via https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。
The months and days are the travellers of eternity.
歩くことは読むことであり、読むことは誰かの思考を辿ることです 歩くことで私たちは世界と出会うことができるのです
本を読むことは、自分が実際に過ごしている時間とは別の時間軸を持つことになる。そして、そのスピードを上げたり下げたり、ページを飛ばしたり戻ったりすることで、時間を伸ばしたり縮めたり早送りしたり巻き戻したり出来る。
時間を伸ばしたり縮めたりする例として「歩くこと」を上げている。
ここでいう、時間が伸びたり縮んだりすることの例は、楽しい時間はあっという間にに過ぎて、つらい時間はなかなか進まない、というようなもののことだ。なぜ時間が伸びたり縮んだりするように感じるのか、というのは、自分の意識の向き、方向と関係があるらしい。
なにが違うのか? 歩くとき、僕の意識のほとんどは外の世界に向かっている。でも走るときは、外の世界と同じくらい身体の内面の世界とも向き合うのだ。
ファンク探訪、年初にスティービー・ワンダーを聴いていたんだけども、気がついたらなぜか停滞した感じになっていた。なんというかもう掘り尽くした感じになっていた。でも実は、それは音楽の問題じゃなくて、オレの感受性の問題だったらしい。 そういうわけで、聴く音楽が一気に21世紀になったのと、音楽は綿々と繋がっているのだなあ、ということを実感している。
つい最近まで走るというのは「走る」ために走っている感じだったんだけど、スタジアムまで走って行くようになってから「移動する」ということを考えるようになった。地図の上のある地点からある地点まで移動するということ。その違いは、刹那に生きるのかそれともラインを長く長く繋ぐのか、という生き方にも繋がる(おおげさ)。
今も続いているこの読書の旅はリンクを辿る旅で、その始まりはこの "CODE" の序文から始まったのだった
芭蕉、「おくのほそ道」でリンクをたどるように旅をしている。 芭蕉の旅が古典(歌枕)のリンクをたどる旅だったように、インターネットでリンクをたどることは歩くことに似ていると思う。