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プレイリスト、 Move on Up 、1年前と今週末をミックスする

毎週金曜日の夜に、その週末のためのプレイリストを Spotify で組んでいる。ちょっとしたルールがあって、一度選んだ曲は入れないこと(過去1年間は)、同じ作者、演奏者、アルバムからは1曲しか入れないこと、曲順を真剣に考えること、合計時間は60分であること。

2020年に始まったそれはインターネットで見かけた誰かサンたちの真似だった。並べかえたり入れ替えたり延々としていた。プレイリストを作るのは楽しい。いつかのカセットテープ、そして muxtape を思い出させた。初めての1曲目にはかつて muxtape で kenmat (自分にとってのインターネット・ロックスターでありオールドスクーラー)が選らんでいたカーティス・メイフィールド "Move on Up" を置いた。大抵のものはみんな誰かのコピーだ。

Just move on up towards your destination

こうして 1曲目には「心のベストテン」(好きとか嫌いとかの外側にある曲)から選ぶというルールが出来上がった。けれども、あっという間にルールが破綻する。1年間は52週間ある。つまり「心のベストテン」は52曲分必要だったのだ。これは音楽とはそれなりの関係しか持たなかった自分にとって、かなり厳しいルールだった。人生の中から無理やり1年分を捻り出した。

そんなわけで2年目からは1年前のプレイリストから選ぶというルールに変わった。1年前と今週末をミックスする。このやり方はスケールする。延々と続く。それに飽きてしまうまでは。

ブックオフ、Reblog、潜ること(おはようからおはようまで)

音楽との付き合い方には大きな変化が何回かあって、その最初はブックオフの CD 投げ売りコーナーだった。なにか新しいものを見つけようと毎週のように棚を漁った。だいたいはよくわからないコンピレーションとかとっくの昔に旬を過ぎた誰かのアルバムだった。

ブックオフの CD 投げ売りコーナーには底がある。それはだいたい1990年頃だった。1990年代、CD の売上はあっという間に LP を凌駕して、大量のアルバムが発売されていた。新作、復刻、再発のインフレーション。

「お売りください。ハードオフ、ハードオフ」

適当にアルファベット順で並べられた棚から、ジャケットの雰囲気だけで大量にピックアップする。スピードが重要だからイチイチ検索なんてしない。財布には限度があるから泣く泣く棚に戻す。取捨と選択、キャッチ&リリース、行ったり来たり。まるで Reblog みたいだと思った。

Tumblr は Dashboard を発明した。過去は積み重ならない。ただ縦に並んでいる。 Dashboard には底がある。どんなに深く潜っても2007年の始めだった。自分にとってインターネットの底は Dashboard の底だった。見知らぬなにかを発見するために誰もがひたすら潜った。おはようからおはようまで、おやすみからおやすみまで。誰よりもクールであるためにはより速く長く深く潜る必要があった。

2000万曲という自由、途方に暮れる、ファンク探訪

2014年、ストリーミング、後にサブスクリプションと呼ばれるそれと出会った。その最初はいまはなきソニー・ミュージック・アンリミテッドだった。「あなたは2000万曲という底無しの自由を手に入れました!!(月々、税抜980円で)」。

ところが全然そんなこと実感出来なくて、広大な音楽空間を前にひたすら途方に暮れていた。出来ることといったらかろうじて知っている曲や歌手を探して、無限の大海原の浅瀬でチャプチャプするくらいのものだった。ブックオフの方が断然キラキラに輝いて見えた。

積読山脈の中から、リッキー・ヴィンセント『ファンク 人物、歴史そしてワンネス』を発見する。ファンクの歴史についての分厚いガイドブックだ。巻末に膨大なディスクガイドがある。ファンクの誕生(1950年代後半)から現在(この本が出版された当時、2000年頃)までの聴くべきアルバムが順番に並んでいる。ガイドブックを頼りに弱々しく、過去から現在に向かって時間を遡り始めた。ファンク探訪の旅。過去に潜ることは見知らぬなにか発見する行為になった。

