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2021.01.23 Saturday ニセコなだれ情報 第46号
http://niseko.nadare.info/?eid=1069489

「雪は素晴らしく良いが天候急変に注意。等圧線が狭まればすぐに吹雪く。」

「滑るならフォールラインを。昔スコット・シュミットはここを3ターンで滑っている。谷は雪崩の走路となる。谷底にいてはならない。ヘルメットの着用とビーコンの携行を勧める。これらの道具は自分を守るだけでなく仲間の命も守る。良い週末を。」

1.0

ブルース・チャトウィン「黒ヶ丘の上で」、1900年にウェールズとイングランドの境界の村で生まれた双子の100年の物語だ。そこはウェールズからもイングランドからも遠く、辺境の地と呼ばれている。英雄でもなければ悪者でもなく、喜劇でもなければ悲劇でもなく、淡々と日々の生活が描かれる。たとえ世界の涯であったとしても、20世紀を生きるということは、そのあとに続く雪崩のような流れの中を生きることを意味する。歴史の中にはフォールラインが走っている。

1900年に生まれた彼らと、100年後を生きるわれわれは、相似の位置にいる。まるで鏡をはさんで向う側と、こちら側にいるかのようである。

1.1

1914年7月、大きな戦争が始まった。それは後に第一次世界大戦と呼ばれるようになる。まるで一つの存在のように一つの家、一つのベッドをともにしてきた二人は、違う町、別々のベッドで日々を生きることになった。ヨーロッパは1815年のワーテルローの戦いのあと戦争を経験していなかった。だれもがいつか戦争になると思っていたけどもそれがどんなものになるかわかっていなかった。

100年前、伝令と騎兵と歩兵だった戦争は、100年後、電信と鉄道と機関銃と戦車の戦争となった。

1.2

1918年11月、あらゆる場所を穴だらけ焼け野原にして戦争は終わった。弟は兵舎の営倉の病室で苦しんでいた。彼はスペイン風邪をひいていた。門の外では兄が中へ入れろとわめいていた。彼の目の前には銃剣を持った歩哨が立ちはだかっていた。

1.3

2020年1月、新たな感染症が世界に広がった。それは後に COVID-19 と呼ばれることになる。最初は中国、武漢での出来事だった。しばらくしてそれは横浜港沖のクルーズ船での出来事になった。そのうちにそれは世界、日本、そして半径3mでの出来事となった。ソーシャルディスタンス。人類はスパニッシュ・インフルエンザのあと疫病を経験していなかった。だれもがいつか危機がやって来ると思っていたけどもそれがどんなものになるのかわかっていなかった。

100年前、経験と迷信と洞察力と信仰と行き当りばったりだった感染症との戦いは、100年後、かたや、 PCR 、ワクチン、医学と科学の進歩と、こなた、デマ、中傷、分断といった鈍臭さとの戦いになっていた。テクノロジーは進歩したが人類は全然進化していなかった。

1.4

2021年7月、何回目かの大きな感染拡大のあと補欠リストからの繰り上がりでワクチン接種に滑り込んだ。前々日の金曜日、「急ですけど、どうします?」と聞かれたけど、あまり深く考えずに「打ちます、打ちます」と返事した。だんだん重くなる左肩を引きずってその足で本屋へ向かった。トマ・ピケティ「21世紀の資本」、ブランコ・ミラノヴィッチ「大不平等」、そしてピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」を買って帰ってきた。寝込んだら本でも読もうと思っていた。寝込まなかった。

2021年8月、それまでと比べようもないほどの感染拡大が広がっていた。2回目の接種、史上最高の体温を記録して2日ほど寝込んだ。本なんて一行だって読めなかった。ベッドの足元には空のペットボトルが何本も並んでいた。

2.0

2021年1月、何冊か本を買った。世界を揺さぶる感染症との戦いなんて知ったことかという1ヶ月に渡る祝祭が終わって、とにかくなにかが始めたかった。とにかく分厚いヤツが欲しかった。手当り次第に手に取った。アルフレッド・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ」、ウォルター・シャイデル「暴力と不平等の人類史」、アンドレア・ウルフ「フンボルトの冒険」。本当に断続的に、何年かに一度、読書期がやってくる。2021年は2017年以来の大きな波になった。

「史上最悪のインフルエンザ」はその後、宇野重規「民主主義のつくり方」、ルイ・メナンド「メタフィジカル・クラブ」、そして「プラグマティズム古典集成」からなんと哲学へと進んで袋小路にハマった。

