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copy and destroy

catch and eat

2016年を探す


via 「逃げるは恥だが役に立つ」 第41話

「あなたにとっての2016年は、だれかが見たかった未来であったり、だれかが知りたかった過去だったりするんだから」

2016年の幕開けはサン・ラから始まった

2014年からファンクのアルバムをジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリンを起点にひたすら時代順に聴く、という活動をしていて、ちょっと寄り道しながらつづけているんだけど、2016年はサン・ラから始まった。 サン・ラ、音源がひたすら多くて2日で1アルバムずつみたいな感じで1ヶ月以上続けて聴いていた。聴いていたときにはなんとなく、ジャズも聴けるんだな、という気分になったし、ちょっと世界が開けたような気持ちにもなったけど、正直よくわからない。サン・ラ、その姿も、音も、ちょっと孤高すぎて、そこからどう繋げていけばいいのか、リンクがみつからない感じがあった。ファンクっていう音楽は定義があいまいでなんとなくそういう気分、雰囲気を指すのかなと思っていて、大きくはみ出して掘り進めていてその穴があまりに大きくて持て余し続けている。ファンク探訪の旅はまだ続いている。

先見日記、死者と対話する

絵巻は横移動し続け、三味線はうなり、大夫は語る。

via http://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2015/12/01/000000

先見日記を2015年の始めに再発見した。「見つけたからには掘るんだろうな」のコメントを残したとおり、その日から毎日毎日ページを掘り進めながら、少しずつ引用を続けてきた。そしてついに2016年3月に読了した。先見日記には2001年9月11日直後の空気感から現代インターネット紀の始まりといえる2007年あたりの雰囲気が閉じ込められていて、 tumblr を生活の場としている自分にとっては、2007年春がその起点である tumblr の外側の世界に触れる経験となった。自分がすでに生きてきた過去を、まるでドラゴンが住んでいる世界、見知らぬ世界として読むというのは不思議な感覚なのだけれど。先見日記は筆者が毎日代わる代わる交代して日々の事柄を書くんだけども、すでに亡くなっている人もいて、死者と語り合うみたいな感じで、書いている人の体温を感じるようなところがあった。その人が生きた過去を、今、この瞬間のように感じるっていうそういう不思議さ。その後、日記づいていて、オン・ザ・ロード、ボリビアンダイアリー、イワン・デニーソヴィッチの一日、ビーグル号航海記、仰臥漫録、修善寺大患日記、火星の人というように、日記も小説もフィクションも現実も等しく日記として読んだ。

ポップ中毒者の精神

「ポップ」というあり方について2014年末から向き合っていて、その当時はまだそのあり方というか姿勢というか態度と、「ポップ」と呼ばれる言葉を結びつけてはいなかったんだけども。その2014年末の何が始まりだったかといったら、インターネッツのロックスター達のベスト・オブ・ザ・イヤーの叫びだった。そのあと2015年始めから先見日記を掘りだして、2015年夏、先見日記の記事に影響されて川勝サンの「ポップ中毒者の手記」を読み始めた。先見日記の時代にあわせて4冊あるうちの「21世紀のポップ中毒者の手記(2001-2008)」を選んだ。少しずつ読み進めていて、いまは「ポップ中毒者の手記(約10年分)」あたりをうろうろしている。「ポップ」という言葉、ファンクやジャズと同じくらいとらえどころがない言葉なんだけど、なんとなく「ポップ」に含まれているものって、その時代とともにある、っていう感じかな、と。だから「ポップ中毒者」の場合、共にあるというよりは、もっとこう、時代から箱乗りよろしく上半身を乗り出して、目をカッと見開いて、真っ赤に血走らせて、風をビュンビュン切り裂いて、真正面に対峙してる感じかな、と。でもあくまで「ポップ」なので悲壮感もさらっさらなく、軽々とした雰囲気で。なんて、オン・ザ・ロードのディーン・モリアーティの姿を重ねたりした。

「それまでの常識がひっくり返るような新しい眼鏡のことを『ポップ』と定義するなら」

via ポップ中毒者の手記2(その後の約5年分)

