copy and destroy

catch and eat

糠床で寝かせるみたいにして

でも僕はもう二十歳じゃない。ピアノを練習しすぎるとアスリートと一緒で弾けなくなるから、冷やして、温めて、電気を通してと、いろんな治療をして指を大切にしながら、自分が少しでも美しいと思うものを作る。 それを弾いて、伝えるために必要なエネルギーを、糠床(ぬかどこ)で寝かせるみたいにして自分で増やす。そうしないとエネルギーが腐って、もう終わっちゃうから。

今週末の良かったこと

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via little life feat. Kan Sano & jjj (MAHBIE Remix) / TOSHIKI HAYASHI (%C)

音楽、%C と MAHBIE 。そして歌詞の中にこんな一言があった。

health の奥にある hell

via 💽 - Scrapbox

読書、「おくのほそ道」(英訳版 訳者:ドナルド・キーン) を手に入れた。積読に並んでいる。キーンは、「おくのほそ道」という題名を、

the narrow road to oku

と訳した。「おくのほそ道」という言葉は本文の中に一度しか現れない。

かの画図(ぐわと)にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有り。

画図とは地図のこと。十符の菅とは古くからたびたび歌われてきた題材のこと。十符とは「十字に編まれた」という意味のこと。ということらしい。キーンは題名について、

「奥という地方に入る細道」

つまり、芭蕉の目的地は本州の北端にある国であった。

奥地あるいは奥に引っ込んだ場所という地理的な意味と共に、

この旅が俳句の世界の深淵に入っていくという比喩的な

奥へ。深淵に入っていく、ということ。


走れなかった話しと走った話し。左足のかかとのヒビ割れ。


フィリップ・マフェトンが言うには、人はこうやって簡単に、オーバートレーニングに陥ったり、慢性的故障に陥ったりする。そういう生物である。ということ。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」じゃないけども、この話はどこかで根っこが繋がっていて、おそらく人類は、アダムとイヴの頃からそういう病に取り憑かれているんだろうな、という。


その奥底には地獄の釜が口を開けて待っているのかもしれない。


ところで、赤瀬川原平サンの「世の中は偶然に満ちている」という本がある。本というか日記、彼がつけていた「偶然日記」についてのもの。亡くなってから出版された。積読に並んでいる。これには彼が遭遇した偶然の出来事が載っているんだけど、今週末は自分に降り掛かった偶然の賜物についてでした。

pace 乱さず行けるやつに peace

shizukasa ya iwa ni shimiiru semi no koe

「英文収録 おくのほそ道 ドナルド・キーン」

以下、「芭蕉における即興と改作」より引用

閑かさや岩にしみ入る蟬の声

この句に秘められたもう一つの効果を指摘したい。漢字と仮名で表記すると分かりにくいのだが、ローマ字で書くとすぐ分かる。

shizukasa ya iwa ni shimiiru semi no koe

iという母音が七回出る。そして「いー、いー」という七回のiは蟬の声を表しているのだ。

夏草や兵どもが夢の跡

natsukusa ya tsuwamonodomo ga yume no ato

ここで重要な役割を果たすのはoである。どの国の詩歌でもオーというのは悲しみの音なのだ。

俳句の英訳(おくのほそ道 ドナルド・キーン)






英文収録 おくのほそ道 (講談社学術文庫)

英文収録 おくのほそ道 (講談社学術文庫)

The Narrow Road to Oku

The Narrow Road to Oku

対訳 おくのほそ道 (Illustrated Japanese Classics)

対訳 おくのほそ道 (Illustrated Japanese Classics)

  • 作者: 松尾芭蕉,宮田雅之,Donald Keene,ドナルドキーン
  • 出版社/メーカー: 講談社インターナショナル
  • 発売日: 1997/04/15
  • メディア: ペーパーバック
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テレフォン・セックスの会話だけでできた小説

