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2023年を探す

これは2023年の日記の本番です。

FUJIFILM SUPER CUP とエッセル スーパーカップ

2月のある金曜日、甲府盆地には雪が舞った。2023年のシーズン開幕を告げる大会、日本のトップリーグである J1 の勝者と、日本中のサッカークラブから日本一を決定する天皇杯の勝者が、雌雄を決する試合のその前日に、である。ひたすらウェザーニュースをリロードし続けた。雨雲レーダーは降雪を表す濃い色で画面を塗り潰し続け、天気予報は「数年ぶりの大雪」「南岸低気圧通過」「雪雲通過が続く」「湿った大雪に警戒」という文字列を表示し続けた。

2023年なんていうのは、人間が社会を成り立たせるために適当に区切られた一つの単位に過ぎない。昨年、愛する地元のサッカークラブは、なにもかもうまくいかなかったその最後に、次々と J1 リーグの強豪をぶっ飛ばして天皇杯をその頭上に掲げた。そんなフワフワしたような、信じられないような幸運を抱えたまま、今年を迎えたのだった。

土曜日、甲府盆地の片隅の駐車場に立っていた。「公」は「私」に優先された。

空は信じられないほどに青く、数時間かけて掻いた雪はひたすら溶け続けてキラキラと眩しかった。

gyazo.com*1

FUJIFILM SUPER CUP は、明治 エッセル スーパーカップになった。

"Enlightenment" と直線

2022年、読書が完全に止まった。

2023年、だからといって手をこまねいているわけにもいかないゾ、と右往左往していた。怒涛の読書期には2日間で読み切ったティム・インゴルド『ラインズ』を積読山脈から掘り返して、ノロノロ、ヨタヨタと読んでいた。

最後の章に啓蒙思想の話が出てくる。 "Enlightenment" と呼ばれる。それは「光」を意味する。「光」は直線的に進む。進歩も直線的に進むと考えられている。それはゴールが存在すること、進むべき正しい方向があること、そして自分はそれを進むのだ、という強い意志を意味する。

そんなことを、青空にキリっと立ち上がるビルを見上げて、思い出していた。

甲府盆地は「空が狭い」とか言われる。視界の中にはいつでも山のフォルムがあって、地面と空の境目は上ったり下ったり曲がりくねったラインだ。そんな風景のなかで、橋や建物や電柱や鉄塔は、全て直線から成り立っている。

進歩が直線的に進むと信じられているのは、過去から未来へ時間が一直線に流れると考えられているからだ。であるならば、青空にキリっと立ち上がるビルが描くこの直線は、きっと空から地面へ重力が一直線に貫いているからに違いない。

ハーフウェイラインと境界

甲府盆地をぐるりと取り囲む、地面と空を切り分けている山々は、その内側と外側に境界を引いている。雪に覆われた山々は、国立競技場の青々と輝くピッチと丸く青空を切り取る屋根を見上げていたはずの僕と、甲府盆地の底で青空に突き出すビルを見上げている僕との間に、明らかな境界を引いた。想像と現実の。

サッカーではいくつもの境界が引かれる。ピッチではハーフウェイラインを挟んで敵と味方に。取り囲むスタンドではその観客がホームとアウェイに。ファン、サポーターはそれぞれのゴール裏で立ち上がり飛び跳ね歌を歌い手を叩き、選手たちを鼓舞する。境界ははっきりと引かれる。それを侵犯することは許されない。輝かしい勝利か、無様な敗戦か。

境界ははっきりと引くべきである。それを越えるにせよ越えないにせよ

https://note.com/dannna_o/n/n6ff89d332db9

境界が引かれれば現実が立ち上がり事実が生み出される。それはわかりやすいフィクションだ。

エッセル スーパーカップになった FUJIFILM SUPER CUP は、ヴァンフォーレ甲府、1点ビハインドで迎える後半ロスタイム4分、迎える最後のコーナーキック、 ハーフウェイラインを越えて相手ゴール前に上がってくる河田晃兵、横浜Fマリノスのクリア、押し返す甲府、ラインを上げる横浜、こぼれるボール、そしてジェトゥリオのシュート、揺れるゴールネット。フラッグを上げる線審、オフサイド。試合終了を告げる笛。

