積読山脈飽和攻撃
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それではここで、本日積み増した積読の三冊をご覧いただきます。プラグマティズム飽和攻撃!
積読山脈を積み増した。順調に標高を高めている。伊藤邦彦「哲学の歴史 第8巻(18ー20世紀) 社会の哲学」、宇野重規「西洋政治思想史」、パース、ジェイムズ、デューイ、植木豊(訳)「プラグマティズム古典集成」。ぜんぶ1月の終わりに買った宇野重規「民主主義のつくり方」がきっかけになっている。
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ワイヤレス・イヤフォーンを買うのは結構躊躇するのに、積読を積むのは全然なんともないのはどういうことなのか
今回、積み増す積読から泣く泣く落とした本は、白土三平「シートン動物記」、ルイ・メナンド「メタフィジカル・クラブ」、欲しかったウィリアム・ジェイムズ「宗教的経験の諸相」は無かった。
二つの理由から泣く泣く落とした。一つめはプラグマティズムに関わることにだけ集中したかった(「シートン動物記」を落とした理由)。二つめはプラグマティズム成立の瞬間にピントを合わせるか、大きな流れの中でのプラグマティズムの位置を把握するかの選択の結果だった(「メタフィジカル・クラブ」を落とした理由、大きな流れの方を選んだ)。
まあ、実際の話、「メタフィジカル・クラブ」は1ページ2段組で500ページを超える大作でお値段もビックリする感じだったので、躊躇した、というのはある。
古典、人文主義
宇野重規は「西洋政治思想史」の序文で、「古典」とは「古い」という意味ではなく、時代を超えて読み継がれ常に参照され続けた書物のことである、と述べている。歴史というのはこの古典と、古典を読む人、そこから新たなる古典を編む人の繋がりを意味する(意訳)、そしてこの伝統のことを「人文主義」(ヒューマニズム)と呼ぶのだと言う(誤読かも)。人文主義というのは古代ギリシャやローマといったホコリをかぶったような古臭いなにかではないようだ
身体、経験、習慣、理念
生まれたばかりの赤ん坊にとって、世界とは混沌であろう。しかしながら、やがて赤ん坊は身体を動かすことで世界に触れていく。身の回りの出来事のうちにパターンを読みとり、その意味を知るようにもなる。さらに赤ん坊は言葉を学習する以前から、相互行為を始めている。言語なしでも、人間は経験を重ねていくのである。
多様な経験を繰り返すことで、人々は習慣を形成し、そのような習慣は最終的には一つの規範の周辺に集まってくる。多くの人が納得し、意味があると思う習慣のみが生き残っていくからである。
理念は、あくまで行為においてのみ具現化されるものである。何も理念がそれ自体として存在して、世界を動かすわけではない。
偶然のなかから多様な習慣が生まれ、それらが定着していくことを通じて、次第に世界が安定化していく
プラグマティズムがなんなのかまだ全然理解出来ていないけども「最初に行動(行為)がある」ということだと思う。そこがとても心に響いた。それから民主主義とかちょっと自分からは遠いなあ、とか思っていたけどもこの本を読んで、そんなことはないな、と思った。
リプリーズ しとくと、
民主主義とは、自分たちの(社会の)問題を、自分たちで考え、自分たちの力で解決していくこと
インターネットはその最初からそういうものだったはずだ。
そして、今週末のプレイリスト
プレイリストに30分を超える曲を突っ込むことを躊躇しなくなったことと、とにかく分厚い本を躊躇なく積み増すようになったことは一体のような気がしなくもない。