ニコルソン・ベイカーの『中二階』のすごさは、いままでの文学ではおよそ扱うに値しないと思われてきた、というかあまりにも瑣末なので文学で扱うに値するかどうかさえも考えられてこなかった、きわめて非芸術的な諸問題をめぐる考察だけで、とても面白い小説を作り上げてしまっていることである。日本では、テレフォン・セックスの会話だけでできた、これはこれで十分秀逸な小説『もしもし』が一足先に訳されたベイカーだが、この本国でのデビュー作はもっといい。

「中二階」

「もしもし」

今週末の良かったこと

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読書、「飯田蛇笏全句集」、読んでいる。

餠花や庵どつとゆる山颪

もちばなや/あん/どっと/ゆ(れ)る/やまあらし
餅花は繭玉とも呼ばれる。米の粉でつくった紅白の餅玉で枯れ枝に挿して飾り付ける。紅梅白梅を模している。

夜相撲や眼球とばして土埃り

よずもうや/めだま/とばして/つちぼこり

死骸や秋風かよふ鼻の穴

しかばねや/あきかぜ/かよう/はなのあな

水葬の夜を紫陽花は卓に満つ

すいそうの/よを/あじさいは/たくにみつ
埋葬としての水葬を指す。

帯の上の乳にこだはりて扇さす

おびのうえの/ちちにこだわりて/おおぎさす

俳句、もっと埃っぽい古ぼけた文学だと思っていた。山嵐や相撲の句の躍動感だったり、死骸や水葬といった死についての句なのにカラリとした感じだったり、扇の句のなんともいえない艶っぽさだったり、思っていたのとだいぶ違う感じ。「道徳感情論」はもう全然、塩漬けになっている。あと二章なのでなんとか読み切りたい。来週こそは。


音楽、餅花つながりで、くるりの「アンテナ」を聴いていた。よくわかんないけど、ジャケットの紅白は餅花を模したものだと思う。たぶんプラスチックだけど。

ECD の訃報が届いた。あと、マジアレさんの一周忌が過ぎていた。昨年 は、生死(人だけじゃなくて物や事の生き死に)について、真正面からじゃなくてちょっと誤魔化して斜め方向くらいの角度からなんとなく向き合う感じがあったのだけれど、そのきっかけになったのは昨年始めに読んだヴォネガットの「スローターハウス5」だった。その「スローターハウス5」の最後のセリフは「 プーティーウィッ?」で、その文字列はずーっと前から知っていたんだけども、それが何を意味しているのか全然知らなかった。残念ながらそれに気がついたときには、そのことを告げる相手はもうすでにインターネットの彼方で、だれにも話すことなく宙ぶらりんになった。そんなことを思い出させた。それでも、まあ、生きていくしかないのだ。


コーヒーは泥みたいなインスタントコーヒーだけだった。


洗濯物は畳んだ。あまりの寒さに、ベランダのカメの水槽(というかタライ)には 3cm ばかりの氷が張っていた。


サッカーはキャンプインしていて、山本英臣が10年目のキャプテンに選ばれたり、ジネイが合流していたり、トレーニングマッチの結果が聞こえてきたり、いよいよ始まるな、って感じになってきている。開幕が待ち遠しい。春って感じ。

飯田蛇笏全句集より(俳句の硬さについて)

「飯田蛇笏全句集」

雲ふかく蓬萊かざる山廬かな


冱えかへる山ふかき廬の閾かな







北風やほとけの足のぶうらぶら


雲に鳶富士たかき日の冴返る


「俳句って、写真っぽいな」



頸巻に瞳のにくらしや女の子




何にもかも文ンにゆだねぬ冬籠り

億兆のこゝろ〴〵やお歳玉




餠花や庵どつとゆる山颪







妻激して口蒼し枇杷の花にたつ








ある夜月に富士大形の寒さかな





死病得て爪うつくしき火桶かな



俳句が硬いと感じることについて

引用、ここではリブログに関わるような、狭義における引用(クヲート quote)を指します。

引用って悪意だと思っていて、それは文章の中から作者の意図、言いたいことをズラして、こちらの意図に合うように切り出すことだと思っている。まさに切り刻む。自分はかなり悪意の塊なので、作者にとってはおそらく不本意であるところを切り刻んできたと思う。カロリーが高そうなところを選り分けて。で、たいていの文章は、その文章が短くても、そこから5+7でも7+5でも7+7でも5+7+5でも7+7でも、いかようにでも切り出せると思ってた。そこに作者が言いたいことがあればなにかしら切り出せるもんだと。