「暴力と不平等の人類史」はその後、トマ・ピケティ「20世紀の資本」、ピーター・ドラッカー「傍観者の時代」、アレックス・ロス「20世紀を語る音楽」を巻き込んで、ブルース・チャトウィン「黒ヶ丘の上で」と思いも寄らない方向に繋がっていく。

2.1

2007年7月、インターネットの前衛、周縁、辺境、境界、世界の涯、まあなんと呼んでもいい、 tumblr の dashboard にログインして以降、世界の見方は間違いなく変わった。トンカチをもっている人間には全てがクギに見えるように、世界にはあらゆる方向にリンクが貼られているように見える。

ここまで続くこの読書もリンクを辿る旅でそれは2011年、ローレンス・レッシグ「CODE」から始まった。驚いたことにそれは、2003年に初めて Amazon で購入したうちの1冊だった。8年間の積読山脈。忘却と再生というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

2.2

松尾芭蕉は「おくのほそ道」でリンクをたどるように旅をしている。 芭蕉の旅が古典、歌枕のリンクをたどる旅だったように、インターネットでリンクをたどることは歩くことに似ている。人は一度に一つの道しか歩くことが出来ない。同じように人は一度に一つのリンクしかたどることが出来ない。

バラバーシ・アルベルト・ラースローは、ただひとりの人との繋がりをもっているだけで世界中の人とつながる、と言っていた。リンクが臨界数に達したときネットワークに根本的な変化が生じる。閾値は 1 だ。ただ一つのリンクを見つけることが出来れば、世界に接続することが出来る。「つながる可能性にリンクを開いておく」。

3.0

「フンボルトの冒険」、原題は "The Invention of Nature" つまり「自然を発明した」。 ここでいう自然というのは「生命の網」"the Web of Life" のことを言う。 自然は、一つ一つバラバラの事象がてんでバラバラに存在いているのではなくて、それぞれがリンクしている。その全体の繋がり、広がりにこそ本質がある。 この本の中で、フンボルトに影響を受けた人たちについて、それぞれ一章を当てている。フンボルトは歴史の上では、スケールフリーネットワークでいう巨大なノードとして存在する。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、トーマス・ジェファーソン、シモン・ボリバル、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ジョージ・パーキンス・マーシュ、エルンスト・ヘッケル、ジョン・ミューア、そしてチャールズ・ダーウィン。ダーウィンはビーグル号の航海に、フンボルト「新大陸赤道地方紀行」を携えていった。

3.1

チャールズ・ダーウィン「ビーグル号航海記」は5年間の旅の記録だ。その旅もリンクを辿る旅だった。大西洋からマゼラン海峡を回って太平洋へ、ガラパゴス諸島、オーストラリア、アフリカ喜望峰を回って再び大西洋へ。

その後、二度と海を渡ることはなかったが、彼は系統樹、つまり進化というリンクを描いた。

3.2

「ビーグル号航海記」、読み終わるのに8ヶ月くらい掛かった。8ヶ月かかってもダーウィンが船上で過ごした5年と比べるとはるかに速い。読むことと書くことはそのスピードが全然違っていて、そこには大きな非対称性がある。作者が命を掛けて何十年も書き続けた作品を派手に手荒に適当に扱って木っ端微塵に読み散らかすことも出来るし、そのまま放っておいて何年間も積読山脈に積み上げておくことも出来る。自分たちが完全に主導権を握っている。そこに読書の素晴らしさがあると思う。

本を読むことは、自分が実際に過ごしている時間とは別の時間軸を持つことになる。そしてそのスピードを上げたり下げたり、ページを飛ばしたり戻ったり出来る。時間は相対的なものだ。それは延びたり縮んだりする。発展と停滞というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

4.0

2019年にこのベスト・オブ・ザ・イヤーで発見したのは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だった。ベスト・オブ・ザ・イヤーといいつつその底を抜けて1989年までさかのぼった。それはインターネットの最初を追いかける旅だった。

時間は先送りしたり巻き戻したりスキップしたりリピートしたり出来る。それが明らかになったのは、1980年 VHS とベータマックスの間で繰り広げられた血の流れない世界大戦、ビデオフォーマット戦争が VHS の勝利によって終結したときだった。ハレルヤ。

