copy and destroy

catch and eat

日記の本番 2024/06 の補足

日記の本番の補足です。

6月の「日記の本番」*1の補足を書きます。

イアン・ハッキングが『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の最初でパート A 「観念の全盛期」を扱ったのかというと、まずこの時代がデカルトから始まった「観念論」のまさに全盛期だったというのが一つ、もう一つはこの時代の哲学者たちは「言語を哲学の問題であるとはみなしていなかった」ことを明確にしたかったから。

僕はすっかり「観念論」に魅せられてしまったけれども、ハッキングはべつに「観念論」を掘り下げたいわけではないので、僕を置いてきぼりにして、時代を一気に遡って20世紀まですっ飛ばしてしまうのだった。

そんなわけで写経のようにして読んでいる『言語はなぜ哲学の問題になるのか』はとっくの昔にパート B 「意味の全盛期」に移っているんだけど、ちょっと停滞している*2。そんな気分に一区切りつけるために6月の「日記の本番」を書いたというのもある。

脱線の気配がメチャメチャ漂っているので一区切りついているかどうかちょっとわからない。


ハッキングは日本語版の序文で「言語観の転換はいつ生じたのか」を新たに書き下ろしている*3。パート A 「観念の全盛期」からパート B 「意味の全盛期」への二世紀間の飛び越えについての補足が挙げられている。

「観念」から「意味」への変遷において『観念」の最後の代弁者がコンディヤック(エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック)、「意味」の時代の先駆けがヘルダー(ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー)だ。

そしてこの変遷についての鍵は「言語観」の変化で、それについての重要な文章を残しているのはミシェル・フーコーとノーム・チョムスキーだ。

脱線するための落とし穴はハッキリとしっかりと口を開いている。

powered by hatena blog.
the nikki system for lifelogging junkies.

all posts © their original owners.
writing is reusable solely under the by creative commons license.