ところが俳句っていうのはどうも作者が言いたいことを書いているわけではないようで、物理的にはそこから5+7でも7+5でも切り出せるはずなのに、切り出したとたん何の価値もないものになってしまう。切り出すことに意味がない。そういう感じ。これは自分としてはとても大きな気付きで、ちょっとどうしたもんか、みたいな気分になっている。打ちのめされている。

今週末の良かったこと


飯田蛇笏全句集を買った。キンドルになっている。ポケットの中に入る。毎日持って歩ける。未来。

「暮らしのヒント集」

日曜の朝、いつものコーヒーショップで読んだ、暮しの手帖「暮らしのヒント集」の中に、

本屋に行って詩集を一冊買いましょう。知らない作家のものでも、すばらしい作品がたくさんありますから。

とあった。えー、詩集かあ、と思った。まあ、つまらない話をウェッブで眺めるよりは全然良いだろうな、と思った。その帰りに、コンビニで買った毎日新聞と朝日新聞の書評に、西東三鬼全句集があった。キンドルになっていた。おっ、と思った。

「西東三鬼全句集」

水枕ガバリと寒い海がある

  • 季語は「寒い」。冬の句
  • 水枕は熱が出たときにつかう、あの水枕のこと

句集といえば、松尾芭蕉の全句集が積読になっている。で、引っ張り出してみた。

「芭蕉全句集」

かびたんもつくばはせけり君が春

  • 季語は「春」。新春の句
  • かびたん(甲比丹/Kapitein/captain)は、長崎出島のオランダ商館長のこと
  • つくばはせる、は、つくばわせる、這いつくばる、ひれ伏すこと
  • 君、は、ここでは徳川家綱のこと

でも、ちょっと待て、と。松尾芭蕉とか、たしかに有名だし、「おくのほそ道」も読んだけど、それじゃあまりにも偏っているだろう、と。多様性が損なわれているのは悪じゃなかったのか、と。で、特定の誰かじゃなくて、江戸時代みたいな過去じゃなくて。で、「定本 現代俳句」を見つけた。西東三鬼の句も載っているらしい。キンドルになっていた。おっ、と思った。

「定本 現代俳句」

で、ここでちょっと思い当たる。西東三鬼とか、たしかにカッコイイけど、そんな縁もゆかりもないところじゃなくて、山梨には誰かいなかったっけ? あ、蛇笏か、飯田蛇笏だ! ということで、「飯田蛇笏全句集」を買った。キンドルになっていた。おっ、と思った。

「飯田蛇笏全句集」

冱えかへる山ふかき廬の閾かな

  • 季語は「冱えかへる」。春の句
  • 廬は山廬(サンロ)。山廬とは蛇骨の居宅のこと
  • 閾は敷居のこと。閾値の閾。Threshold
  • 冱えかへるは、冱え返る、冱返る。サエカエル、イテカエル。
  • 春になり、ゆるみかけた大地が、寒さのぶり返しで再び凍りつくこと

俳句の世界では春。そして月曜日、雪が降っている。今週末、床屋にはまた行けなかった。

左腕の肘を伸ばし、 肩よりも高く親指を立てる。 そして、お留守になった右手を 力一杯振る。笑顔で。

立ち止まり、
車が来る方向を向き、
「僕はバックパッカーだ。」と言わんばかりに、
ザックを降ろし目の前に置く。

左腕の肘を伸ばし、
肩よりも高く親指を立てる。
そして、お留守になった右手を
力一杯振る。笑顔で。

これが僕の考えるヒッチハイクの流儀に則った正統な方法です。

今週末の良かったこと

gyazo.com


髪ボサボサだけど、寒すぎて床屋には行きたくなかった。なにかと理由をつけて、いろいろなものを先送りしている。あるものは翌日へ、あるものは来週へ、そしてまたあるものは来月へ。

