第7級の話。
なぜラインホルト・メスナーの「第7級」にたどり着いたのかというと、"think fast" を読んで、古い、もう忘れられてしまったような本に、大事なことが隠されているのを感じたというのが一つ。「2017年を探す」の「ズルをしない」という姿勢が一番最初に現れたのが、アルピニズムだったらしいというのが一つ。そして「第7級」はメスナーがまだ何者でもなかった頃の話である、というのが一つ。
メスナー「第七級」で、「ズルをしない」という姿勢のことを「フェアプレイ」、「世界で最初」を競うことを「征服アルピニズム」、そしてそれに対峙する姿勢のことを「スポーツ登山」と読んでいる。
「スポーツ登山の目標は、技術のおかげで手に入れた優位を人間が自らの意志で断念しながら、より大きな困難な登攀を目指し努力することにあると思う」
「目的観念や目標設定というものは、結末がどうなるかはっきりしない領域で生まれる」
「もし、人間の技術的優位を自発的に放棄する気持が続く限り、そして、上に向って開かれた難易度がさらに一つ導入されるならば、」
「そうなれば、やがて、初めて永続的な進歩が、原則的には無限の進歩が約束されるのである」
シンプリシティの話。
10年前、 reblog を介してインターネットを再発見したときに思い浮かべたのは1990年代にサーフィンやスキー(スノーボード)の世界起きたパラダイムシフトのことだった。それは端的に言うと、テクノロジーが新しい価値観を生み出した瞬間だった。
その象徴の一つだったトゥーイン・サーフィンは、2010年代始めには時代遅れになっていた。
テクノロジー(動力、ジェットスキーやエンジン付きゴムボートとストラップ付きの特殊なシェイプのサーフボード)は、生身の人間(パドリングとドルフィンスルーで大波をくぐり抜けて、動力に頼らずに自力で波にテイクオフすること)に置き換えられていた。
イヴォン・シュイナードは、
それこそ私たちが向かうべき方向だ。テクノロジーにではなく
シンプリシティだ。
人生はつねに複雑な方向ではなく、よりシンプルな方向へと向かうべきだ
と言っていた。
無補給の話。
tjar 、400km以上を8日間以内で完走するというこのレースで、過去4連覇の望月サンは水以外の全てを担いで完全無補給に挑戦した。
コンペティションにはルールがある。競技者の目的は順位や時間であって、そのためにはルールは最大限に利用されるのが普通である。だがここで望月サンは、ルールでは認められている商店や山小屋での食料や食事の調達を行わない選択をした。
なぜこのような選択をしたのかは、まず tjar というレースが特別であること、
6.TJAR実行委員会
②役割
d.緊急時の一次対応(怪我・事故・遭難等が発生した場合、可能な範囲で一次的な応急処置は行うがそれ以降の対応は一切おこなわない。
◇選手の責任 ◆このレ-スは、参加者自らが自立した登山者として起こり得る全ての悪条件を理解し、レース中に怪我や事故および遭難等のアクシデントが発生しても自らで対処すること。
それから、望月サンがどのような人物であるのか、に関わるようだ。
- 『山物語を紡ぐ人びと』vol.27〜望月将悟さん「#01 消防士、山岳救助隊員として」
- 『山物語を紡ぐ人びと』vol.27〜望月将悟さん「#02 井川生まれ。山の神々に愛された男」
- 日本で一番熱い山男の「常識を超えた挑戦」――望月将悟×田中陽希 対談 #1
- 規格外の山男が語る「人生にチャレンジが必要な理由」――望月将悟×田中陽希 対談 #2
「逆にレースのようにライバルや大会スタッフが近くいると、あまり余分なことを考えないですむからね。選択肢が限られていて、極端に言えば、「進む」か「止める」かだけ」
ズルをしない話。
ズルをしない、というのは、人間の本質に依る話なのではないか
これを一番最初に考えていたとき、「道徳感情論」を読んでいた。「中立な観察者」「共感」。
ズルをしない、という話はあらゆる場所に立ち上がっていて、
LDR がインターネットになにをもたらしたのかというと、Jaws のビッグウェーブを乗りこなすためにジェットスキーがあったように、莫大な量のフィードを読むための機動力をもたらした。LDR 以降、もっとその先へ、先鋭的な方向に進むかとおもった。つまりインターネットの普通の人たちがみな莫大な量のフィードを読んで、炎上とは程遠い、全てがフラットに見渡せる世界
実際には違った。だれもが twitter のタイムラインに流れる URL に依存するようになった
アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う。
「とにかくすべてを見なければならない」「見るからには取捨選択は許されない」ということ,