4.1

葉っぱの坑夫は、日本語には未来形がないと指摘している。過去とそれ以外しかない。「過去とは、いま現在から前に存在するすべての時間。茫洋とした時のかたまり。すでに起きたこと。すでに起きたことで周知のこと」、「過去以外は、それ以外の時間。現在とその先に広がる未来の総和」。清水克行によると、中世までの日本語では「アト」には「未来」、「サキ」には「過去」の意味しかなかったそうだ。後日と明後日、先日と先々日。

過去が前にあって、未来は後ろにあった。

マーシャル・マクルーハンは、われわれはバックミラーを通して未来を見ていると言った。

「背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでいく」。躊躇なく、背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、というのは歴史家、考古学者もしくは墓掘りのあるべき姿だと思う。

4.2

ジェイムズ・グリック「タイムトラベル」によると、時間が過去から未来へと流れると意識されるようになったのは、ハーバート・ジョージ・ウェルズ「タイムマシン」の影響が大きかったそうだ。

未来が前に進んで、過去は後ろに下がった。

科学も哲学も文学もその影響から逃れられなかった。われわれは「過去から現在、そして未来へ」という一直線に貫く時間の矢印から逃れることが出来ない。

4.3

Web の中にフォールラインを描いたのは Twitter の Timeline そして Tumblr の dashboard だった。 Web に矢印が突き刺さされた。それは画面の上から下方向へ流れる、現在から過去への流れだ。

過去は積み重ならない。ただ縦に並んでいる。

5.0

2007年1月、 AutoPagerize が誕生した。ハレルヤ。それは Firefox の GreaseMonkey で動く Userscript だった。その基本的な動作は、表示しているページから「次のページの URL 」を読み込みパースして「必要な部分」を取り出し現在のページに継ぎ足すというものだった。

かつて otsune は「nクリックを1クリックにすると商売になる。1クリックを0クリックにすると革命になる」と言った。 AutoPagerize はまさにそれだった。 AutoPagerize によって初めて Web に一直線にフォールラインが描かれるようになった。インターネットはスピードを上げていった。だれもがその底を目指すように潜った。「スピード! スピード! スピード!」

5.1

かつてマイクロソフトとネットスケープの間で繰り広げられた血の流れない世界大戦、ブラウザ戦争は Internet Explorer が市場のほぼすべてを制圧して終結した。それは第一次ブラウザ戦争と呼ばれた。ネットスケープはのちに Mozilla と呼ばれるオープンソース、インターネットにおける正義を選択するが復活はなかった。しかしこのときにまかれた種子は Firefox として結実する。ハレルヤ。

Firefox は部分を成す小さなコアと、全体を成す拡張機能によって構成されていた。XUL/XPCOM といった仕組みを介して開発者は Firefox の全体にアクセス出来た。開発者は創造も破壊も可能であり何をするもの自由だった。その気さえあれば。その設計思想は、一塊の大きな物体と化していた Internet Explorer に対するアンチでありポストモダンでもあった。

3つの特徴的な拡張機能があった。 Firebug 、 GreaseMonkey 、 Stylish 。それぞれは解析ツール、 Userscript の実行環境、 Userstylesheet の実行環境だった。これらが意味したのはなんだったか。われわれは創造も破壊も可能であり何をするもの自由になった。その気さえあれば。 Web は書き換え可能なものとなった。 "Because it's your web."

5.2

2007年7月、休日出勤の気怠い昼休み、その地に第一歩を踏み出した。その名は tumblr 。ほんの気軽な気持でメールアカウントとパスワードを登録した。

なんの確認もなく呆気にとられているうちに彼の地は自分を受け入れた。あまりに殺風景な景色。なにも表示されていないまっさらな dashboard 。引用した文字はやたら大きく、自分の書く文章は躊躇したような小さな文字、なんの注釈もなく貼り付けられるフォト、そして表側右上の”Reblog”の文字。全然、意味がわからない。これはなに? ただ dashboard でくりひろげられている post の流れだけが何かを理解する手段であり場の流儀だった。ひと月と待たず dashboard の住人と化す。もう手遅れです。ご愁傷様でした。チーン。

6.0

dashboard には底がある。一つは世界の始まりとしての底。それは、David Karp によるファースト・ポストがそれにあたる。そしてもう一つの底は、われわれの世界の始まりとしての底。つまりわれわれの世紀の起源、紀元0年にあたる地点のことである。それはわれわれが初めて Tumblr を発見したその瞬間であると言える。ハレルヤ。

