数学する身体
「数学する身体」すごく面白い
「数学する身体」読んでて、(ここで話を一気に端折る)、もっとインターネットに言葉を発するべきだと思った
なにを端折ったのかというと、
古代ギリシアにおける数学は独白的であるよりも対話的で、それが目指すところは個人的な得心である以上に、命題が確かに成立するということの「公共的な承認」だったのだ。
古代ギリシア時代と言えば、文字以前の「声の文化」から、少しずつ「文字の文化」へと移行を始めた時期である。
言葉は書かれる以上に、語られるものであった。
彼らは書くというよりも描き、語る人々である。
そもそも古代ギリシアには、記号もなければ数式もない。その思考を支えるテクノロジーは、わずかに「図」と「自然言語」だけである。
記号を駆使した代数の言語が整備されることで、数学の表現力が飛躍的に高まるのはようやく一七世紀に入ってからのことで
地面や木の板の上に描かれた図や、声に出して語られる言葉を道具としていた古代ギリシアの数学的思考の大部分は、数学者の外の空間に「露出」している。それは他者に開かれ、ある種の公共性を帯びた思考である。
古代ギリシア期が語る言葉から書く言葉へ、対話から独白への移行期であったとするならば、古代インターネット期(現代のことを指します)は、まるで話すように文字を書く、猥雑でクソウルサイ公な場での対話(ミソクソないまぜ、玉石混交)への移行期なんじゃないか、みたいな。であるならば、黙るのではなくて言葉を発するべきじゃないか? みたいな(適当)。
そもそもなんで数学なのか
それは hysysk サンのせいです。
https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=%E6%95%B0%E5%AD%A6%20from%3Ahysysk&src=typdtwitter.com
hysysk.blogspot.com
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たいていのことは、みんな誰かのコピーだ。
読書の話(Here, There and Everywhere の話)
例年だとこの時期は花粉症で外に出られず、そうすると本を読むくらいしかすることがなかった。そうやって大物を何冊も倒してきた。 今年は、早くから耳鼻科にかかって予防的に薬を使ってきたのでそんなにひどくない。そのかわり、全然、本を読むような感じにならない。
どうしても読書にたどり着けなくて、そして Kindle で読むようにしてみた。ちょっと手が空いたときに Web を漁るんじゃなくて、 Kindle を読むようにした。
その問題を解決するために、業務時間内で本を読むようにしはじめた。
これを真似た。たいていのことは、みんな誰かのコピーだ。
そんなに徹底できてはいないけども、「数学する身体」は読了した。次はこれに出てきたユクスキュルの「生物から見た世界」を読む。
Kindle の良いところは、あらゆる端末で読むことができること。PC で読んで、スマートフォンで読んで、Paperwhite で読んで。Here, There and Everywhere
元気に走って帰ってきた話(サッカーの話)
勝つ。なぜなら、走って来たから
甲府 vs 京都 ホーム 小瀬 1対0 勝利。
途中交代で入った曽根田がそのあとすぐゴール前に縦に突っ込んで、ドゥドゥとのワン・ツーはゴール前でごちゃごちゃしていて引っかかったものの、なぜかそこにいる佐藤洸一が曽根田にラストパスを出して、ゴール右隅に流し込んだ。ファインゴール。曽根田のシュートシーンでの落ち着きっぷりは異常(褒めている)。
ロスタイムは5分。長い。京都は闘莉王をゴール前に上げてパワープレイ。力と力の勝負。そして命からがらの勝利。
甲府 vs 京都、ロスタイム、ラストプレイ、激闘だった。あまりに激しすぎてバクスタ住人たち(ホームゴール裏寄り)は試合が終わったのかさえわからなかった。選手たちのぶっ倒れ加減が厳しすぎて、勝ったのはどっちなのか? みたいな雰囲気だった
元気に走って帰ってきたよね