copy and destroy

catch and eat

日記の練習です。

日記には、積読山脈については書いているけど、読んでいる本についてはアルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』を読了した話しか残していなかった。本を積むことについてはかなり積極的に書くけど、本を読むことについては書かないというか書きたくないみたいな不思議な力が働いている。

それはたぶん自分の読書体験が、読みかけでそのまま投げ捨ててしまうことが多いというのと、「一年の誓いを立てる」とか「目指せ、目的・目標」とかそういう「有言実行だ!」「モチベーションだ!」みたいマッチョな姿勢を全くない信用していないというのと繋がっているのだと思う。自分自身を全然信用していないのだ。

一冊の本がただっ広い部屋のあちこちに点々と浮かんでいて、それを足場に一冊ずつホップ・ステップ・ジャンプしながら、部屋の中を飛び回るというイメージ。僕は世界で行われている標準的な読書をこういうイメージで捉えている。だからみんな、いま読んでいる本、読み終わった本、これから読む本について話すことが出来るのだろう。

じゃあ、自分の読書はどんな感じかというと、こんな感じ。世界のあちこちに大小さまざまな積読が山脈を成していて、自分がその山々をウロウロと彷徨っているイメージ。今いる場所もよくわかっていなし、どの方向に進めばいいのかもわからないし、そもそもどの山に上ろうとしているのかも定かじゃなし、そもそも上っているのか下っているのかもわからないし、山々はあまりにもデカすぎる。そもそもなにをしようとしているのか。本を読むってなに?

もう、なんのためにこんなことをはじめたのかよく思いだせない。

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ということで、いま読んでいる本とそれにまつわる積読山脈について書いておく。いま読んでいるのはこの野矢茂樹『言語哲学がはじまる』。

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せいぜい250ページくらいの新書(岩波新書)なんだけど、全然進まない。つまらないわけではない。面白い。だがしかしいつも通りノロノロと読み進めている。ジョン・ロックから始まってゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセル、そしてまだたどり着いていないけどルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインへと繋がる話です。だいぶまえにプラグマティズムについて読んでいたときがあって、そのときに積んでいた『哲学の歴史』第11巻 論理・数学・言語(20世紀II 科学の世紀と哲学)に、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの3人が載っていた。

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フレーゲは原著の翻訳が著作集として出版されていて、ウィトゲンシュタインは超人気なので原著が文庫になっているけど、ラッセルは全然ない。ラッセルについて日本語で概論が読めるのはこの『哲学の歴史』第11巻ともう一冊くらいしかない。『哲学の歴史』第11巻では戸山田和久が「ラッセル」の章を担当している。そしてもう一冊はこの『哲学の歴史』第11巻 責任編集の飯田隆が書いている『言語哲学大全Ⅰ』。

この日記の練習を書いていて気がついたけど、いま自分がいる場所は「20世紀、科学の世紀の哲学」だった。なんだよ、また20世紀かよ。

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