copy and destroy

catch and eat

日記の練習です。

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』、第7章「要素命題の相互独立性」、第8章「論理はア・プリオリである」、第9章「命題の構成可能性と無限」をずっと行ったり来たりしている。まあ正直なところすべてが理解出来ると思っていないので「ハイ、ここまで」と自分で決めればそれで良いのである。なんとなく満足してきたので残りの5章分、この週末、ぶっ飛ばす予定です(予定は未定だし、ぶっ飛ばされるのは自分の可能性もある)。

日記の練習です。昨日のことです。

甲府 vs いわきFC ホーム 小瀬 1-1 ドロー*1
この風景からは、このあとすぐに40分間の試合中断が起きるとは、まったく想像できない。

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じつは出勤日で、午後休みをもらって、大急ぎで帰宅してママチャリで平和通りを爆走して小瀬に向かった。駐輪場に着いたときスタジアムから威風堂々が聞こえてきた。どうしても腹が減っていて、いつもと逆回転にメインスタンド側の屋台に回り込んで焼きそばとソーセージを買ってからバックスタンドに入場した。食べたかったからいつものホームゴール裏寄りではなくてアウェイゴール裏寄りの席に座った。こっちの方が空いているから。いつもと違う風景でちょっと新鮮だった。

食べ始めたところで、遠くの向こう側で鳥海のゴールが決まった。ソーセージを空高く掲げた。そこでいつもと反対側のサイドに攻撃していることに気がついた。またか。風は強く逆風だった。

そんなふうにしているうちに、目の前での失点シーンを目の当たりにした。完全に裏目に出た。

後半は荷物をまとめていつものホームゴール裏よりの席に移動した。やっぱり落ち着く。ゴール裏はサポーターでビッチリだった。バックスタンドもコチラ側は結構入っていた。

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そして迎える後半10分すぎ。ゴール裏の向こう側から轟轟と雨雲が迫ってくるのが見えた。あっという間にスタジアムは雨に覆われピッチ看板は風に舞った。そして試合は40分ばかし中断する*2

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雨の中、甲府のゴール裏も、いわきFCのゴール裏も悪天候を目一杯楽しんでいた。素晴らしかった。いわきFCのゴール裏はひたすら歌い踊り、甲府のゴール裏は普段はなかなか歌われないチャントを歌っていた。

試合を再開したスタジアムはさっきまでの天気が嘘みたいに晴れ上がっていた。

残念ながら試合は1-1のドロー。いわきFCは前節、大量得点であの熊本をぶっ飛ばしていた。手強かった。勝てた可能性もあったけど負けてた可能性もあった。これがサッカーだ。

*1:【公式】甲府vsいわきの見どころ(明治安田J2リーグ:2024年3月20日):Jリーグ公式サイト(J.LEAGUE.jp) https://www.jleague.jp/match/j2/2024/032006/preview#live

*2:本日の試合にご来場の皆様およびヴァンフォーレ甲府に関わる皆様へ | ヴァンフォーレ甲府 公式サイト https://www.ventforet.jp/news/other/523768

日記の練習です。

ちょっと停滞してた。停滞していた理由が、大事なことが書かれているけど読むのはちょっと面倒だな、という感じになっていたから。それでいっちょ引用してみた*1、というわけ。インターネットでやるのはブラック寄りのグレーだ。コピー・アンド・ペーストには現状を打破する力がある。インターネットでは全ての行為はコピーだ。

日記の練習です。

なにか一つが定まるとそれが世界全体に一気に伝播して全てが定まり、それがまた一気に自分に戻ってくるような。そういうところ

https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/18/172130

そういうところについての断片。


野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』第8章「論理はア・プリオリである」p165

分析と構成。

出発点は現実世界と日常言語である。この世界を生き、この言語に熟達している者のみが『論考』の提示する道を辿ることができる。

ゴールは思考可能性の全体を明確に見通すことである。

そのために、日常言語を分析し、再び日常言語を構成するという往復運動を行う。『論理哲学論考』の旅は名と対象から始まるのではないし、また理想言語のような出発点とは別のどこかをめざすものでもない。ここを出発し、ここに帰ってくる。そうして、自分のいる位置を明らかにする。