試合終了を告げる笛は、2023年のシーズン開幕を告げる笛でもあった。長い長いシーズンが始まった。

練習と本番

「公」は「私」に優先された。それは3月から始まった。

毎月一度だったそれは7月から週に一度になった。「私」に侵食してくる「公」に余白がどんどん削られていく感覚、千々に乱れ粉々になる毎日に囚われつつあったときに、くどうれいん『日記の練習』を発見する。

うまくいきすぎてあっという間だったりうまくいかなすぎてあっという間だったりして押し流される日々の中で、杭を打つようにせめて書く

https://nhkbook-hiraku.com/n/n834faf81aa22

『日記の練習』と『日記の本番』。この二つには大きな可能性がある。「本番」はやって来ないかもしれない。でも、もしかしたら、いつか「本番」がやって来るもしれない。その可能性が輝いて見えた。そういう希望としての「本番」と、その希望に向けて毎日をつなぎとめるための「練習」。

これは日記の練習です。

冒頭にこの一文が置かれることで、日々の断片は書き残された。

「じゃあまたな」と散り散りに解散した

うまく切り抜け、結果としてそのときに約束を守れた人

私たちは困難を選ぶことはできないが、自分たちの反応を選択する自由がある

9月、「公」は一面を焼け野原にして終了した。そして僕は生き延びることに成功した。

けれどいずれにしたって、その折々に断片を書き残しておくことができたなら、思い返されるたびに勝手に注がれまくって迷惑している意識だって、すこしは楽にしてやれるのではないだろうか。うまくいきゃ深めることだって

https://murashit.hateblo.jp/entry/2023/03/24/140526

すべてが断片化されてバラバラになるならば、束ねること、つなぎ合わせることに価値が生まれる。もしかしたらそれは "Best of the Year" と呼ばれるかもしれない。

「チャンピオンたちの戦い」とユニフォーム

10月、天皇杯で優勝した甲府は、日本を代表するクラブとして、2023/24ACL(アジア・チャンピオンズリーグ)のグループステージを戦っていた。ACL がなにを意味するのかというとそれは「アジアサッカー連盟のチャンピオンたちの戦い」っていう意味だ。

11月始めの水曜日、会社を半休して国立競技場へ向かった。小瀬のスタジアムは ACL の基準を満たさず、ぐるりと取り囲む山々のはるか彼方の国立競技場で戦っていた。そこは "JAPAN NATIONAL STADIUM" と呼ばれる。

その日、甲府は、中国のトップリーグである超級第3位の浙江FCに前節アウェイでの敗戦の雪辱を果たし、その日、僕は、2月のエッセル スーパーカップの雪辱を果たした。国立競技場の青々と輝くピッチと丸く夜空を切り取る屋根を見上げていた。

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いつもと同じバックスタンドで、右隣は地元を離れてて久しぶりという青赤のユニフォームの学生、左隣は赤色のユニフォームを着た J1 リーグ強豪のサポーター、前にはお年を召した御夫婦と若いカップル、後ろには会社帰りに気まぐれにやってきたスーツ姿のサラリーマン達。そして振り返ると、スタンドのあちこちに J リーグの様々なクラブのサポーターが、思い思いに自分たちの色のユニフォームを着て集まっていた。ここで僕はユニフォームに掲げられた日の丸の意味を知ることとなる。

衣服には自分がいったい「どこ」の「誰」なのかを表す機能がある。

しかし重要なことは、かつて社会学者ゲオルク・ジンメルが指摘した「同調化」と「差異化」という2つのベクトルが、いかなるスタイルの形成においても見られるということであろう。 特定の社会的集団の一員であろうとする同調化の欲求によって、私たちは自分がどこに属するのかを示そうとする。そして、その集団内において自分と他人を差異化することによって、私たちは自分がだれであるかを解き明かそうとする。

https://fashiontechnews.zozo.com/series/series_fashion_technology/ken_kato

サッカーにおいてそのユニフォームを身に着けることは「無償の愛」を意味する。それは「好きとか嫌いの外側」にある。そして、それぞれが異なるユニフォームを身に着けているということは、そこに「敵対関係」が存在することを意味する。同じ空間を占めることは本来、許されない。

