copy and destroy

catch and eat

日記の練習です。

山形の空の下で、僕らの誇りを取り返した*1*2

https://twitter.com/vfk_official/status/1768860728176648505
gyazo.com

*1:今週末の良かったこと(遠い空の下で、) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/11/14/174714

*2:エッセル スーパーカップの雪辱を果たしたその4日後、僕らの2023年のシーズンが終わった。画面の向こう側でピッチに膝をつく選手たち。試合終了を告げる笛は聞こえなかった。ときに現実は非情だしワックだ。 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/12/01/000000#%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF

日記の練習です。

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』、自分としてはめずらしいスピードで進んでいるんだけど、

これは、先に『論理哲学論考』をつっかえつっかえ*1*2でも一通り目を通していたことと、

そして、理解してしまった人(野矢サンのこと)が書いた素晴らしく系統立てられた文章をなぞっている*3からなんであって、

なにかを理解したような気になっているけど、ひょっと*4した拍子に一つの字句に「?」がつくと、立ちどころにいままで理解した気になっていたものがガタガタと音を立てて崩れていく。崩れては積み、積んでは崩れる。何回も、何回も。

シーシュポスの岩*5じゃん*6

*1:新明解国語辞典:「つっかえる」支える(つかえる)、閊えるの口語的表現

*2:つかえる - ウィクショナリー日本語版 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%88%E3%82%8B#%E5%8B%95%E8%A9%9E:%E6%94%AF%E3%81%88%E3%82%8B

*3:なぞる - ウィクショナリー日本語版 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9E%E3%82%8B

*4:ひょっと - ウィクショナリー日本語版 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8

*5:シーシュポス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%82%B9#%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%B2%A9

*6:「じゃん」は絹の道から? - ことばマガジン:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2014120500001.html

日記の練習です。

本来だったら scrapbox に残すべきであるようなメモを、そっちではなくてこっちに書き残したい理由がなんなのかよくわからないんだけど、

もしかしたら、書き加え書き加え発展させたい、というよりも、書いて書いて書き捨てたい、そういう理由なのかもしれない。

このことから浮かび上がるのは、成果物としてきちんとしたページが作りたいわけじゃなくて、ただたんに頭の中を整理したいだけなんだと思う。誰かに話して安心するみたいに、チャチャッと〔公開ボタン〕を押してオシマイにしたいみたいな。

まあそもそも twitter とか tumblr とかもそういう役割だったと思うんだよね。自分にとっては。

主語と述語、主辞 "subject" 、賓辞 "predicate" 、繋辞 "copula" 、S-P

日記の練習です。これもメモです*1

野矢茂樹『言語哲学がはじまる』第2章「文の意味の優位性」で、"述語を関数として捉える"といってフレーゲの「関数」(ここではラッセルとの関係で「命題関数」と呼んでいる)が導入されるんだけど、そもそも「述語」とはなんなのか。新明解国語辞典によると

じゅつご【述語】
(1) 「何はどうである」の「どう◁する(なる)」「どうである」に当たる語で、表現主体が取り上げた事柄に関して、その動作・作用や性質・状態などについて何らかの判断を表すもの
⇒主語・客語
(2) 論理学で賓辞・繋辞の総称

ここからのリンクを追うと(新明解国語辞典による)、

ひんじ【賓辞】
(1) 〔論理学で〕ある命題において、主辞について述べられる概念。例、「犬は動物だ」の「動物」の類。
⇒主辞・繋辞
(2) 〔文法で〕客語の称

けいじ【繋辞】
〔説明の言葉の意〕命題の主辞と賓辞とを連結する言葉。例、「時なり」 "Time is money" の太字の部分がそれ。

つまり、「犬は動物だ」の「犬動物」の太字の部分。

しゅじ【主辞】
〔論理学で〕ある命題において、賓辞によって述べられる判断の対象。「犬は動物だ」の「犬」の類。
⇒繋辞・繋辞


賓辞の「賓」は、旺文社漢和辞典によると


(1) まろうど。客人。
(2) 客としてもてなす。
(3) 導く
(4) つらねる(列)。つらなる。
(5) したがう。したがえる。


論理学だとそれぞれ、主辞 "subject" 、賓辞 "predicate" 、繋辞 "copula" らしい。平凡社「世界大百科事典(旧版)」では、

[形式論理学と文法]
そもそも主語・述語とは,形式論理学における命題〈AはBである〉のA(それについて語るところのもの)およびB(Aについて語る事がら)に当たるものを,アリストテレスがそれぞれギリシア語で hypokeimenon, katēgoroumenon と表現したことにさかのぼるという。これが,その後ラテン語でそれぞれ subjectum, praedictum と表現され,論理学および文法の用語としてしだいに定着,今日のヨーロッパ諸言語でも継承され(たとえば英語 subject, predicate ),また他の言語でも用いられるようになり,日本でも主語・述語と訳してきたものである(形式論理学では主辞・賓辞とも,文法では主部・述部とも訳す)。当初のヨーロッパでは論理学と文法は密接な(元来は未分化ともいえる)関係にあり,共通の用語となったのだが,しかし,両者は目標も対象も異なる学問である(文法は今日では言語学の一部として位置づけられている)。