ベスト・オブ・ザ・イヤー、先見日記、ポップ中毒

「ベスト・オブ・ザ・イヤー」、そのきっかけは2014年末、インターネッツのロックスター達のベスト・オブ・ザ・イヤーな叫びだった。「オレもベストを格好よくまとめたかった」なんて漠然と思っていた。

でも実際には思っていただけで、その遥か彼方で、偶然発見した「先見日記」を掘っていた。「先見日記」は2002年10月から2008年9月にかけて赤瀬川原平、いとうせいこう、駒沢敏器といった人たちが毎週順番に日記を公開するというものだった。「先見」という文字が意味する通り、そこには新しさが表明されていた。すでに遠い過去でありながら「先見」という未来。1年半ほどひたすら潜ってパンチラインをリブログ(引用)した。自分にとってインターネットの底は2000年になった。

先見日記の記事から、川勝正幸『ポップ中毒者の手記』と出会う。1986年からのポップ・カルチャーの歴史だ。川勝サンは自らをポップ・ウイルスに感染している、と言っていた。「ポップ」は感染する。ベスト・オブ・ザ・イヤーはポップ中毒者の叫びだ。「ポップ」という言葉、ファンクやジャズと同じくらいとらえどころがない。

川勝サンは、「それまでの常識がひっくり返るような新しい眼鏡のことをポップと定義するなら」なんて捻れた場所にポップを置いた。のちに星野源は「始まりは炎や棒きれではなく音楽だった」と世界の始まりにポップを位置づけた。

片っ端から終わってしまう、焼け野原、クラシカル・ミュージックの発見

ファンク探訪の旅は2017年まで続いた。最初の場所だったソニー・ミュージック・アンリミテッドはあっという間に終わってしまった。サブスクリプションは片っ端から終わってしまう。そういうものだ。ライブラリが無くなったりプレイリストをごっそり失ったりしながら、何回かの終わりを乗り越えていま Spotify にいる。Spotify には現在、7000万曲以上という底無しの自由があるそうだ。

そんなふうにして続いたファンク探訪の旅は不思議なことに、巻末のディスクガイドが尽きるころになると広大だったはずの音楽空間が急激に狭まってしまった。そこにあったのは、もう何も残っていない焼け野原、という感触だった。

2018年、菊地成孔の「古典」についての記事と出会う。「古典」という言葉はマジックワードだ。「古典」としてグレン・グルードが演奏する J.S.バッハ を上げていた。そのときには「ふーん、バッハかあ」くらいのボヤーとした感想だった。とりあえず一番古い作品にアクセスした。1955年のゴルトベルク変奏曲だった。あっという間にハマった。音楽は蘇った。そこに「ポップ」を見出だした。

窮屈だと思っていた音楽空間は一気に爆発、沸騰した。聴き尽くしたかと思われた音楽はその底を突き抜けて、一生かかってももう無理じゃん、という広がりを見せた。音楽の底はバロック、ルネサンスを越えて、世界の始まりまで拡がった。ルネサンスとは再生、復活を意味する。

一週間(金曜日は糸巻きもせず)、オデュッセイア、過去と未来は混ざっている

今週末のプレイリスト、一週間のルーティーンはこんな感じ。金曜日は1年前の「今週末のプレイリスト」を聴く。金曜日の夜、その週末のプレイリストを組む。1曲目には1年前のプレイリストから。そして、そのときにディグしているクラシカル・ミュージックと、タイムラインやインターネットで見かけた音楽をミックスする。

そして週末の間、ずっとこればっかり聴いている。一日中いろんな場所いろんなモノで聴く。ポケットのスマートフォンのスピーカーで走りながらだったり、みんながテレビを見ているリビングでイヤフォンだったり、畳むべき洗濯物を畳みながらの Bluetooth スピーカーだったり。そして月曜日、通勤の行き帰りにカーステレオを爆音で鳴らしておしまい。

