copy and destroy

catch and eat

核分裂の発見(朝永振一郎『滞独日記』)

日記の練習です。

朝永振一郎『滞独日記』
世界教養全集 37 - 国立国会図書館デジタルコレクション
gyazo.com

一月十九日


うちで仕事を少しはじめる。 天気よく鳥の声が聞えている。 さて、Wが来て、一昨日、ゼミナー ルでベルリンから来たワイツェッカーが面白い話をしたという。ウランに中性子をぶつけると、ウランがまっ二 つに割れて、バリウムとかストロンチウムとかができるということを、ベルリンのハーンが見つけたという話、 僕が怠けている間にこんなニュースが入った。そこで怠けたことに気がとがめてくる。


1938年12月、核分裂が発見された。

1938年、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所に所属していたハーンとシュトラスマンは、遅い中性子を照射されたウランから大幅に軽い元素であるバリウムが生成したことを見出した。ハーンはウラン原子核が複数の小さい原子核に分かれた可能性に気づいたが、物理学的な根拠を見つけられなかった。


二人はこの発見を、元同僚で数か月前にナチス・ドイツを逃れてスウェーデンに移住していたマイトナーに手紙で知らせた。マイトナーは甥のフリッシュとともにウラン原子核の分裂についての理論を立て、崩壊一つあたり放出されるエネルギーを約200メガ電子ボルトと計算した。フリッシュは実験によってこれを証明した。


結果は『ネイチャー』誌で発表され、この過程はフリッシュによって生物の細胞分裂にたとえて「核分裂」と名付けられた。ハーンはこの発見により1944年のノーベル化学賞を単独で受賞した。亡命まで共同で研究にあたっていたマイトナーが賞から漏れたことについては複雑な政治的、学問的事情が関わっている。

核分裂の発見 - Wikipedia


1944年は昭和19年、まだ第二次世界大戦の最中だった。スウェーデンは終戦まで中立を維持した。

1939年9月の開戦時、ヨーロッパの20カ国が中立の立場をとっていたが、スウェーデンのように終戦まで中立を保つ事ができたのは、アイルランド、ポルトガル、スペイン、スイス、そして、ミニ国家であるアンドラ、リヒテンシュタイン、バチカン市国、サンマリノを加えた8カ国だけだった。スウェーデン政府は、ドイツや後には西側連合国に有利なように、いくつかの譲歩をし、時には中立違反を行う事もあった。


ドイツがソ連に侵攻した際の1941年6月から7月にかけて、スウェーデンはドイツ国防軍がスウェーデンの鉄道を利用して、第163歩兵師団を重火器とともにノルウェーからフィンランドに送る事を許可した。1943年まで、休暇のためにノルウェーとドイツの間を移動するドイツ兵が、いわゆるパーミットトラフィックとしてスウェーデンを通過する事が許可されていた。戦時中もドイツへの鉄鉱石の売却は続いた。連合国側にとっても、スウェーデンと軍事情報を共有、デンマークやノルウェーからの難民兵士を訓練して、母国の解放に役立てた。また、1944年から1945年にかけて、連合国がスウェーデンの空軍基地を使用する事を許可した。

第二次世界大戦下のスウェーデン - Wikipedia

powered by hatena blog.
the nikki system for lifelogging junkies.

all posts © their original owners.
writing is reusable solely under the by creative commons license.