往路は分析である。現実世界の事実と、さまざまな言語使用がある。そこで、ある命題と事実との対応によって真であったり偽であったりする。またある命題は他の命題を帰結する。こうした命題の検証や推論といった言語実践の中で、有意味と無意味・ナンセンスを弁別するわれわれの言語直感を頼りに分析が為され、その結果、要素命題と論理語とが区別される。これが分析の第一段階である。

要素命題は事実との対応の中で、名と対象の対に分類される。そのさい名は、どのような配列が可能であるかという名の論理形式とともに切り出される。それに呼応して、対象もまたいかなる事態の構成要素となりうるかという、名の論理形式と同型の論理形式とともに切り出される。これが構成の第二段階である。

ここから、復路、構成へと向かう。名の論理形式に従って可能な要素命題のすべてが構成される。そうして作られた要素命題は、すべてな可能な事態を表現するものとなっている。これが構成の第一段階である。

次に事態の集合として状況が作られ、可能な状況の全体として論理空間が張られる。ここで事態は相互独立と仮定されているため、事態の集合から論理空間は機械的に設定される。また命題の側では、論理語によって要素命題から複合命題が作られる。これで構成の第二段階が終了する。

こうして思考可能性の空間として論理空間が姿を現す。かくして、すべての命題が構成可能なものとなり、また、命題の意味が論理空間の分割の仕方として規定される。

以上が『論理哲学論考』の基本構造である。



『論理哲学論考』より

1 世界は成立していることがらの総体である。

1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

1.11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。

1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

1.2 世界は諸事実へと分解される。

2 事実とは、諸事態の成立である。

2.01 事態とは諸対象の結合である。

2.014 対象はすべての状況を含んでいる。

2.0141 事態のうちに現れる可能性が対象の形式である。

2.02 対象は単純である。

2.021 対象が世界の実体を形づくる。

2.025 実体は形式と内容からなる。

2.04 成立している事態の総体が世界である。

2.06 諸事態の成立・不成立が現実である。

2.063 現実の全体が世界である。


事実は分析に先立って在る。出発点。"Fact"

事態は分析の最後に現れる。到達点。"State of affairs"

日記の練習です。

山形の空の下で、僕らの誇りを取り返した*1*2

https://twitter.com/vfk_official/status/1768860728176648505
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*1:今週末の良かったこと(遠い空の下で、) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/11/14/174714

*2:エッセル スーパーカップの雪辱を果たしたその4日後、僕らの2023年のシーズンが終わった。画面の向こう側でピッチに膝をつく選手たち。試合終了を告げる笛は聞こえなかった。ときに現実は非情だしワックだ。 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/12/01/000000#%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF

日記の練習です。

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』、自分としてはめずらしいスピードで進んでいるんだけど、

これは、先に『論理哲学論考』をつっかえつっかえ*1*2でも一通り目を通していたことと、

そして、理解してしまった人(野矢サンのこと)が書いた素晴らしく系統立てられた文章をなぞっている*3からなんであって、

なにかを理解したような気になっているけど、ひょっと*4した拍子に一つの字句に「?」がつくと、立ちどころにいままで理解した気になっていたものがガタガタと音を立てて崩れていく。崩れては積み、積んでは崩れる。何回も、何回も。

シーシュポスの岩*5じゃん*6

*1:新明解国語辞典:「つっかえる」支える(つかえる)、閊えるの口語的表現

*2:つかえる - ウィクショナリー日本語版 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%88%E3%82%8B#%E5%8B%95%E8%A9%9E:%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%8B

*3:なぞる - ウィクショナリー日本語版 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9E%E3%82%8B

*4:ひょっと - ウィクショナリー日本語版 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8

*5:シーシュポス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%82%B9#%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%B2%A9

*6:「じゃん」は絹の道から? - ことばマガジン:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2014120500001.html

日記の練習です。

本来だったら scrapbox に残すべきであるようなメモを、そっちではなくてこっちに書き残したい理由がなんなのかよくわからないんだけど、

もしかしたら、書き加え書き加え発展させたい、というよりも、書いて書いて書き捨てたい、そういう理由なのかもしれない。

このことから浮かび上がるのは、成果物としてきちんとしたページが作りたいわけじゃなくて、ただたんに頭の中を整理したいだけなんだと思う。誰かに話して安心するみたいに、チャチャッと〔公開ボタン〕を押してオシマイにしたいみたいな。

