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日記の本番 2024/06

これは2024年6月の日記の本番です。

言語はなぜ哲学の問題になるのか - taizooo
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シナの百科事典

その百科事典にはこう書かれている。


― 動物は次のように分類される。
(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳飲み豚、(e)人魚、(f)寓話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれるもの、(i)狂乱状態のもの、(j)数え切れぬもの、(k)駱駝の毛の極細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)たった今、ツボを壊したもの、(n)遠くから蝿のように見えるもの

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

ホルヘ・ルイス・ボルヘス( Jorge Luis Borges 1899~1986 )『ジョン・ウィルキンズの分析言語』からの引用です。その百科事典は「シナの百科事典」と呼ばれています。そこで動物はこのように分類されています。「この分類自体に含まれるもの」「その他」「たった今」「蝿のように見えるもの」、分類不可能。

「観念の全盛期」

イアン・ハッキング( Ian Hacking 1936~2023 )『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の一番最初のパートのテーマは「観念の全盛期」です。それは17世紀から18世紀にかけての出来事です。

『観念』という言葉で彼(ジョン・ロック)が意味するのは、彼自身認めているように、ほとんど、人が好きに選んだ何でもよいのである。

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

これはジェフリー・ウォーノック( Geoffrey Warnock 1923~1995 )がジョン・ロック( John Locke 1632~1704 )の言う「観念」について説明したものです。何でもよい。

ロックは「観念」という語を非常に幅広い仕方で用いる。それは少なくとも次のものを含んでいる。
(a) 感覚知覚(感覚印象)、(b) 体感(痛みとかくすぐったさのようなもの)、(c) 精神的心象(イメージ) 、(d) 思考と概念

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

これはデイビッド・アームストロング( David Malet Armstrong 1926~2014 )の「観念」ついての説明です。感覚、痛み、心象、思考と概念。全部。

後の註釈家たちは17世紀の哲学者たちの「観念」というキーワードを理解するために、時代を遡り書かれたものを漁りまくって、そして絶望します。

この様子を見てハッキングは、先の「シナの百科事典」に書かれている動物の分類を並べます。そして、思考の限界、思考することの不可能性について触れます。われわれには思考できないものがある。「観念」はそれである。少なくとも現代の僕らにとっては、と。

ここで使われている「観念」という語は "idea" (イデア、イデー)という語の日本語訳として西周( Nishi Amane 1829~1897 文政12年~明治30年 )が当てたものです。もともとは仏教用語でした。1873年、明治6年、19世紀半ばのことです。

かん‐ねんクヮン‥【観念】
〘 名詞 〙
① ( ━する ) 仏語。心静かに智慧によって一切を観察すること。また一般に、物事を深く考えること。
[初出の実例]「親授二灌頂一、誦持観念」(出典:性霊集‐四(835頃)請奉為国家修法表)
「我、一心に極楽を観念するに」(出典:今昔物語集(1120頃か)一五)

観念(カンネン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

④ 哲学で、何かを意識したり、考えたりしたときに、意識のうちにあらわれる内容。人間の意識内容として与えられているあらゆる対象。
[初出の実例]「観念の字は仏語に出づ、今此書には英のアイデア、仏のイデーなる語を訳す」(出典:生性発蘊(1873)〈西周〉一)

観念(カンネン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

神から人間へ

「観念」(イデア)という言葉は時代とともに大きく変化します。

プラトン( Plato BC427~BC347 )は「イデア」を創造主である神の側に置きました。人はそれぞれみんな違う人間ですが「人間」という共通性を持ちます。これをプラトンは「人間のイデア」と呼びました。人間のイデア、犬のイデア、猫のイデア、大きさのイデア、美しさのイデア。神が世界を創造するときにその元となったものがイデア。神は「人間のイデア」から「人間」をお作り給うた。(神は「人間のクラス」から「人間のインスタンス」をお作り給うた。)

デカルト( René Descartes 1596~1650 )は「観念」(イデア)を人間の心の中にあるものとしました。ちょうどその頃、世界の中心が地球ではないことがあきらかになりつつありました。この無限の広がりをもつ世界の中で、ちっぽけな人間がいったいどうすれば世界を知ることができるのか。

「世界は神がお作り給うた」から「人はどのようにして世界を知ることができるのか」に変わりました。神にではなく僕らの心の中に「観念」はある。世界を知ることは正しい「観念」を捉えることである。どうしたら正しい「観念」を捉えることができるのか。「わたしは考える」( Cogito ergo sum )。

思考すること、視ること

ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』の主題はタイトルの通り「言語」です。タイトルが全てです。わたしたちは言葉によって世界を認識しています。世界に存在する対象(個物)(意味)をその名前(言葉)(記号)を呼ぶことで指し示します。それは車のキャブレターだったり、料理の本だったり、あるいはポケットの中の硬貨だったりします。

