Peasant infantry armed with scythes pray before the battle of Racławice (1794) by Józef Chełmoński.
via https://en.wikipedia.org/wiki/Scythe
106
2017年はヴォネガットから始まった。ヴォネガットのスローターハウス5、次々と人が死んでいく。その後には墓標のように次の言葉が続く。
そういうものだ
正月休み、公式行事が一通り終わったその晩、キンドルに空から降ってきた。降ってこない。購入しただけだ。まさに21世紀だ。せっかくの電子書籍なので、いったいいくつの死があるのか検索してみた。106個あった。106個の死が多いのか少ないのかよくわからないけれど、よく考えると、よく考えなくても、死は当たり前にそこかしこにある。
404
胸を、ファンクしてんのがファンクだ。
via https://twitter.com/majiare/status/606105282230386688
1月の終わり、マジアレさんが亡くなられた。ご冥福をお祈りします。亡くなるまでマジアレさんがどういう人なのか知らなかった。よくある話だ。言葉を交わしたことはほとんどなかった。でも、ファンク探求の倫理とポップ中毒者の精神を教えてくれたのはマジアレさんだった。
そのチーパカチーパカいってるようなフォルムを自在に手なずけてだよ、僕たちスマーフ男組はポップへと突きぬけるんだ! 808命! チープ上等! ブンチキパッドゥンチキブンパドゥン」。
via http://dtybywl.tumblr.com/post/4602912
大好きな人たちも大っ嫌いな人たちもなんともない人たちも、だれもが無関係に目の前に現れて、唐突に目の前から消えていく。そういうものだ。
この世から消えてなくなるのも死であれば、そこからその気配がきえてしまうこともまた死だろう。そしてそれは突然訪れる。majiare サンも to も sa も kenmat も snj14 も mala サンも suyhnc もみんなそう。
だれかのステータスコードが 404 になったからといって感傷にひたっている暇はない。進め。そして洗濯物を畳め。
10年
10年。これだけの時間を要しても世界は未だ Reblog の真の意味を理解出来ずにいる。
via http://taizooo.tumblr.com/post/157350490275
2017年の春、tumblr は10周年を迎えた。結局 tumblr は紫色に染まらなかった。染まるどころか yahoo が死を迎えてもなぜか tumblr は生き残った。そういうものだ。
それが良かったのか悪かったのかわからない。いや良かった。少なくとも自分にとっては。10年も同じサービスを使い続けることになるなんて本当に想像してなかった。
10年か。10年。イヌにとっての1年は人間の7年に相当するそうだ。
via http://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2016/12/01/000000
10年後の今、dashboard のラインナップに並ぶのは10年前から変わらない人や、いまだに毎晩ハードに潜っている人や、ザトウクジラのように本当にたまに気まぐれに現れる人や、10年前にはまだ鼻を垂らしていたようなフレッシュな人や、いろいろだ。 dashboard には思い出したかのように懐かしい post が流れて来たり、諸事情によって何度もリブログされ続けたり、見たこともないようなイカシタやつが流れてきたり、いろいろだ。
人も post も無関係に目の前に現れて、唐突に目の前から消えていく。ずっと変わらない。
tombloo なき世界
ゴツイ4WDであるFirefoxにAutopagerizeやLDRizeやTomblooやらでビッグフットにして根こそぎWebを焼け野原にできるくらいに武装してあるのに、お出かけはいっつもソコの角のコンビニまで。 コンビニの名は"tumblr.“。24時間営業。どんな時間に寄ってもなんか変な人ばっかしたむろってる。
via http://taizooo.tumblr.com/post/31360675
2017年の秋、10年前、2だった Firefox は57になった。
Firefox 57 それは Quantum という名前で大々的に登場した。Firefox 57 は XPCOM ベースのアドオンのサポートを全面的に廃止した。結果、インターネットの彼方から使われてきたツール達が、その歴史に幕を下ろした。動かなくなったアドオンの中に tombfix があった。そういうものだ。
とうとう tombfix は空から降ってこなくなった。
何年か前、tombloo について何か書くんだと心に決めていた。その約束を果たさないまま、なんとなく tombfix / tombloo との別れを迎えてしまった。しかもうやむやに。だからこれはその懺悔でもある。
まず開発者の brazil サンに敬意を表したい。すげぇークールな tombloo をわれわれにもたらしてくれてありがとう。
そしてその tombloo を tombfix として蘇らせた syoichi サンにも敬意を表したい。tombfix はみんな大好き tombloo から派生したプロジェクトだ。正確には継承されたものだ。新しいアドオンとして始まったのは brazil サンがそれを望んだから。それは2013年のことだった。果敢にも brazil サンの跡を継いだのが syoichi サンだった。そうでなければとうの昔に tombloo は死に絶えていた。ありがとう。