まあそもそも twitter とか tumblr とかもそういう役割だったと思うんだよね。自分にとっては。

主語と述語、主辞 "subject" 、賓辞 "predicate" 、繋辞 "copula" 、S-P

日記の練習です。これもメモです*1

野矢茂樹『言語哲学がはじまる』第2章「文の意味の優位性」で、"述語を関数として捉える"といってフレーゲの「関数」(ここではラッセルとの関係で「命題関数」と呼んでいる)が導入されるんだけど、そもそも「述語」とはなんなのか。新明解国語辞典によると

じゅつご【述語】
(1) 「何はどうである」の「どう◁する(なる)」「どうである」に当たる語で、表現主体が取り上げた事柄に関して、その動作・作用や性質・状態などについて何らかの判断を表すもの
⇒主語・客語
(2) 論理学で賓辞・繋辞の総称

ここからのリンクを追うと(新明解国語辞典による)、

ひんじ【賓辞】
(1) 〔論理学で〕ある命題において、主辞について述べられる概念。例、「犬は動物だ」の「動物」の類。
⇒主辞・繋辞
(2) 〔文法で〕客語の称

けいじ【繋辞】
〔説明の言葉の意〕命題の主辞と賓辞とを連結する言葉。例、「時なり」 "Time is money" の太字の部分がそれ。

つまり、「犬は動物だ」の「犬動物」の太字の部分。

しゅじ【主辞】
〔論理学で〕ある命題において、賓辞によって述べられる判断の対象。「犬は動物だ」の「犬」の類。
⇒繋辞・繋辞


賓辞の「賓」は、旺文社漢和辞典によると


(1) まろうど。客人。
(2) 客としてもてなす。
(3) 導く
(4) つらねる(列)。つらなる。
(5) したがう。したがえる。


論理学だとそれぞれ、主辞 "subject" 、賓辞 "predicate" 、繋辞 "copula" らしい。平凡社「世界大百科事典(旧版)」では、

[形式論理学と文法]
そもそも主語・述語とは,形式論理学における命題〈AはBである〉のA(それについて語るところのもの)およびB(Aについて語る事がら)に当たるものを,アリストテレスがそれぞれギリシア語で hypokeimenon, katēgoroumenon と表現したことにさかのぼるという。これが,その後ラテン語でそれぞれ subjectum, praedictum と表現され,論理学および文法の用語としてしだいに定着,今日のヨーロッパ諸言語でも継承され(たとえば英語 subject, predicate ),また他の言語でも用いられるようになり,日本でも主語・述語と訳してきたものである(形式論理学では主辞・賓辞とも,文法では主部・述部とも訳す)。当初のヨーロッパでは論理学と文法は密接な(元来は未分化ともいえる)関係にあり,共通の用語となったのだが,しかし,両者は目標も対象も異なる学問である(文法は今日では言語学の一部として位置づけられている)。

https://kotobank.jp/word/predicate-1247044


渡辺実『日本語史要説』

「もの」を言語化したのがいわゆる主語であり、「こと」を言語化したのがいわゆる述語である。文は主語と述語との結合によって成る、 と言われて来た所以である。文は本当は、こうして描写(これを叙述と呼ぶ) された事態(これを叙述内容と呼ぶ)に対して、話者が自分との関係を決定的に表明すること(これを陳述と呼ぶ)によって成立する。

https://is.muni.cz/el/1421/jaro2016/JAP220/um/Text_3__Watanabe_.pdf

主述両項を結合統一する統合点とでも言うべきものは、「もの」と「こと」との間にある理屈であり、論理学はそれを繋辞と呼び、主語の表わす概念を主辞、述語の表わす概念を賓辞と呼び、主辞と賓辞とが繋辞(コピュラ)によって結合統一されることで表わされる内容を判断、それを言語的に表わしたものを命題と呼ぶのだが、主賓・繫の三辞がきれいに姿を現わすのは、英語で言えば "A is B." ( I am a student. )

https://is.muni.cz/el/1421/jaro2016/JAP220/um/Text_3__Watanabe_.pdf

論理学でいうと S-P

日記の練習です。

最寄りのテキストエリア*1へ、という感じ。面倒なので。あとでなんとかする(予定は未定)。

日本語版(野矢茂樹 訳)

2.01231
対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかしその内的な性質のすべてを捉えなければならない。

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』第3章 「対象に至る方法」 p53

2.01231
対象を捉えるために、たしかに私はその対象の性質を捉える必要はない。しかしその対象の持つ論理形式のすべてを捉えなければならない。

対象 = オブジェクト
外的な性質 = 性質
内的な性質 = 論理形式 = プロパティ
オブジェクト、プロパティ、というキーワードからオブジェクト指向が透けて見えてくる。直接的な関連はない。ないけれど似てる。似てるからイメージが湧く。

German text (original)
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p2.01231GER

2.01231
Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht seine externen – aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.