しかし17世紀の彼らはそうではありませんでした。対象は「個物」ではなく「観念」でした。

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

『対象』(オブジェクト object )という言葉は、これと結びついている『主体』(サブジェクト subject )という言葉と同様、哲学史の内で一種の意味上の転倒を被ったのである。

サブジェクト(主体)は、かつては、例えば命題がそれについての命題であるところの当のもの、認識という処理を得る以前の、それ自体において実際に存在しているとおりのもの、のことであった。

これに対してオブジェクト(対象)は、かつては、常に『何ものかのオブジェクト』( object of ~ ) であった。欲望の対象、思考の対象は、我々の現代の意味でのオブジェクト(すなわち『ポケットの中の硬貨』のような個別的な事物)ではなかった。

「対象」のパラダイムが観念であって硬貨ではないということは、この「思考のエキゾチックなシステム」の魅力(あるいは、的外れであること)の一部をなしている。


対象は心の中にあります。ボルヘスがシナの動物たちについて書いたように、それは全く違ったエキゾチックで魅力的な思考システムでした。「観念」は黙想されるものであり「観念」は視るものでした。

(そして)観念が対象であるということは物語の半分であるにすぎない。残りの半分は、観念による推論が、見ること( seeing ) に似ているということである。

言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解 - taizooo

デカルトの世界は、徹底的に視覚的である。眼でもって視るということは、精神で知覚するということだったのである。

思考を視覚になぞらえる - taizooo

知ることが視ることを意味していたことの名残りは "Now I see." という慣用句に残っています。思考することは視ることでした。

すべては光

1665年、ロバート・フックは世界初の顕微鏡による図版集『ミクログラフィア』を出版した。フックの図版集にはコルクの薄片、針の先端、カミソリの刃先、そして怪物のように巨大なノミの姿が書かれていた。1676年、アントニー・ファン・レーウェンフックは、改良した顕微鏡で、水滴の中に微小な生物が潜んでいるのを観察した。

今週末の良かったこと(レーウェンフックの顕微鏡、デカルトの観念、詩神を召喚す、機械翻訳) - copy and destroy

17世紀は顕微鏡、望遠鏡の発明と発展の時代でした。望遠鏡は遥か彼方の天体の世界を開き、顕微鏡は人が知ることができない微細な世界の存在を開きました。

ニュートン( Isaac Newton 1642~1727 )の『光学』は1704年に発行されました。(ニュートン力学についての)『プリンキピア』はラテン語で書かれましたが、それにも関わらず文学や社会に大きな変化を与えました。『光学』はその最初から英語で書かれました。専門的な知識がない人たちでもそれを読むことができました。その影響は計り知れないほどです。

美と科学のインターフェイス - 国立国会図書館デジタルコレクション
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「ニュートン、ミューズ(詩の女神)を召喚す」。当時、(顕微鏡や望遠鏡で)なにかを「視る」ことは、すごくクールでヒップでカッコイイ行為だったのです。それは哲学とか文学とかそういう知識人の間だけではなくて、社会全体に満ちていたのだと思います。

ティム・インゴルド( Tim Ingold,1948~ )は『ラインズ』の最終章でこのよう言っています。

啓蒙思想は "Enlightenment" と呼ばれる。「光」を意味する。光は直線的に進む。進歩は同様に直線的に進むと考えられている。それはゴールが存在すること、進むべき正しい方向があること、そして自分はそれを進むのだ、という強い意志を意味する。

今週末の良かったこと(スーパーカップと光と直線と断片と希望の話) - copy and destroy

17世紀、18世紀は光の時代でした。

すべては言葉(記号)

21世紀に生きる僕らも世界を見ていますが、僕らは言葉で世界をとらえています。言葉、もう少し広く捉えると記号です。僕らは LCD や OLED の画面を通して青赤緑の三原色の点々で世界を捉えています。そこには表面だけがあります。どこまで行っても奥行きがありません。低精細度、高参与性、クールなメディア。

その事実に直面したのは日産 KICKS ( ニッサン キックス 2016~ ) の「インテリジェント ルームミラー」を使ったときのことでした。「奥行きがない!焦点が合わない!」

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僕たちは実際に振り返ることなく後方視界を確保できると思っているのと同様に、文章や映像や音楽によって世界が理解できると信じて疑いません。

冨田恭彦( Tomida Yasuhiko 1952~ )は『観念論の教室』のあとがきに「僕は、19歳の頃、数カ月の間、熱狂的な観念論者だった」と書いています。僕自身もこのミステリアスでエキゾチックで魅惑的な「観念論」にやられています。ハッキングの『言語はなぜ哲学の問題になるのか』を放っておいて、冨田サンのデカルト、ロック、カントという「観念論」に関わる一連の著作へ逸脱寸前です。

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と、まとまらないので、ここまで書いて筆を置きます(つづく)。

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