インターネットも底がある。Web は1991年に CERN にて Tim Berners-Lee によってその歴史が始まった。これがビッグバンの瞬間だ。

爆発的に拡大したこの網の目を見渡すためには Google Search にインデックスされている必要があるがその稼働は1997年のことだった。考古学的に Web を探求するためには地層を発掘する必要があるが Internet Archive の Wayback Machine だけがこの役割を担っている。その稼働は1996年のことだった。つまりそれ以前の Web に到達する方法はないのだ。

われわれの認識には起点が存在する。物事には始まりがある。宇宙の誕生。原始地球からの自己複製子の登場。生命の誕生。自分の誕生。自我の目覚め。ハレルヤ。

6.1

AutoPagerize は dashbord を食い尽くすようになった。その底はあっという間に浅くなった。その頃 dashboard の深さとわれわれの持っている時間の間には大きな非対称性があった。

深くフォールラインに潜るというのは、同じ情報に何度も何度も出会うことでもある。本当に重要なことは何度も何度も目にすることになる。反復、反響、エコーは大きな力を持っている。その力から逃れることは簡単ではない。そしてこの力は、大多数の人たちにとって重要ではない情報は淘汰されてしまうことを意味した。

みんなにとって大事なことには何度も何度も出会うことになる。自分にとって大事なことには出会うことさえないかもしれない。

6.2

2008年11月、 Endless Summer というささやかな Userscript が誕生する。ハレルヤ。それは AutoPagerize に寄生する小さなスクリプトだった。その基本的な動作は、表示しているページとは直接接続されなかったはずの「次のページの URL 」をランダムに読み込みパースして「必要な部分」を取り出し現在のページに継ぎ足すというものだった。

描かれるはずだったフォールラインはバラバラに分解されて過去と現在と未来という時間軸は継ぎ接ぎに繋ぎ合わされた。そこにあった反復、反響、エコーはズタズタに引き裂かれて、いつまでたっても始まらないディスコ・チューンのイントロのように成り果てた。

墓掘りたちはノイズだらけの dashboard に皆、喜んで潜り続けた。「みーんな取り憑かれてるんだ。AutoPagerize とか LDRize とか tombloo とか Tumblr とかインターネッツとか自由とか、そーいうものに。ご愁傷様でした。チーン」。

7.0

テリー・ライリーは The Harvey Averne Dozen の"You'er Nogood" をズタズタに引き裂いて、 MOOG と2台のオープンリールで継ぎ接ぎに繋ぎ合わせた。1969年、ブロンクスがブレイクビーツを発見する遥か昔の話だ。カットアンドペースト。コピー、エディット。ハレルヤ。わずか3分のその曲は、延々と交互にループで引き伸ばされて、最後、ノイズにすっかり覆われてしまった。

アレックス・ロス「20世紀を語る音楽」にはこのようにあった。「音楽はときとしてノイズに似ている。なぜなら音楽はまさにノイズだ」「どこにいようと聞こえてくるのはほとんどノイズだ。ノイズは無視するとかえって邪魔になる。耳をすますとその魅力が分かる」

イタロ・カルヴィーノは「なぜ古典を読むのか」の中で「みんなにとって大事なこと」を「時事問題」と呼び、それを「窓の外のノイズ」に例えた。そしてそのノイズは絶対に必要なものであると。なぜならそれは、自分が今どこにいるのかを指し示す指標だから。そしてこう言った。「ノイズを BGM にしてしまうのが古典である」そして「もっとも相容れないたぐいのノイズがこの世界をすべてを覆っているときでさえ BGM のようにささやきつづけるのが、古典だ」と。

7.1

ノイズとはいったいなんなのか。情報理論においてシグナルとノイズは明確に区別出来ることになっている。クルートレイン・マニフェストによるとこうある「インターネットとは一連の合意の総体である。それはプロトコルと呼ばれる」。プロトコルから外れた情報は打ち捨てられる運命だ。

生物学においてシグナルとノイズは区別がつかない。そもそもその区別に意味がない。ユクスキュルはそれぞれの生物はそれぞれの環世界を持つとした。環境から受け取る情報を元に、それぞれの環世界を構築している。情報には、利用されるものと利用されないものの区別しかない。森田真生は「数学する身体」でこう言った。「設計者のいないボトムアップ、つまり「進化」では使えるものは見境なくなんでも使われる」「物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はない」。

人間もそれぞれがそれぞれの環世界を築いている。そして他者とのコミュニケーション、対話においてもシグナルとノイズの区別に意味はない。使えるものは見境なくなんでも使われる。たとえ傍目からはそれがノイズに見えたとしても。

