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GPSトラッキングと「おくのほそ道」について(そして、枯山水とロガーの血についての断片集)

GPS情報はたとえ断片的であっても「人の心を強く揺さぶる」ことができるし「それを辿って追体験できる」という意味で 能因や西行の辿った道を追体験した「おくのほそ道」とおなじ機能をもっている



日本海から太平洋まで日本アルプスを縦走するレースがあった。なんとはなしに GPS トラッキングをリロード、リロードして眺めていた。

Facebook に公式にアップされる切れぎれの写真と、 twitter を流れるノイズだらけのハッシュタグと、GPS トラッキングで地図の上を移動し続ける点々を、交互に眺めていただけなんだけど、8/19深夜の制限時間にはアクセスが溢れて GPS トラッキングはエラーを吐いて止まった。

人というのはたったこれだけの断片的な情報であっても、強く心が揺さぶられるんだなあ、と思った。

息を飲むような雄大な眺め、漆黒の闇に浮かぶ仲間の灯、 烈風に晒され追いつめられる自分、悲鳴をあげる身体、 絶望的な距離感、何度も折れそうになる自分の心、 目指すのはあの雲の彼方。 日本海/富山湾から太平洋/駿河湾までその距離およそ415Km。 北アルプスから中央アルプス、そして南アルプスを、 自身の足のみで8日間以内に踏破する Trans Japan Alps Race 日本の大きさを感じ、アルプスの高さを感じ、自分の可能性を感じよう。

先日発売された写真集『TJAR』の巻末に、トランスジャパンアルプスレース(TJAR)とはなんたるかという文章を書きました。 その最後のほうに、こんなことを書いています。

だれもがレースの主役であり、その証として、ゴールを果たしたときに、優勝者よりも周囲の感動を呼ぶ人も少なくない。

これだけ読むとなんだかきれいごとのようにも聞こえますが、ここを書いたときには、あるふたりの人物を頭に浮かべていました。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/Basho_by_Morikawa_Kyoriku_%281656-1715%29.jpg/359px-Basho_by_Morikawa_Kyoriku_%281656-1715%29.jpg
via https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

角川文庫「新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き」、ゴールデンウィーク(なんと、沖縄旅行!!!)に「本文」を読んで(実際には文庫本で50ページくらいしかない)、それから「本文評釈」「解説」「発句評釈」の順で読んだ。そしていま「曾良随行日記」を読んでいる。

「曾良随行日記」、味も素っ気もなくて、まるで自分が書いている三年日記を読んでいるみたい。何月何日、何時に出発した、何処から何里進んで、何処其処から何丁進んで、どこそこに寄って、とある家に宿をとった、みたいなことが書かれている。それと比べると「おくのほそ道」は本当に文学的。

毎日のことを真面目に日記に書こうとすると「曾良随行日記」みたいに、ただひたすら愚直に起きた事柄を並べ立てるしか出来ない。そうでなければ、ちょっとした小さな引っかかりを増幅して、さも大きなドラマとして書くかしかない。前者は全然面白くないし、後者は疲れるし、だいたいにおいて間違った認識だったりする。

ドナルド・キーンは「百代の過客」で、たいていの日記は退屈で全然面白くない、と言っていた。面白い日記はだいたい、後から書き直されている。脚色されている、と言っている。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/Back_View_of_Fuji_from_Dream_Mtn_in_Kai_Province_%28Hiroshige%2C_1852%29.jpg
via https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1_(%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%B8%82)#%E6%AD%8C%E6%9E%95%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%A4%A2%E5%B1%B1%E3%80%8D

「おくのほそ道」本文は実際にはそんなに長くない。ページ数でいうと文庫本で50ページくらい。じゃあ、スっと読めるか、というと残念ながらそんなことはなくて、

それは、芭蕉のこの旅の目的が「歌枕」の巡礼だったこと。まず歌枕というものを知らなかったから。それで古典の引用がとても多い。李白、杜甫、西行、和歌集とか、あと論語も。

もともと地名の歌枕は実際の風景をもとに親しまれてきたというよりは、その言葉の持つイメージが利用されて和歌に詠まれていた面がある。例えば上で触れた「あふさかやま」は古くより逢坂の関と呼ばれる関所でもあったが、この地名はたいていが男女が逢えぬ嘆きをあらわす恋の歌に詠まれた。「坂」・「山」・「関」は人を阻むものであり、思う相手に心のままに「あふ」ことができないものの象徴として、「あふさかやま」(あふさかのせき)が詠まれているのである。

地名の歌枕は歌や物語で場面として繰り返し登場する中で、実際の風景から離れたところでイメージが形成されてきたものともいえる。たとえば「桜」なら「吉野山」、「龍田川」なら「紅葉」と、その場所ならこの景物を詠むというように組み合わせがある程度決まっていた。

本歌取りが行われるようになると、そういった古歌にある組み合わせが受け継がれ、歌枕が持つイメージとして使われるようになった。

「夢山」は甲斐の歌枕として、古くから幾つかの和歌に詠まれた[3]。元禄5年(1692年)に有賀長伯が各地の歌枕を集めた『歌枕秋の寝覚』では、例歌として『夫木和歌抄』に収録されるよみ人しらずの歌「都人おほつかなしや夢山をみるかひありて行かへるらん」を挙げており、「かひ(甲斐)」を掛詞として用いていることから甲斐の歌枕と認識していたと考えられている

彼らは甲斐を訪れておらず実景を詠んではいないが、中院通躬(なかのいん みちみ)が「夢山春曙」として「きのふまでめなれし雪は夢の山ゆめとそ霞む春の曙」と詠んだ。



via https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA

第七級の中で一番記憶に残っている部分はメスナーが竜安寺の石庭を見て「ガッシャーブルムI峰で感じた境地を感じた。」と言ってる部分。

幅 25 メートル、奥行 10 メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。

「虎の子渡し」とは、虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。

例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水である。

様式の登場後は必ずしも水を使わなくとも造園が可能になった。



via http://web.archive.org/web/20100216210907/http://www.sony.co.jp/Products/SC-HP/cx_pal/vol70/pdf/angle70.pdf

ロガーの血

twitterは、自分にはロギングツールとして映りました。 世の中には、勝手にロガーと呼んでいる、とにかくなんでもかんでもログを残しておきたいひとがいます。

後で見返したりはしないけれど、記録が残っていれば後で見返すことができる、という安心感、"すべて"が記録されている、という満足感があります。 twitterがロガー向けツールかどうかは別として、ロガーが自分のログを手でとるのに便利なツールなので、非ロガーが使わなくなってもロガーはロギングツールとして使い続けるだろうと思います。ブックマークしたとか、ウェブ見てるとか、いまこれ聞いてるとか、いろいろツールができちゃったのでますますロギングツールとして優秀になっていっています。

そしてロガーはインテリでフェティッシュなひとたちよりかは数が多そうです。

逆に10年前のWebを振り返ると、数十万円のキカイを買って、高い電話代を払ってインターネットに繋いで見られるものは、テレビと比べると絶望的に汚い画像とテキストだけの音も出ない世界で、それこそインテリでフェティッシュな趣味のひとたちのおもちゃだったと思います。

時間は有限なのだ。

だからもうユーザには1分単位の時間ですら残っていない。 でも、必要な時間がゼロ、という世界には、文字通り無限の可能性が残されている。

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