百代の過客、発掘
https://twitter.com/taizooo/status/1621110945572597760
「百代の過客」、積読山脈からの発掘に成功した
どうも<続>の方から読んだらしくて、そっちの方がボロボロだった。<続>は読了した雰囲気がある。「百代の過客」は序文は読んでいてしばらく先に進んだみたいだけどあとは手つかずだった。全然記憶がない。
空から降ってくる
Nikki Hub に join してから「日記」についてずっと考えていて、いろんな断片をいろんな場所から拾い集めて貼り付けまくっていた。こういうときは見るもの聞くものの中に「日記」が紛れ込んでいて、そういう空から降ってくるみたいな奇跡が何回も起きる。
ちゃんとまとめたかった
本当はちゃんとまとめたかったのだけれど、Scrapbox に貼り付けまくった断片も、Notion (Nikki Hub)に貼り付けまくった断片も、ここに貼り付けた断片も、ただただブヨブヨと膨らんでいくばかりでトッ散らかって延々と、とりとめがない。
今週のこの文章でなにかをちゃんとまとめるつもりだった。
せっかく思いついたのだからなにかを成し遂げたい、という気持ちになったのだけれど、もともとそんなちゃんとした人間じゃなかった。運が良ければまたいつかこの場所に戻ってきて、もっとイイ具合に、なにかキレイにまとめられることもあるだろう、ということで諦めたというか、悟ったというか、そんな気分になったときにこの文章が目に入った。2018年。
さて、わたしたちは残念ながら毎日の中でその日に起きた事柄や湧き上がった感情や考えたことのどれがその後重要な鍵になるか見極めることは不可能だ。例えるなら真冬から少しだけ春に近づいた日々に木々の色合いがわずかに変化する様子をその日一日だけで見極めることが出来ないということ。数ヶ月の後に見比べたなら明らかに季節の変化は木々の色を変えるけども毎日の中でそれを知るのは困難だ。
小学生のころアサガオの絵日記の宿題があった。毎日その様子を絵に描くのだが、毎日にそんなに変化はない。子供心にもそれだと面白くないと思ったのか少しずつデフォルメして描いていた。気がついたときには実際のアサガオより絵日記のアサガオの方が大きく成長した。そういうものだ。
おくのほそ道、松尾芭蕉に同行した曽良の日記が残っている。曽良随行日記と呼ばれている。書かれているのはどこそこの誰々とあった、何を食べた、どこそこの角を曲がりどこそこから何里の進んだ、というものだ。そこにはなにも面白いことはない。普通に日記を書くということはそういうことになるのだろう。
正岡子規の仰臥漫録や夏目漱石の修善寺日記などというのはごく普通のわれわれには書けない。百代の過客でドナルド・キーンは大抵の日記は実に退屈で面白い日記はだいたいにおいて書き直されている。脚色されていると言っていた。
リアルとフェイクの話だった。
5年も前の自分は、もう他人だな。
過去の自分より現在の自分の方が優れているとは限らない。ましてや未来の自分の方がもっと良いとも限らない。ファーストインプレッションってすごくって、なにもわかっていない、全然知らない、そういう一番最初に感じたことがすでに答えだったりすることがよくある。ちょっと悔しいので未来の自分への封じ手とすることにした。
そういうわけで、とりあえず続くかわかんないけど、「百代の過客」を読もうと思う。
尾骨骨折その後
土曜日、いろいろと事情があり「公」が優先されて走れなかった。日曜日、走った。先週の日曜日と同じく、川沿いのルートと城跡の公園を繋いだフラットな、少し大きいループで120分、やっぱり5分:1分のウォークブレイクで。先週は90分走れるくらいの余裕さで残りの30分は「やれよ、やるんだよ」という感じにちょっと根性で走り切った感じだったけども、今週はちょうど120分走れるくらいの余裕さでその後15分だけ歩いて終わった。来週は150分くらい走れる余裕さで最低120分は走りたい。
そして、とうとう今朝のラジオ体操第一は全ての動作を普通に出来るようになった。あと少し。
それから、
来週土曜日の富士フィルムスーパーカップのチケットをコンビニで発券した。国立競技場までの電車チケットを予約した。今週を無事に乗り切って、今シーズンの、いつもより一週間早い、特別なスペシャルな開幕に備えたい。天気が良いとイイ。
それから、それから、
今週末のプレイリスト。1曲目はノラ・ジョーンズ。プレイリストに入れた曲についてのリンクを Notion に貼った。本当は /cd に貼るべきな気がする