tombloo その前身は Share on Tumblr (SoT)と呼ばれた JSAction のスクリプトだった。 tumblr が日本で知られるようになってわずか1ヶ月ばかりの頃に登場した。そしてその後 JSAction を必要としない単体のアドオンとして tombloo は誕生した。
tombfix / tombloo が10年生き延びた理由はいくつかある。ひとつは公開されていたこと。もう一つはその構造。
交錯する
1個1個の小さな処理、reduce とかの流れや deferred-chain, addBefore/addAround とか、
extractors でページ内容抽出、models でサービスにPOST。
service, ui, action、構造。アーキテクチャがきれい。
via http://polygon-planet-log.blogspot.jp/2013/12/reblog-tombloo-tombfix-adv.html
extractors / models それから patch(addBefore / addAround)。
世の中のコンテンツには7つの型があることを発見したのは tumblr だった。そして tombloo はそれを一般化した。extractor はコンテンツの型を抽出する。そして model は post するべきサービスを定義する。世の中にあるコンテンツとサービスは tombloo によって交差する。 tombloo はそれだけにとどまらず囲い込まれ分断されたインターネットの私有地と共有地を軽々と交錯させた。
tombloo は Web の荒野の十字路に立っていた。
穴を塞ぐ
インターネットは常に変化する。そしていつだって穴が空いていてポンコツだ。だから世界を交錯させる tombloo もだいたいいつもポンコツだった。その穴を塞ぐのがこの patch だった。
patch 。addBefore/addAround を介して tombloo 本体を弄ることなく動作を書き換えることが出来た。何人もの人たちがインターネットに空いた穴を塞ぎ続けた。
パッチという存在を知って、なんとか書けそう、Reblog 環境, もっとこうしたい、ああしたいと、 よくわからんパッチばかり書くようになって
1つの処理、1つの区切り、小さな粒
本を読んでたつもりが、好きな単語やフレーズを見つけて満足し、ストーリーはもう頭の中になかった、 そんな Quote みたいな。
via http://polygon-planet-log.blogspot.jp/2013/12/reblog-tombloo-tombfix-adv.html
世界に穴を開けて、世界の穴を塞いでいたのが tombloo だった。
いつか見た未来の話
tombfix が止まった。 tako3 が止まった。LDR も止まった。そして RAC も止まった。もしかしたら自分たちはこの10年、未来に住んでいたのかもしれない。どんなに素晴らしくても、どんなに愛されていても、どんなにクソッタレでも、始まりがあれば終わりがある。皆、人生の穴を塞ぐのに精一杯だ。
ハワイのジョーズで世界一速いスーパービッグウェーブを乗りこなすために、ジェットスキーとストラップで足を固定するイカレたシェイプのサーフボードの組み合わせが発明されたのと、
Tumblrのすげぇークールなdashboardを乗りこなすために、FirefoxとAutoPagerizeとLDRiseとminibufferと未だ見ぬ何かの組み合わせが発明された話をいつか書く.
via http://taizooo.tumblr.com/post/11270200
いつか夢見ていた未来が過去になるなんて想像したことがなかった。10年っていうのはそういう長さだった。
少しだけ未来の話をしたい。
ズルをしない
私たちは皆、ズルをしたい。
サーフィンではズルをする方法は少ない。トウインはそのひとつだが、いまは時代遅れになっている。
トウインサーフィンからはじまり、いまは同じ波へパドリングするようになった。それこそ私たちが向かうべき方向だ。
via http://www.thecleanestline.jp/2014/08/don-of-the-dirtbags-an-interview-with-yvon-chouinard.html
10年前、 reblog を介してインターネットを再発見したときに思い浮かべたのは1990年代にサーフィンやスキー(スノーボード)の世界起きたパラダイムシフトのことだった。それは端的に言うと、テクノロジーが新しい価値観を生み出した瞬間だった。
その象徴の一つだったトゥーイン・サーフィンは、2010年代始めには時代遅れになっていた。
どういう意味かというと、テクノロジー(動力、ジェットスキーやエンジン付きゴムボートとストラップ付きの特殊なシェイプのサーフボード)は、生身の人間(パドリングとドルフィンスルーで大波をくぐり抜けて、動力に頼らずに自力で波にテイクオフすること)に置き換えられていた、ということ。
これは単純にテクノロジーが人間の能力を置き換えてハイ、お終い、ではなく、テクノロジーが切り開いたスペースをそのあと、人間の能力が埋めていった、ということを意味している。これが進化の方向だ。
それこそ私たちが向かうべき方向だ。テクノロジーにではなく
シンプリシティだ。