自分自身はこの「ポップ」を探求する姿勢というところからたぶん一番遠いところにいるような気になっていて。それは AutoPagerize よろしくひたすら潜って盗掘よろしくだれもが振り向かない過去から何かを掘り返してくるのが自分のスタンスだ、と思っていたからなんだけど。で、「ポップ」であること、「ポップ」を探すようなことに対して、ちょっと斜に構えるところがあった。「ケッ」っていう態度だった。その先入観がひっくり返るような新しい眼鏡だった。

週末の映画一本

スマートフォンをこの夏、最新のモデルに交換して、それなりにパワーアップしたのと、勢いでアマゾン・プライムに契約して軽い気持ちで映画を観るようになった。2016年8月のことだ。たまたま気まぐれに「もらとりあむタマ子」を選んだ。年齢を重ねると気まぐれに日々の生活から遠ざけてしまうものがいくつかあって、そのうちの一つが自分にとっては映画だったり。「もらとりあむタマ子」、恥ずかしながら全然監督もしらないし、主演も元AKBのあの人、くらいの知識で、ただ撮影が地元で行われたって知っていた、あとそれからプライム対象、というだけの理由だった。映画はただ淡々と日常を切り取っていて、ほんのちょっとした心の移り変わりが最後にあらわれる、ってだけでそのまま終わる感じで、ああ、映画ってこういうのが許されるんだな、いいな。と思って、それをきっかけに週末に一本、映画を観るようになった。ファンク探訪からの教訓から、「新しいのを観る」「今、生きている人のを観る」「週末に一本だけ観る。良くても悪くても一週間それを噛みしめる」「観る前に調べない」というルールを課した。自分なりの「ポップ」に対する敬意みたいなもの。

サッカーのある日常と禁コーヒーの倫理

今、この時代、この時間とともにある、という意味でいうとサッカー、特にJリーグや地域リーグやといったドメスティックなサッカーのサポーターであること以上のものはないと思う。シーズンには毎週末試合がやってくる。素晴らしい勝利には最高な気分を、ボロクソの敗戦ではそのクソッタレな気分を、一週間噛み締めて次の週末へ向かう、畳むべき洗濯物を畳む、それぞれの日常を生きる。それぞれがそれぞれのクラブに愛を注ぐこと、勝っても負けても引き分けても、次のスタジアムに向かうこと。その行為は必ずしも報われるわけではないけれどその愛を証明するためにはそうするしかない、続けるしかない。なんてこというとあまりに宗教じみているか。

僕らは2週間に一度、ミサに行くようなもんだとおもうよ。勝ったとか負けたとか、そんなことより、

via http://d.hatena.ne.jp/lopnor/20070617/1182083656

甲府、このしみったれた地方都市の、小さな小さなクラブが自分の愛するものである。「茶断ち」というものがある。願いが叶うことを祈ってお茶を断つ、というものだ。2016年10月、生涯四回目の禁コーヒーに臨んだ。2009年、2010年、2014年、そして今年、2016年。一ヶ月の禁コーヒーをくぐり抜けて、われわれは命からがら残留を決めた。2017年春、われわれは5年連続J1の舞台に望む。

バンコクナイツ、インディペンデントであること

禁コーヒーが開けて2016年11月、いつもの小さなスマートフォンの画面ではなく、桜座という素晴らしい箱で、空族の素晴らしい最新作「バンコクナイツ」の地元凱旋、先行上映会に参加した。前売り券ギリギリで二日目の一本目に滑り込んだ。180分を越える長編、構想10年、オール海外ロケーション、撮影期間3ヶ月というぶっとい一本で、残念ながら映画について語るためのなにも持ち合わせていないんだけど、色、風景、音、音楽、歴史、現在、男、女、人間、中心、外縁、楽園、地獄、全部つまっている満艦飾な作品だった。観たそれぞれの人がそれぞれに都合よく何かを見出したり引っ掛かったりつまずいたり気がついた気になったりならなかったりそれくらい豊かで多様でそんな映画だった。空族の作品「サウダーヂ」を始め、いっさい商品化されていなくて、とにかく上映を逃すと観ることが出来ない。商業化、産業化、資本化から極北に位置している。

