この3つの post はゆるく繋がっている。
いつだって思った通りにいかないからこそ生み出せる物語
人生のままならなさを100倍濃縮還元したものが、贔屓の(推しの)サッカークラブをサポートすること、応援することなのは間違いない。その「ままならなさ」といったら想像を絶する。
仮に君が J1 の強豪クラブのサポであったする。であったとしても、そのままならなさは存在する(それは昨年の J1 の順位表と、いま現在の順位表を見比べて想像してみると良いだろう)。ましてや僕が、この街の、この小さなクラブとともに生きる人生のままならなさといったら!
でもこれは「好きとか嫌いとか」の外側の現象なのです。選択の余地はありません。だって人生だから!そしてその「ままならなさ」の積み重ねだけが物語を生み出すのです。そう、あのとき、あの空に掲げた優勝カップだったり、あのとき、あの場所で掴みかけた、そして手のひらからこぼれ落ちた勝ち点1だったり。
それはいつだって思った通りにいかないからこそ生み出される物語だったり、回収されない伏線だったり、その積み重ねだけが歴史を作り出すのだから、一つも見逃さないために、勝っても負けても引き分けても、僕らはスタジアムに向かうのだ
https://x.com/taizooo/status/1917923837628563853
そういった主体性は中毒性があります。特に、人生の他の部分がそれを提供してくれない時は
そんな人生のままならなさをコントロールしたい欲望の話です。それは誰もが等しく持っています。
小さな勝利を切実に求めているからこそ、新しいツールやスクリプトを書くのです。圧倒されているからこそ、新しいツールを書くのです。コードが乱雑だからではなく、自分の人生が乱雑だからこそ、リファクタリングするのです。完璧なシステムを追い求めるのは、他のすべてが混乱している時に、頼れるものを与えてくれるからです。
https://notashelf.dev/posts/curse-of-knowing
僕はプログラマではありませんがかつての Tumblr 生活圏では、いつでもインターネットには穴が開いていて、いつでもなにか( AutoPagerize, LDRize, Tombloo, Reblogcommand, etc... )が動かなくなっていました。ギークやリブロガーやマッドサイエンティストな面々が代わる代わる寄って集ってその穴を塞いでいました。おはようからおはようまで( day and day ) 、おやすみからおやすみまで( night and day )。そこには信じられないほどの熱が充満していました。未完成であるが故の熱量、未熟であるが故の熱狂、みんな愛おしいほどに狂っていた。
それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ
そんな熱狂もいつか熱を冷ましていきます。eval の穴が塞がったり、unsafeWindow が Safety になったり、Web ページが動的に生成されるようになったり。人生がままならないように、世界、社会、インターネットも同じようにままなりません。Twitter に最適化された赤いネクタイの白人男性が米国大統領に再選されるみたいに。
カート・ヴォネガット、その作品のなんともいえない皮肉的なボヤーとした雰囲気と裏腹に、彼は、第二次世界大戦で味方からの爆撃を受け生き死にの境界線を彷徨った人です*1。
ヴォネガットは『これで駄目なら』というは卒業式講演集の「芸術家がすべきこと」で、先生から言われた言葉について話しています。
先生は、以前、わたしにこう訊ねた。「芸術家ってのは何をすると思う」。わたしは何かモゴモゴ答えた。
「二つある」と彼は言った。「まず、宇宙全体をきちんとするなんてことはできないと認めること。そうして二番目は、それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ。粘土の塊とか、四角いキャンバスとか、紙切れとか、そうしたものを」。我々はみんな、今このとき、この場所をきちんとするために、懸命に働いてきた。
人生のままならなさと、ままならなさを受け入れることと、それでもそこにあるほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということの話でした。
それから、
サッカーはあった。甲府 vs 鳥栖 アウェイ 0-0 ドロー。鳥栖には堀米勇輝、今津佑太、松本凪生がいる。今節も左右のウイングバックは右が荒木翔、左が宮崎純真だった。前節とは違って荒木が相手の左ウイングバックのマークに重心があって攻撃の形が見られなかった。ボールはほとんど鳥栖が握っていたけども、甲府の方が得点の匂いはした(贔屓目かもしれない)。アレかコレが決まっていれば。だがしかし、いつだって次の試合が一番大事。
それから、それから、
もうちょっと、なにかあったような気がするけど、
もう何年もランニングで使っている、気合の入った(年季の入った)ベースボールキャップの写真を貼って終わりにします。
*1:ヴォネガットのなんともいえない皮肉的なボヤーとした雰囲気と、伊藤計劃の痛々しいリアルな描写の関係が、片や第二次大戦で味方からの爆撃という生き死にを経験していることと、片やたぶんオレと同じような、つまりヴィデオでみた戦争しか知らない、という環境で生きてきたにすぎないっていうその置かれている状況に反比例しているというのは、なんというか示唆的だなあと感じる。体験しているからこその抽象と知らないからこそのリアルという https://taizooo.tumblr.com/post/147571652045