人生はつねに複雑な方向ではなく、よりシンプルな方向へと向かうべきだ
少しだけテクノロジーの話をしたい。
死神の大鎌
人間とテクノロジーの関係は、技術的特異点とか、人間 vs AI とか、そういう視点になっていて、AI に駆逐される人間、みたいなことになっているけれど、それはちょっと違うかもしれない。テクノロジーが切り開いた地平に人間が進出していくような。 トゥーイン・サーフィンでジェットスキーが切り開いた大波でのライディングが、生身の人間のパドルアウトでのサーフィンに置き換えられたように。
ニコラス・カーの "The Glass Cage" は、テクノロジーによる自動化、機械化の話だ。自動化と呼ぶとき普通は、人間が行う作業を細分化、単純化して抽出してそれらを自動化、機械化することだと思っている。ところが、カーは言う。いや、それだけではなくて、テクノロジーによって人間の行動が自動化される、という意味も含まれている、と。
その最終章「 第9章 湿地の草をなぎ倒す愛」のモチーフは、草刈りと大鎌だった。大鎌は死神の象徴でもある。そういうものだ。
大鎌は神話的存在(例えばクロノス、ヨハネの黙示録の四騎士、死神など)の持つ武器として、しばしば登場する。 これは主にキリスト教の神話的解釈における「魂の収穫者としての死」に由来する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8E%8C
カーはさらに、人間自身が自分の身体を機械によって拡張、延長するということも含まれる、と言っている。それが草刈り、大鎌を使う人の話。草刈りをしているとき、大鎌の刃はまるで人間の手の延長のようになっている。その動作は完全に自動化されている。それはただ単に労働を意味するのではなく、瞑想や、自己満足をも意味していると。
つまり、テクノロジーの象徴である大鎌によって、わたしたちの魂は収穫(救済)されるわけだ。
ポーランドの農夫たちが、ロシア帝国との戦いを前に、大鎌を手に祈りを捧げたように。
救いのため取り憑かれたように、藪だらけの裏山を(穴だらけのインターネットのメタファーです)、ハイパーな刈払機で(原子爆弾的な tombloo のメタファーです)、素敵なシングルトラックを(すげぇークールな dashboard のメタファーです)切り開いたように。
レモネードの話
さて、叔父のアレックスは今天国にいる。彼が人類について発見した不快な点のひとつは、自分が幸せであることにまったく気づかないことだ。彼自身はというと、幸せなときにはそれに気づくことができるようにと全力を尽くしていた。夏の日、わたしたちは林檎の木の木陰でレモネードを飲んでいた。
「これで駄目なら、どうしろって?」
via https://bastei.tumblr.com/post/161060185582
ヴォネガットの「これで駄目なら」は卒業式講演集だ。何回も何回も同じようなモチーフが現れる。本当に重要なことは、何度も何度も目にすることになる。2017年を見てきたような文章が並んでいる。
我々が遥かな昔から夢見てきた未来だ。それがこれだ。わたしたちは未来にいる。どうやってここまできたんだろう?
人類の別の欠点としては、みんなつくりたがるのに、誰もメンテナンスをしようとしないことが挙げられる。
2017年の話
2017年、われわれは tombloo 無き世界を生きることになった。2017年、インターネットはその中立性を危うくしつつある。2017年、デイヴィッド・カープは、Tumblr から離れることとなった。2017年、Apple は iPhone からホームボタンを抹殺した。
2017年、空から降ってくるもののリストに新たにミサイルが追加された。2017年、日経平均が23,000円を25年ぶりに越えた。2017年、ドナルド・トランプは Twitter のアルゴリズムに史上最も最適化された大統領となった。
2017年、気まぐれに再開したランニングは捻挫とギックリ腰をもたらした。2017年、ランニングとひきかえに読書は完全に止まった。2017年、甲府は最終節を前に J1 降格の危機にあった。2017年、願掛けの禁コーヒーの日々は再びやってきた。2017年、とうとう reblog advent calend*e*r が止まった。2017年、畳むべき洗濯物がなかった。2017年、畳むべき洗濯物を畳んだ。
自分が見てきた2017年はこんな感じだった。でも、だからどうしたっていうんだろう。
様々な出来事が無関係に目の前に現れて、唐突に目の前から消えていく。世界との向き合い方について、ヴォネガットはこう言っている。
「二つある」と彼は言った。「まず、宇宙全体をきちんとするなんてことはできないと認めること」
「そうして二番目は、それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ。粘土の塊とか、四角いキャンバスとか、紙切れとか、そうしたものを」
さて、わたしたちは今、未来にいる。そして自分たちが幸せであるかどうかまったくわからない。わたしたちは人生に空いた穴を塞ぐので精一杯だ。でも、わたしたちは10年前と変わらず、終わらない夏のような dashboard の下で、いまだにリブログを繰り返している。延々と。
「これで駄目なら、どうしろって?」
この post は 2017 Advent Calendar 2017 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は shikakun サンです。お楽しみに。