけどもなぜかまだ後半が始まっていなかった。録画予約したハードディスクレコーダーを前半から追っかけ再生するという選択肢もあったけども、せめて中継だとしてもリアルタイムで同じ時間を共有したいと思った。前半のハイライトが始まると横浜FMの先制シーンが映った。アーっと思ったがそのあとに甲府の同点シーンが映った。ウォーと思った(そしてこの場面の VAR に6分もの時間を費やしたおかげで、後半を最初から観ることが出来たのだった)。
そして始まる後半。次第に圧力を増す横浜FM。押し込まれて押し込まれてだんだん厳しくなってきた。この風景は天皇杯でも見た。さすが J1 覇者。そして迎えるゴールシーン。失点。1点ビハインド。だがしかし迎える後半ロスタイム4分、甲府最後の最後にコーナーキック。相手ゴール前に上がってくる河田、パワープレー。横浜FMのクリア、押し返す甲府、ラインを上げる横浜FM、こぼれるボール、そしてジェトゥリオのシュート、揺れるゴールネット。フラッグを上げるラインズマン、オフサイド、そして試合終了。
残念ながら、今シーズン、最初に笑ったのは横浜FMだった。でも誇らしい試合だった。
走った
土曜日いろいろと事情があり「公」が優先されて SUPER CUP はスーパーカップになったが、日曜日は走った。土日と気温が上がって雪はすっかり溶けていた。
先週末はちょうど120分走れるくらいの余裕さで120分走って、オマケに15分歩いたけど、今週末はボロボロで90分ギリギリ走れるくらいの余裕さしか残っていなかった。残りの30分は「やれよ、やるんだよ。ヤツらはやっただろ」という感じにちょっと根性で走りきって、オマケにゆるゆる30分歩いて「そうはいっても先週よりは長く身体を動かした」と自分としての面目を保った。
面目は保ったものの思いの外ボロボロで、そのあと全く使いものにならなかった。
光と直線と断片をつなぎ合わせること
「おくのほそ道」を読むはずが脱線してティム・インゴルド「ラインズ」を読んだ。読んだっていっても面目は保ったがゆえのボロボロさ加減で、本当に飛ばし飛ばしでそれっぽいところだけを選って読んだ。そしてなにかを掴んだ気になっているけども、気のせいかもしれないし、ただ疲れているだけかもしれない。
最後の章に啓蒙思想の話が出てくる。啓蒙思想は "Enlightenment" と呼ばれる。「光」を意味する。光は直線的に進む。進歩は同様に直線的に進むと考えられている。それはゴールが存在すること、進むべき正しい方向があること、そして自分はそれを進むのだ、という強い意志を意味する。ティム・インゴルドは近代(モダン)をその直線と捉えた。そして前近代をグルグルと自由に行き来する線として捉えた。それは神話や民話があちこちにウロウロする流れだったり徒歩旅行の曲がりくねった流れのことだ。オデュッセウスがトロイ戦争が終わっているのに何年も何年も故郷に帰れない様子がそれだったりする。それから現代(ポストモダン)は直線がバラバラこなごなにされて断片になっていると捉えた。それはまさに今、あらゆるものが分断されているように見えるそれを意味する。
前近代、近代、現代のそれぞれに、場所(topian)、場所不在(utopian)、場所不全(dystopian)という語を当てた。前近代は地べたをウロウロと這いつくばり蠢くラインを地表に残す。それは生のラインでその痕跡こそが自分たちの場所だ(ティム・インゴルドはそれを「居住する」と言った)。近代的な直線は進歩的な前進でどんどんどこかに向かって進んでいく。そこには留まるべき一定の場所がない。そして現代的な断片は描かれた直線がバラバラこなごなに分断されて、すでに占めるべき場所さえ持たない。
しかし、最後にティム・インゴルドは、このバラバラの断片には直線的に閉じられた通路を打ち破って新たに切り抜けるべき通路を開くチャンスがある、と希望を示している。断片をつなぎ合わせることは新しい場所を作るチャンスであると。
それから、
今週末のプレイリスト。1曲目はパンチ・ブラザーズ。10分超えが3曲あって全部で6曲しか入らなかった。金曜日の夜はちょっとキレてて投げやりな感じだったけど最後に入れたララージの "Kalimba" が良くってちょっと救われた感じ。
それから、それから、
来週はいよいよ J2 リーグの開幕。今度こそはスタジアムに立ちたい。そして最後に笑うのはオレたちだ。