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今週末の良かったこと(レーウェンフックの顕微鏡、デカルトの観念、詩神を召喚す、機械翻訳)

レーウェンフックの顕微鏡

先週末に LINE に送られてきたオワンクラゲの画像から新たに積読山脈に積まれたダニエル・M・デイヴィス『人体の全貌を知れ』第1章は下村修の緑色発光タンパク質の発見とベツィグとヘルは蛍光顕微鏡の開発について書かれている。その冒頭は17世紀の顕微鏡の話から始まる。

1665年、ロバート・フックは世界初の顕微鏡による図版集『ミクログラフィア』を出版した。フックの図版集にはコルクの薄片、針の先端、カミソリの刃先、そして怪物のように巨大なノミの姿が書かれていた。1676年、アントニー・ファン・レーウェンフックは、改良した顕微鏡で、水滴の中に微小な生物が潜んでいるのを観察した。

話はそこから一気に進んで、20世紀の蛍光顕微鏡の誕生まで進む。

観念と視覚

いま、写経のようにして読んでいる、イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』のパートA「観念の全盛期」は、「観念」という失われた概念、枠組み、システムの話だ。21世紀を生きる僕らは、デカルト、バークリー、ポール・ロワイヤル(論理学)が「思考」「精神」「観念」と呼んでいるこのシステムを、その当時のままで理解することができない。

デカルトの世界は、徹底的に視覚的である。
眼でもって視るということは、精神で知覚するということだったのである。
「視覚的知覚は、それがメタファーであるという意識をほとんどあるいはまったくともなわずに、精神的知覚に関する用語で言い表された」のである。

かつて、知ることが見ることを意味していたことの名残りは "Now I see." という慣用句に残っている。

デカルトたちは思考を視覚になぞらえていた。現代は「言語」「意味」「論理」の時代だ。僕らはまったく違うやり方で世界をとらえている。

すべて光なりき

デカルトは『方法序説』をラテン語で書いた。『方法序説』は『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』という長い題名で書かれる予定の本の序章という位置づけだった。

ニュートンは『光学』を英語で著した。

この書は英語で書かれており、この書でニュートンが示した世界観は18世紀の様々な文学作品などにも影響を及ぼすことになった

光学 (アイザック・ニュートン) - Wikipedia

ここで、マージョリー・ホープ・ニコルソン『ニュートンの『光学』と18世紀の想像力』という文字列を見つけた。ニュートン、光学、18世紀。俄然やる気になって、インターネットを漁りまくった。そして "Newton Demands the Muse: Newton's Opticks and the Eighteenth Century Poets" という原題と、『ニュートン詩神を召喚す』という別の邦題を見つけた。ニュートン、詩の女神ミューズ(ムーサ)、召喚。さらにやる気が出てきた。

最近、積読山脈のリファレンスが Amazon から国立国会図書館サーチになった。古い書籍のいくつかは国立国会図書館サーチから国立国会図書館デジタルコレクションにリンクされていて、アカウントをつくると Web で読むことができる。kotoriko が力説していた面白さの一端を垣間見ている。

そんなわけで、『ニュートン詩神を召喚す』が、平凡社『美と科学のインターフェイス』という書籍に掲載されているのを発見した。国立国会図書館デジタルコレクションにアーカイブされてた。幸運。

美と科学のインターフェイス (叢書ヒストリー・オヴ・アイディアズ ; 1) | NDLサーチ | 国立国会図書館
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お約束で巻末の解説ページまで飛ぶと、文章に青色のラインが引かれていて、そこには、こう書かれていた。

科学者が望遠鏡や顕微鏡をのぞいて異空間を人知にもたらしてしまったために起きた、ものすごい意識革命のこと

https://dl.ndl.go.jp/pid/12417830/1/126

17世紀は光学革命の時代だった。

ここで科学革命とは、とか、科学とは、とか、パラダイムとは、とか、それを「革命」と呼ぶと、とたんに泥沼に繋がってしまうんだろうけど、それはさておき、

当時、顕微鏡や望遠鏡でなにかを「視る」ことは、すごくクールでヒップでカッコイイ行為だったのだ。それは哲学とか文学とかそういう知識人の間だけではなくて、社会全体に満ちていたのだと思う。

強力なインデックス機械が僕らのイコンに突っこまれていく

金曜日の夜、ドロップされた、ニューシット、岩波書店『思想』2024年6月号。これを買った理由は、ホイト・ロングの論考『機械翻訳とともに生きることを学んで』(秋草俊一郎 訳)が載っていたから。

本論文は『数の値打ち―デジタル情報化時代に日本文学を読む』(フィルムアート社)を書いたロングが、進歩がめざましいニューラル機械翻訳を(人)文学研究に活用できないか探索した著者最新の研究です

https://x.com/shun_akikusa/status/1795107260315607116

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Google 翻訳などの機械翻訳をもちいて多言語の文学作品を読むこと、世界で最も多い英語話者の人たちが世界文学のパースペクティブをどう獲得するのか、といったことが、機械翻訳の仕組みや、統計的な手法による図表によって明らかにされている。

あまたの研究者が、コンピュータが書く文章を論じたり、文芸のことばや創作プロセスにおけるオリジナリティについての手垢まみれの通説を再検討したりして、未踏の地の理論化に乗り出している 。システムが視界から消え去り、「(まだ完了していないが)この強力なインデックス機械[生成AI]がわれらの社会通念のイコンに突っこまれていく真っ最中」の世の中で、「生成される表現に真実味が認められて疑わしきは罰せず」になってしまう前に、手を打たなくてはまずいのだ 。そしてそれは、ボタンひとつにかかっているのだ。

https://yakusunohawatashi.hatenablog.com/entry/2024/05/31/110934

この論文は2023年に書かれたものだけども、2024年のインターネットの僕らは、機械翻訳どころか Chat GPT が生成した文章を読んでいる。これを「革命」だなんて呼ぶと、とたんに泥沼に繋がってしまうんだろうけど、それはさておき、

僕たちは間違いなく、こういう概念、枠組み、システムの影響を受けている。僕らの世界のとらえ方はこういうものたちの影響から逃れられない。たぶん、おそらく。

私は万能翻訳機に頼りすぎている。 地球を発つ前に、三八か国語を学習した。 いまやボタンひとつを押すだけで、 コンピュータが全部やってくれる。
――ホシ・サトウ『スタートレック――エンタープライズ』(二〇〇二)

https://yakusunohawatashi.hatenablog.com/entry/2024/05/31/110934

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