Ogden/Ramsey translation
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p2.01231OGD

2.01231
In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities.

Pears/McGuinness translation
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p2.01231PM

2.01231
If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its internal properties.

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』第3章 「これでラッセルのパラドクスは解決する」 p91

ウィトゲンシュタインの関数は論理形式の解明のために工夫された手段であり、あくまで言語の中でのみ働く。定義域はポチやミケという対象ではなく、「ポチ」や「ミケ」、つまり名である。そして値域は真偽ではなく「ポチ - 白い」といった命題とされる。それはラッセル的な言語表現の意味内容ではなく「ポチ - 白い」という言語表現そのものにほかならない

「x - 白い」という関数
「ポチ - y」という関数
命題関数

ウィトゲンシュタインは関数を徹底的にノミナルに捉えるのである。

ノミナル、 Nominal、名目上、名義上

これは日記の練習です。

https://lopnor.hatenadiary.org/entry/20070617/1182083656

僕らは2週間に一度、ミサに行く ようなもんだとおもうよ。勝ったとか負けたとか、そんなことより、

前の試合から今日まで、こんなことがありました、こんな嬉しいことがありました、こんな悔いがあります、そういう告白をして、反省をして、場合によっちゃ元気をもらって、また次の一区切り(来週なのかもしれないし、すぐ次の水曜日なのかもしれないし)をがんばろう、とおもう。そういうことの繰り返しだと思う

毎年、貼っているんだけど、貼るのを忘れてた。だから今日、貼っておく。初心忘るべからず。そして、最後に笑うのはオレたちだ。

日記の練習です。

ホーム開幕戦の朝です。あけましてーーおめでとうございますーーー

甲府盆地は冷たく強い北西の風が吹いています。どピーカン、真っ青な空ですが寒い、寒すぎる。

日記の練習です。

< 以下、略> *1 なんて昨日書いていたけど、こういうことを書く時はお気づきの通り、なにかに突っかかっているときで、読書でいったらチェイス・レン『真理』が停滞しているのと、身体を動かすことでいったら今週末はなんやかんやで裏山には入れないことが確定しててちょっと落胆していることだったりする。

さて、チェイス・レン『真理』である。たぶんこれを読むには時期尚早だったのだ、ということと、

*2「真理の認識説」という章の中で、「真理のプラグマティズム」のへの反論を述べていて、イヤイヤ、ここで述べられている「真理」を巡るあなた達*3の営み、それ自体がここで言っているプラグマティックな「真理の探求」に見えるのだが、ということだったり、

「哲学」で扱われている考え方には大きく二つの形・姿があるような気がしていて、一つはあまりにもテクニカルで概念を弄って弄って弄り倒して拡張していく姿勢に見えて、もう一つはこの世界とはいったいなんなのだろうと掘って掘って掘りまくる姿勢で、この本は前者に見える*4ということ。

まあそうは言っても読むんだけど。

*1:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/07/182305

*2:この本ではまず最初に、「真理」とはなにか、客観的な「真理」とは、「真理」の価値、という「真理」についての基本的な考え方を示して、そのあと「真理」について主要な考え方をひとつずつ取り上げながら、それについての利点、欠点、そしてその概念の見込み(査定)を評価するという流れになっているんだけど、

*3:つまり哲学者たち

*4:理解が十分じゃないからレベルがそこまで達していないから、そういうふうに見える、ということはあるかもしれない

日記の練習です。

僕の読書は読了とかスピードとか冊数から自由であるのと同時に、習得することとか理解することとか同意することからも自由なので、時間さえ許せばいくらでも時間をかけても良いし、あとちょっとで読み終わる寸前に読むのを放棄しても良いし、そういう自由さがある。

これはランニングにおいても同じで、<以下、略>

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