https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/04/11/151354
次は、なにを読むか。
それが問題だ。
実は、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』に、ジークムント・フロイトの「遮蔽幕の記憶」が出てきたので発作的に2冊、買っている。どちらも『フロイト入門』というタイトルだったりする。中山元と妙木浩之。
「遮蔽幕の記憶」については、それぞれに「遮蔽想起」「隠蔽記憶」という名前で記載がある。でもなにを言っているのかわからない。中山元『フロイト入門』の第2章 2項 「忘却と遮蔽想起」に、こんな図が出てくる。
図1は神経症の発生のメカニズムを示すものだ。これはアンリ・エレンベルガーの『無意識の発見』から採用した図である
この二つの線の関係として三つの状態が考えられる。第一は抑圧する意識の力が大きくて、トラウマTがまったく覆い隠されている状態である。図の(S)は隠された症状を示している。第二はトラウマは大きいものの、それを抑圧する意識の力がそれほど大きくなく、トラウマTが症状Sとして現れている状態である。第三はトラウマが非常に大きく、抑圧する意識の力が小さいために、トラウマTがそのまま現れる状態である。
「意識」と「無意識」。フロイトの重要な思想には「二元論」があるらしい。妙木浩之『フロイト入門』の第2章「科学者としての人生」に「二つの二元論 ― 『隠蔽記憶』論文によせて」というのがある。
だからフロイトは二元論に固執したのだ。外的な刺激に由来する意識の場、そして内的な身体刺激に由来する無意識の場の間に、心身の関連性はある。
この図、下側の「無意識」のラインが、ピエール・バイヤールがいうところの〈内なる図書館〉(〈内なる書物〉)の領域で、上側の「意識」のラインが〈共有図書館〉(〈遮蔽幕の書物〉)の領域ということだろうか。
だとすると、自分からは(他者からは)、他者の(自分の)〈内なる書物〉がそのまま見えることはほぼない。さらには、たとえ自分自身であっても、自分の〈内なる図書館〉を意識的に自覚することはできない、ってことになる。自分でも触れることができない。