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今週末の良かったこと

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キンドルで本を読むの、いまのメインはこんな感じ。Fire HD10 をスタンドで横置き、ところによってスマートフォン、雨は夜更け過ぎに、布団の中ではペーパーホワイトとなるでしょう。

オデュッセイア、語ること、語られること

ジョン・サザーランド「若い読者のための文学史」、読みたかったところだけガーっと読んでしまったんだけど、最初から読み直した。この「Chapter2 すてきなはじまり――神話」からホメーロス「オデュッセイア」を掘り始めた。まだ読んでいない。読む前に Wikipedia からテキストをコピー・アンド・ペーストしている。

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あわよくば、読まずに読んだような感じにならないかと思った。それは、ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」を真似できないかと思ったから。そんなに上手くいくわけはなくって、なんとなくこれは読まねばならないのだ、読む運命だったのだ、みたいな感じになりつつある。ヤバイ。そもそもジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」が「オデュッセイア」を下書きにしているらしい、というただそれだけの理由で気まぐれにコピー・アンド・ペーストしてみただけのことなのだ。

キンドルのライブラリを漁るとイタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」を見つけた。たしかに買っていたし読んでいたし引用もしている。第1章以外、記憶にない。第1章は例の「窓の外のノイズ」の話が載っている。第2章が「オデュッセイアのなかのオデュッセイア」だった。「オデュッセイア」読まなきゃならないっぽい。

オデュッセイア、大きくは三部からなっている(らしい)。父オデュッセウスの不在に悩むテレマコスの苦悩を描く前段、オデュッセウスの冒険を描くの中段、そしてオデュッセウスの帰還を描く後段。

まだ神話、口承の物語の色が濃く残っている時代の作品なので、「語る」こと「語られる」ことが大事になっている(らしい)。文字として書き留められない文学なので「語る」こと、「語られる」ことが止まるときは物語が終わるときになる(らしい)。だからオデュッセウスの帰還が語られ続けることが大事で、それが止まるというのは、オデュッセウスの死を意味することになる(らしい)。

それから、

今週末は走った。ハートレートモニターはつけない。公園には時計があるのでリストウォッチもなし。これはザック・ミラーがいうところの「山小屋の時計」トレーニング( “cabin clock” training )です。

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そして今週末のプレイリスト。1曲目は1年前のプレイリストからピーター・コットンテイル "Way Up High" 。

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1年後に聴いたらどう感じるかわからないけど "Way Up High" からレディオヘッド "Kid A" 、シベリウスの "Tempest" 、ロバート・グラスパー "Shine" 、すごく上手く繋がった気がする。意外な取り合わせ。

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