copy and destroy

catch and eat

今週末の良かったこと

リバタリアニズム


リバタリアニズムは経済的自由と社会的自由(個人的自由、政治的自由)を共に尊重する思想であり、思想家デイヴィッド・ノーラン(英語版)によるノーラン・チャートでは、社会主義などの左翼思想は個人的自由は高いが経済的自由は低く、保守主義などの右翼思想は経済的自由は高いが個人的自由は低く、ポピュリズム(ここでは権威主義や全体主義などを指す)では個人的自由も経済的自由も低い、という位置づけとなる。

ノーラン・チャートには、右翼と左翼という伝統的な政治分類とは異なり、経済的自由を表すX軸と個人的自由を表すY軸とがある。ノーランは左下の領域に位置する政治哲学をポピュリズムと呼んだが、多くの人々は代わりに権威主義あるいは全体主義と呼んだ。

リバタリアニズムとポピュリズムの話、アダム・カヘンの言ってた「愛と力」の話に繋がってる。「力の衝動」は差別化と個別化を、「愛の衝動」は均質化と統合化を意味する。

「愛」とか「力」という語には特別のイメージがあるけどもここにおいては、「愛」だからといってピース、平和とかを意味するわけではなく、「力」だからといって破壊、暴力とかを意味するわけでもない。均質化、統合化つまり全体主義っていうのは時と場合によっては、非常に(非情に)破壊的だったりする。

それから一人の人間はいつでもどこでも同じ傾向(リバタリアニズム/ポピュリズム/右翼/左翼)を示すわけじゃなくてその時その場所その場合に応じて取りうるどこかのポジションに自分を置く。たとえば新型コロナウイルスの脅威にさらされている現在、ポピュリズム寄りに偏ることはしょうがない、みたいなことを考えたりする(適当)。中国が武漢をまるごと隔離したみたいなことと、日本がダイヤモンド・プリンセス号の陰性だった乗客の移動の自由を尊重したこととか、みたいな(適当)。

サイバーリバタリアン

表現の自由とインターネットへのより広いアクセスを保証するために、1990年代にサイバーリバタリアンが行った取り組みなしには、ウィキペディアは存在できないと私は言いました。

私は何度も聞いたことがありますが、ジャーナリストはもっと慎重な見方をしました。インターネットは、私たちが今住んでいる不幸な歴史の瞬間に私たちをもたらしました。社会を救う唯一の方法は、より厳しい法律と、法的および憲法上の保護を少なくする事を通じて、オンラインにより規律を課すことです

30年間、私はサイバーリバタリアン、または私が好む用語であるインターネット弁護士でした。もちろん、著作権法、暗号化、ブロードバンドアクセス、デジタルプライバシー、データ保護などに取り組んできました。しかし、私のキャリアのルーツは常に市民の自由と刑法にありました。つまり、私は(主に)検閲と、インターネット上またはインターネット外でデジタルツールを使用して発言したり実行したりすることで(主に)法を遵守している人々を罰したい人々に対して反対の主張をしています。

scrapbox.io

なんか凄いところを掘り当てたのかもしれない。なにを言っているのか全然理解出来ていないけど、とても大事なことが書かれている気がする。

オクラナガイモ

https://okuranagaimo.blogspot.com/

この okuranagaimo サンの blog 、スゴイなあ面白いなあと思っている。このページの作者はいったいどんな人なんだろうか?

いろいろな英語の記事を機械的に google 翻訳した文章が貼り付けてある。ただそれだけ。整理整頓も個人の感想や考えもなにもない。ただひたすら貼り付けてある。でも記事の選択やその膨大なアーカイブでここにはなにがしかの個人性が満ち溢れている。

並べる順番、置く場所、時間、それで大きく世界が変わる

tumblr で経験してきた大きなものの一つに、「置く場所や順番や時間が変わるとその価値や意味が全く変わってしまう」ってのがある。もう一つあって、それは「継続と物量によってのみ築かれるなにかがある」ってヤツ。

事実かそれともつくり話か?

Fact or Fiction

scrapbox.io


okuranagaimo サンの真似してみた。たいていのものはみんなだれかのコピーだ。

J2 開幕

2020年 J2 リーグ 第1節 甲府 vs 町田 アウェイ 0-0 ドロー。2019年と全然違うメンバーで始まった。


勝てなかった。負けなかった。このなんともいえない気分も含めてサッカー、帰って来たな

勝っても負けても引き分けても、次の試合が一番大事

僕らは2週間に一度

春が来てまたサッカーが帰って来る、みたいなの、もう大人になると一年がだーっと地続きに何年も何年も積み重なっていく感じになるけどそうではなくて、毎年毎年春が来て、昨年のこととか全部忘れて、また何回でも生まれ変われるみたいなの、なんていうのかな、こういう感じ

そういう感じ、わかる?

僕らは2週間に一度、ミサに行く ようなもんだとおもうよ。勝ったとか負けたとか、そんなことより、

前の試合から今日まで、こんなことがありました、こんな嬉しいことがありました、こんな悔いがあります、そういう告白をして、反省をして、場合によっちゃ元気をもらって、また次の一区切り(来週なのかもしれないし、すぐ次の水曜日なのかもしれないし)をがんばろう、とおもう。そういうことの繰り返しだと思う

ということで、あけましておめでとうございます。

powered by hatena blog.
the nikki system for lifelogging junkies.

all posts © their original owners.
writing is reusable solely under the by creative commons license.