これは2024年4月の日記の本番です。
業務における筆記用具は原理原則として修正することが許されない。本人確認として押印する文書の場合、修正する際の手順も定められていて「修正箇所に二重線を引く。その書類に押印されるものと同じ印を用いて修正印を押す」ことになっている。誰が何を修正したのかを明確にすることが求められている。
そんなふうにしてボールペンを使うようになってどれくらいたっただろう?
https://twitter.com/taizooo/status/934450761919950848
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野矢茂樹『論理哲学論考を読む』をガイドにしてルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読み終わって(読み終わったことにして)、全然自分に足りなかった原因の一つである論理学を、どうしたってやらないわけにはいかないのだった。
以前、当てずっぽうに間違って買った、野矢茂樹『入門!論理学』をとりあえず読み始めた。たかだか200ページちょっとくらいの新書で、論理学なのに縦書きで、論理学なのに論理記号も出てこなくて、論理学なのに真理値表も出てこない、っていう普通ではない論理学についての本で、その中に出てくる、まったく普通の日本語で書かれた、よくわからない命題の例題を読み解くために、ノートと「とりかえしがつくシャープペンシル」と消しゴムを買ってきた。こんなこと何百年ぶりかわからない。
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/04/08/155504
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僕が真似しているこの「日記の練習」「日記の本番」の元祖である、くどうれいんサンの連載がこの3月分の日記をもって終了した。印象的な話がいくつかあってそのうちの一つに「とりかえしのつかないペンの話」(とりかえしのつくペンがない話)がある。
ページを開いたまま歌集を伏せてペン立てを漁る。ボールペン、水性ペン、油性ペン、ボールペン、ボールペン、筆ペン、ボールペン……(取り返しのつかないペンしかないじゃん)
「日記の本番」7月 くどうれいん|本がひらく
そして最終回の日記の本番は「とりかえしのつくペンの話」(とりかえしがつくペンがある話)で幕を閉じた。
(おいおい、こんなに丸を付けていちゃきりがないだろう)とも思ったが、構わず丸を付けまくった。これはもう取り返しのつくペンなのだ。わたしはいくらでも丸を付けていい。
「日記の本番」3月 くどうれいん|本がひらく
僕はいくらでも書き間違えてもいい。これはもう「とりかえしがつくシャープペンシル」なのだ。そんなわけでいま僕の手元には三菱鉛筆のクルトガ・アドバンス 0.5mm (黒芯)とクルトガ・スタンダード 0.5mm (赤芯)の二本が並んでいる。
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/04/23/174604
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曲がりなりにも『入門!論理学』を最終章までやり終えて、巻末の「おわりに」にあげられていた「このあとに読むべき本」の中の一冊、金子洋之『記号論理入門』へと進んでいる。
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/04/24/091846
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(1) 命題論理と述語論理を区別せず、最初から述語論理を視野に入れて叙述を行う。(2) 自然演繹法を中心に据える。(3) 真理関数は扱わない(つまり真理値表は扱わない)。
今週末の良かったこと(片や、書見台とテーブルに釘付け、片や、山は笑い膝も笑う) - copy and destroy
こんどのは、論理学だから横書きだし、論理学だから論理記号も出てくるし、産業図書だから本物の教科書だ。これはいったい読書なのか?とか、いったい僕はなにをやろうとしているんだ?とか、心にブレーキを掛けるような考えがチラチラと浮かんだり消えたりしているけれど、そんなことは振り切って進むのだ。前進に犠牲はつきものだ。どうせ倒れるなら前のめりに、だ。
ピエール・バイヤール 『読んでいない本について堂々と語る方法』によると、人はどうせ読みながら片っ端から忘れていくし、読んでいない本についてだって語れるし、視界に入った瞬間からその本はすでに未知の本ではなくなるんだ、たとえその本についてなにも知らなくても、なんて言っていたけれど、いま掘っているこの辺りについては、少なくとも今のところは、一つずつ順番に、一ページずつ少しずつ、着実に確実に、先へ進んでいくことが求められていると思う。
うーん、これはいったいなんなのか、なんのためにこんなことを始めたのか、もう全然思い出せない。