7.2

かつて marco11 はこう言った。「アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う」。これはわれわれにとっての聖典、イコン、古典である。

みんなにとって大事なことには何度も何度も出会うことになる。自分にとって大事なことには出会うことさえないかもしれない。

8.0

クルートレイン・マニフェストはこう宣言する。「インターネットではわれわれがメディアだ」。

藤井正希によると、マクルーハンはメディアを「人間の生み出したテクノロジーの別名であり、それは人間の能力を外化、拡張したものを指す」と定義した。そしてそれを2つに分けた。「コミュニケーションに用いられるメディア」と「能力拡張のテクノロジーとしてのメディア」。

はたして、インターネットはコミュニケーションのためのメディアなのだろうか。それとも、人間の能力が拡張されたものなのだろうか。

8.1

マクルーハンは、テクノロジーの進歩とコミュニケーションの変化を「グーテンベルクの銀河系」から「グローバル・ヴィレッジ」への変化と捉えた。われわれは銀河系の住人からムラの住人になろうとしている。

「グローバル・ヴィレッジ」、グローバルという大きな世界を表す言葉とヴィレッジという小さなムラを表す言葉の合成。大きさと小ささ。スケールの大きさとその中に含まれる断裂、対立、分断のイメージ。

鷲田清一は、宇野重規「民主主義のつくり方」の書評にこう書いた。「統合ではなく対立や分断を内に抱えていることが社会の構成要件になってゆく」。断裂、対立、分断は歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

8.2

クルートレイン・マニフェスト、その冒頭でインターネットが抱える3つの脅威について触れている。一つ目は「愚か者」、愚か者はいつだって勝手に地雷を踏み抜いて爆発する。場合によってはわれわれを道連れにしたりする。二つ目は「略奪者」、略奪者はいつでも親切に良心的な顔をしてわれわれをコケにしようと近づいてくる。

そして最後に、最も危険なのは三番目の大群「われわれ」であると。

だがしかし、インターネットが築き上げた栄光は、この大群で未分化で個別でバラバラなわれわれを結びつけたことにあったはずなのだ。

8.3

COVID-19 の感染拡大は、この世界、インターネットだけではなくて、この毎日、まさにこの生活の場が、目に見えない大きなネットワークを成していることを明らかにした。無症状感染と人流と感染経路と検査陽性率と実行再生産数、たちまち動きを止めたサプライチェーン、滞留し停滞するロジスティクス、乖離する実体経済と金融市場、混乱し混沌と化す政府と地方自治。断裂、対立、分断は何回も何回も、いろいろな場所で現れる。

われわれは、一人ひとりバラバラの人間がてんでバラバラに存在いているのではなくて、それぞれがリンクしている。その全体の繋がり、広がりにこそ本質がある。全てのリンクは繋がっている。

9.0

世界との向き合い方について、カート・ヴォネガットはこう言っている。「二つある」。

「まず、宇宙全体をきちんとするなんてことはできないと認めること」、「そうして二番目は、それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ。粘土の塊とか、四角いキャンバスとか、紙切れとか、そうしたものを」。

9.1

「20世紀を語る音楽」の最後にこうある。

「反復的音楽はよりしばしば、この後期資本主義消費社会において、私たちみなが繰り返し (また練り返し、そしてまた繰り返し…) 直面しなくてはならない数多くの反復的関係性を目の当たりにして、感謝と警告と防御 (あるいはただ美的なスリルさえも) を提供してきた。私たちはこの文化のなかで同じことを繰り返してきた。私たちは同じことを繰り返し尽くすことができるかもしれない」。

9.2

私たちは繰り返し、また練り返し、そしてまた繰り返し、繰り返し続けてきたことを、繰り返し尽くすことができるかもしれない。

繰り返し尽くすことができるかもしれない。

outro

2021.12.01 Wednesday 2021AC2021 Day-1

「場は凪いでいるが人々の無関心、悪意、どうでもイイ戯言に注意。閾値を超えれば場の雰囲気は急変する。」

「潜るならフォールラインを。かつてリブロガーどもは一晩で 7889post を実行した。いまやビットは濁流となってわれわれを押し流し続けている。それでもここに留まろうとする者には、リンクを繋ぐこと、ノイズに耳をすますこと、繰り返しまた練り返しそしてまた繰り返し尽くすことが、きっと力を与えるだろう。それは自分を守るだけでなく仲間の命も守る。良い祝祭を。」


この post は 2021 Advent Calendar 2021 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は esehara サンです。お楽しみに。

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