月曜日の夜、プレイリストのそれぞれの曲や演奏者、作者をザッピングして、火曜日からまたクラシカル・ミュージックのディグに戻る。毎週、ひたすら同じことを繰り返す。

「テュラ・テュラ・テュラ・テュララー」

2021年、「1900年に生まれた彼らと、100年後を生きるわれわれは、相似の位置にいる。まるで鏡をはさんで向う側と、こちら側にいるかのようである。」なんて書いていた。ブルース・チャトウィン『黒ヶ丘の上で』を読んでいた。そして「来年には戦争が始まる、みたいな時間軸かどうかはわからないけど、」なんて書いていた。他人事だった。お気軽なもんだった。

2022年、ホメロス『オデュッセイア』を読んでいた。オデュッセイアは英雄オデュッセウスがトロイア戦争が終わってから故郷のイタケーに帰還するまでの長い長い物語だ。そこから転じてオデュッセイア(オデッセイ "Odyssey")は、冒険、探検、探究を意味する言葉になった。トロイア戦争はうんと端折ると、時は紀元前1200年、絶世の美女である妻を略奪されたスパルタ王はギリシャ中の勇者を募って奪われた妻を奪還するべくトロイアに攻め込んだ、というお話。オデュッセイアの主人公「ゼウスの末裔にしてラエルテスが一子、知略縦横のオデュッセウス」は本当にイヤイヤながらトロイア戦争に駆り出されて、結果、並ぶ者のない英雄となった。なのだけれど、戦争が終わって20年、ただ一人、まだグズグズと故郷に帰れないでいた。

2022年、戦争が始まった。100年前と現在はミックスされた。スパニッシュインフルエンザと COVID-19 を、そして、第一次世界大戦とロシアのウクライナ侵攻を。

潜り続けて来た過去と、いま立っているこの場所は、接続されてしまった。それはまるでカーステレオでロードノイズとオーケストラをミックスするみたいに。1年前のプレイリストとクラシカル・ミュージックと Discover Weekly をミックスするみたいに。

間に合った人たち、間に合わなかった人たち、つながる可能性をリンクに開いておく

2022年、長い長い春が続いたこのインターネットはイーロン・マスクの手で存亡の危機に陥っているらしい。人々のうずまく承認欲求に世界は分断の危機にあるそうだ。

時間の流れを遡ると時間が経つにつれて枝分かれ分岐を繰り返して世界が細分化されてバラバラになっていく様を見ることが出来る。

でもその始まりは小さな芽や小ぶりな若木だったりする。ときにその分裂が始まる瞬間の、ビッグバンが始まる瞬間の特異点が現れることがある。

それは1954年のロジャー・バニスターが3分59秒4でゴールに飛び込んだ瞬間だったり、1955年のグレン・グールドがゴルトベルク変奏曲を鳴らした瞬間だったり、1962年のジェームス・ブラウン "Live at the Apollo" のステージだったり、1985年の Junet が太平洋を越えて Usenet に接続した瞬間だったり、1991年に最初の Web が画面に表示された瞬間だったり、2002年の TJAR 早月川河口のスタートラインだったり、2005年の 「JavaScript マジヤバイ」だったり、2007年の AutoPagerize が次のページを繋いだ瞬間だったり、2011年の tumblr developer’s meetup の受付だったり、2015年の 2015AC2015 の adventar だったり、2020年の COVID-19 だったり、2022年の天皇杯決勝のスタジアムに轟いたコーヒールンバだったりする。

それが体験出来るのは幸運にも(不幸にも)その場に居合わせたわずかな人たちだったりする。彼らは「間に合った人たち」だ。そして大抵の人たちは皆、なにかに「間に合わなかった人たち」だ。

どうしたら「間に合う」ことが出来るのだろう。答えは未だ見つからないけれど出来ることはある。それは物事の捉え方や見方だったり、姿勢や態度だったり、今日、訪れるかもしれない、その瞬間や、つながる可能性に、自分を開いておくことだったりする。呪いの言葉を唱える。

新年を迎えるのと同じフレッシュさで今日を迎えたか?

私たちは繰り返し、また練り返し、繰り返し続けてきた今日を、繰り返すことができる。それに飽きてしまったとしても。繰り返さねばならない。ならないのである。


この post は 2022 Advent Calendar 2022 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は noboko サンです。お楽しみに。

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