旅は、タイのバンコク・チェンマイ・チェンコーン、ラオスのルアンナムター・ルアンパバーン・バンビエン・ビエンチャン、タイのノンカーイ・バンコクというルートで進み、

via http://djkensei.com/info/1020

ベストセラーを恐れるな

「バンコクナイツ」に打ちのめされた週明け、畳むべき洗濯物がなかったばかりに、たまたまついていた TV でながれていたドラマの最後のシーンにつまずく。「逃げるは恥だが役に立つ」は、2016年末、主題歌やそこでのダンスといった演出やキャスティングやストーリーで巷で話題のドラマだ。かんたんに言うと「バンコクナイツ」も「逃げるは恥だが役に立つ」も男と女の話、ありふれたラブストーリーだ。でもなんでこんなに違うものになるんだろう。その後、ほんの出来心で星野 源のシングルをダウンロードする。ポチっとしてしまった理由の一つ、それはたぶん TV ドラマでつまずいたこと。もう一つはプロモーションビデオの真ん中に差し込まれているウザい CM のあとの間奏で星野 源が鳴らしているギターのリフに引っ掛かってしまったから。イントロを叩くマリンバ、間奏をギターは転がり続け、エンディングを振り切り二胡は唸り、歌詞は語る。あまりにストレートな「恋」という題名、ラブソングにあまりに似つかわしくない「夫婦」という言葉、エンディングの POWERS OF TEN を彷彿とさせる内側へ内側へと深く深く潜るかのように畳み掛ける「夫婦を超えてゆけ/二人を超えてゆけ/一人を超えてゆけ」。例えば EW&F でベストアルバムを避けるばかりに聴けなかった September とか、スティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンの良さとか、今までの人生でカッコつけて世の中を斜に構えてみてベストセラーを避けてたくさんのものを見て見ぬふりしてきた。どれだけ人生を無駄にしただろう。

インターネット的な

これは、僕の「インターネット」を探す旅です。

via https://shikakun.com

自分にとって、このインターネットは tumblr 紀(2007〜)から始まっていて、そういう意味では2017年、10年目を迎える。10年か。10年。イヌにとっての1年は人間の7年に相当するそうだ。インターネットからは自分が「インターネット的」だと思っていたものがなくなってきたんじゃないかという気持ちがある一方で、モニターのコチラ側に振り返ってみると逆に「インターネット的」な雰囲気に侵食されてきているような気もしている。一方的に片方の影響がもう片方に流れ込んでいるというよりも、その流れは双方向的になってきているような。でも、じゃあ自分が思っている「インターネット的」なものが何を指すのかというと、実際にはよくわからない。たぶん IoT とか Fintech とかそういったたぐいのものではなくて、物事の捉え方とか見方とか姿勢とか態度の話じゃなないかと。もしかしたら世界が変わったんではなくて自分自身が、自分自身の世界の見方が変わったということかもしれない。

過去は積み重ならない。ただ縦に並んでいる。

via http://reretlet.tumblr.com/post/69487138136

これは、わたしの2016年を探す旅です。

こうでありたいと思っていることはいくつかあって、そのうちの一つは、ファンク探訪みたいに、まるで tumblr の dashboard を巡るように新しいこと古いこと素晴らしいものクソみたいなもの好きなこと嫌いなこと関係なく全部軽々とくぐり抜けていきたいという、ロードムービーみたいな気分であったり、また一つは、そこから何かを見つけたり見つけなかったり、なにかが刺さったり刺さらなかったり、そしてそれを誰かに知らせたり知らせなかったり、誰かの心を刺しにいったりいかなかったりしたいという気分であったり、もう一つは、とにかく軽々と高くジャンプして、全く新しい視界を手に入れたり手に入れた気になったりしたいという気分であったり、

誰もが勝手に観たいものを観て、感じたいように感じるのだ。まあ気にするな。

この post は 2016 Advent Calendar 2016 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は shimatani_10111 サンです。お楽しみに。

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via http://mskdsnt2nd.blog.jp/archives/9857099.html

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