先送りしているもの、「道徳感情論」。走ると本、読めない。本、読むと走れない。 週末、たくさん走りたいし、たくさん本、読みたいけど、それぞれは、残念ながら相反するみたい。

すべて持つことはできない。 禁じられている。 選ぶことを学べ。

イイ感じにするためには丁度よいところでバランスしないとダメ、という学び。 “yin & yang”

先送りしていたもの、メガネの修理。二つあるメガネのうちの一つが調子悪くなったのはまだ暑かった頃だった。テンプルが開いてしまってユルユル。必ず右側の留め具のところのネジが緩むようになる。締め増しても締め増して必ず緩む。二つめのメガネがいよいよユルユルになってきたので、しょうがなく街の眼鏡屋で調整してもらった。新しい先送りのために、ユルユルな上に度があっていない三つめのメガネのレンズ交換を頼んだ。

先送りしていたもの、コーヒー。禁コーヒーが明けて昨年は、泥みたいなインスタントコーヒーしか飲まなかった。2018年が明けて新年、いつものコーヒーショップに行った。実は三が日が明けてからすぐの日曜日、店先まで行ったのだけれど、商売繁盛で店先を固くディフェンスする人垣にたじろいですごすごと引き下がっていた。商売繁盛。自分ではない誰かのサイフでお気に入りのコーヒーショップが潤うのはとても喜ばしいことだ。これまでの分を取り返すべく、ドリップを飲み干した返す刀でアメリカーノを注文した。アメリカーノは「熱いですよ」と渡されたのにやっぱり熱かった。帰り道、謝恩塔に上った。

どんど焼き。晴天。無風だったのに正月飾りに火がつくとなぜか強い風が吹いた。三年日記を読み返してみると昨年は風花が舞っていた。その数ページ先に花粉症という文字を発見してちょっとうんざりした。

悪くはない週末だったが、リブログはなかった。

好奇心を遮るものはたとえば恐怖心で、

自分はインターネットを通じていろいろなものにアクセスできて、表面的にはいろいろなものごとを見たり知ることができる。
だから年が同じころの母と比べたら未知の量は少ないかもしれない。

好奇心を遮るものはたとえば恐怖心で、恐怖心はたとえば未知のものに対して生まれる。
未知の数でいえば、母より自分のほうが好奇心を遮られることが少ないといえる。

そういうアドバンテージもないまま未知の暗闇を知りながら虚栄を見せるでもなく「やってみたらいいよ」と言える母は、実は自分が思っていたよりもずっとすごい気がしたし、自分はそういったテクノロジーの恩恵を受けておきながら臆病になっていてはいけないなと思った。

知らないが故の恐怖心、知っているが故の恐怖心。
情報量と恐怖心/好奇心の関係。
未知と既知、恐怖心と好奇心。もしかしたら、それぞれは因果も相関も無いかもしれない。陰と陽、"yin & yang" バランス。

こんな生活をすればたいていのことは気にならなくなる

天候悪化はわかっていたので、出発前に全員の衣類を調べた。ほとんど使えない。それでセーターや防寒着、漁師合羽をみんなに貸した。なにを着てもずぶ濡れになるだろうが、直接肌にウールを着れば体温は守られる。完全防水の漁師ガッパは雨と外気を遮断する。しかし化繊雨具は、たとえゴアテックスであっても、下に水温を遮るものを着なければ、肌に張り付いて体温を奪う。知床で雨具に求められるのは防水性ではない。防寒性なのだ。いずれにしても私たちは嵐に耐えた。

冬の日高や大雪を登っていたころは、雪洞やイグルーの中で、石のように凍った寝袋に潜り込んで寝た。羽毛は体温が伝わると氷が解けて膨らみはじめる。そしてもうもうと湯気が出る。そのため雪洞の中は1メートル先も見えなくなる。そうなってはじめて眠れる。こんな生活をすればたいていのことは気にならなくなる。そして何が大事かを知る。木綿はだめだ。アラスカにはCotton kills people ということわざがある。

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