しかしその日の国立競技場には、信じられないくらいポジティブな空気が満ちていた。ちょっと信じがたかった。それぞれがそれぞれのユニフォームを着て、自分たちが「どこ」の「誰」なのかを表明しながら、それでも立ち上がり飛び跳ね歌を歌い手を叩き、その姿勢で甲府というクラブに対する大きな共感を示していた。

境界を溶かす。これはフィクションか、それとも現実か。

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リアルとフェイク

長かった J2 のリーグ戦が終わった
遠く山形の空の下で

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/11/14/174714

エッセル スーパーカップの雪辱を果たしたその4日後、僕らの2023年のシーズンが終わった。画面の向こう側でピッチに膝をつく選手たち。試合終了を告げる笛は聞こえなかった。ときに現実は非情だしワックだ。

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いまだ読書は戻って来ず、惰性にまかせて『おくのほそ道』を読み返していた。

文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河

『おくのほそ道』は点と点を繋げていく旅だ。それはかつて西行が詠った場所を辿ることを意味する。その地は、芭蕉たちが訪れたときには、すでに見る影もないほどに変わり果てている。芭蕉は、現実の風景を見たのではない。西行が残した句の向こう側に、彼が見たであろう風景を見ている。ときに虚構は事実よりリアルだ。

この旅は、江戸を立って松島に行きつくまでは、事細かく道中が語られるけども、日本海に至るや否や、時は先へ進み、歩みはスピードを上げる。新潟はたった数行で通り過ぎてしまう。曽良が旅から離れると、さらにスピードを上げる。やっと辿り着いた福井の汐越の松では、とうとう自分の句ではなく、西行の句を引用して通り過ぎてしまう。

夜もすがら 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松

ドナルド・キーンは「たいていの日記は退屈で全然面白くない」と言った。「面白い日記は後から書き直されている。編み直されている」と。そして『おくのほそ道』について「作り話や事実からの乖離が、永続的な真実感を高めている」「事実は、芸術には不十分だった」と。

真実かどうかなんて別にどうでもいい。そんなのはオレが決める

https://taizooo.tumblr.com/post/700344225

愛と力

公と私、敵と味方、 J1 と J2 、都市と地方、世界と日本、練習と本番、事実と虚構、空想と現実、ワックとドープ。

言葉は境界となって世界を二つに分ける。「Aである/Aではない」。境界が引かれれば現実が立ち上がり事実が生み出される。世界を分けることは人間の認識の根幹に関わる。言葉が与えられると境界が引かれそこに場所が生まれる。そして自分をそのどちらかに置く。ウォーラーステインはそれを「世界システム」と呼んだ。中核、辺境、アウトサイダー。

前衛,辺境,周縁,まあなんと呼んでもいい

https://taizooo.tumblr.com/post/24845803

gyazo.com*3

境界が引かれるとそこにフロンティアが生まれる。それは大航海時代の冒険の原動力となったものでもあるし、アメリカが西部を目指す原動力となったものでもある。そして先住民は征服され、黒船は下田に来航し、極地には国旗が掲げられ、人類は月まで到達した。僕らは自ら境界を引きながらその境界をこじ開け乗り越えようとする。たとえその結果が破壊的、壊滅的なものであっても。

難易度とスピードが強調されます。ハードであること、最高であること、最速であること。 その結果として生じるカメラのカクテル光線、危険、テストステロンはいつだって悲劇的です。

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2019/12/01/000000

ゲオルク・ジンメルは『橋と扉』で、こう言っている。

私たちが結びついていると感じられるものは、まずは私たちが何らかの仕方でたがいに分離したものだけだ。事物は、一緒になるためにはまず離れ離れにならなければならない

僕らは生きていくために境界を引いて世界をバラバラに解体する。そして同時に断片を束ねつなぎ合わせ、立ち上がり飛び跳ね歌を歌い手を叩き境界を溶かし、世界を一つにしようとする。僕らは自己の差別化と個別化を望みながら、また一方では全体の均質化と統合化を望んでいる。アダム・カヘンはこれを「力」、そしてもう一つを「愛」と呼んだ。

すべて持つことはできない。 禁じられている。 選ぶことを学べ。

https://taizooo.tumblr.com/post/170040413

だがしかし僕らは「愛」と「力」の両方を選ばなければならない。


この post は 2023 Advent Calendar 2023 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は kzys サンです。お楽しみに。

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