https://kotobank.jp/word/predicate-1247044


渡辺実『日本語史要説』

「もの」を言語化したのがいわゆる主語であり、「こと」を言語化したのがいわゆる述語である。文は主語と述語との結合によって成る、 と言われて来た所以である。文は本当は、こうして描写(これを叙述と呼ぶ) された事態(これを叙述内容と呼ぶ)に対して、話者が自分との関係を決定的に表明すること(これを陳述と呼ぶ)によって成立する。

https://is.muni.cz/el/1421/jaro2016/JAP220/um/Text_3__Watanabe_.pdf

主述両項を結合統一する統合点とでも言うべきものは、「もの」と「こと」との間にある理屈であり、論理学はそれを繋辞と呼び、主語の表わす概念を主辞、述語の表わす概念を賓辞と呼び、主辞と賓辞とが繋辞(コピュラ)によって結合統一されることで表わされる内容を判断、それを言語的に表わしたものを命題と呼ぶのだが、主賓・繫の三辞がきれいに姿を現わすのは、英語で言えば "A is B." ( I am a student. )

https://is.muni.cz/el/1421/jaro2016/JAP220/um/Text_3__Watanabe_.pdf

論理学でいうと S-P

日記の練習です。

最寄りのテキストエリア*1へ、という感じ。面倒なので。あとでなんとかする(予定は未定)。

日本語版(野矢茂樹 訳)

2.01231
対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかしその内的な性質のすべてを捉えなければならない。

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』第3章 「対象に至る方法」 p53

2.01231
対象を捉えるために、たしかに私はその対象の性質を捉える必要はない。しかしその対象の持つ論理形式のすべてを捉えなければならない。

対象 = オブジェクト
外的な性質 = 性質
内的な性質 = 論理形式 = プロパティ
オブジェクト、プロパティ、というキーワードからオブジェクト指向が透けて見えてくる。直接的な関連はない。ないけれど似てる。似てるからイメージが湧く。

German text (original)
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p2.01231GER

2.01231
Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht seine externen – aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.

Ogden/Ramsey translation
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p2.01231OGD

2.01231
In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities.

Pears/McGuinness translation
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p2.01231PM

2.01231
If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its internal properties.

野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』第3章 「これでラッセルのパラドクスは解決する」 p91

ウィトゲンシュタインの関数は論理形式の解明のために工夫された手段であり、あくまで言語の中でのみ働く。定義域はポチやミケという対象ではなく、「ポチ」や「ミケ」、つまり名である。そして値域は真偽ではなく「ポチ - 白い」といった命題とされる。それはラッセル的な言語表現の意味内容ではなく「ポチ - 白い」という言語表現そのものにほかならない

「x - 白い」という関数
「ポチ - y」という関数
命題関数

ウィトゲンシュタインは関数を徹底的にノミナルに捉えるのである。

ノミナル、 Nominal、名目上、名義上

これは日記の練習です。

https://lopnor.hatenadiary.org/entry/20070617/1182083656

僕らは2週間に一度、ミサに行く ようなもんだとおもうよ。勝ったとか負けたとか、そんなことより、

前の試合から今日まで、こんなことがありました、こんな嬉しいことがありました、こんな悔いがあります、そういう告白をして、反省をして、場合によっちゃ元気をもらって、また次の一区切り(来週なのかもしれないし、すぐ次の水曜日なのかもしれないし)をがんばろう、とおもう。そういうことの繰り返しだと思う

毎年、貼っているんだけど、貼るのを忘れてた。だから今日、貼っておく。初心忘るべからず。そして、最後に笑うのはオレたちだ。

今週末の良かったこと(ホーム開幕戦、やっぱり小瀬は最高という話と、新しいのものと古いのものを一緒に並べなきゃいけない話)

土曜日、ホーム開幕戦。待ちに待った小瀬である*1

いつも通りのバックスタンド。正面のメインスタンドの向こう側に連なる南アルプス、空、ピッチの緑。スタンドを埋める、あんな人、こんな人、そんな人、人、ひと、ヒト。鳴らす手拍子、響くチャント、躍動する選手たち。国立競技場も最高だったけど、やっぱり小瀬が一番だ*2

gyazo.com

甲府 vs 栃木 1-2 敗戦。

このなんとも言えない気分も含めてサッカーが帰って来た。いつも通り負け試合ではスタンドから即撤退するお気軽なバクスタ住人なのだが、まああれだ、勝っても負けても引き分けても、いつだって次の試合が一番大事。来週末はアウェイ山形戦、昨シーズンのリベンジを果たさないとなりません。がんばりましょう、がんばります。


今週末は、いろいろと事情があり走れなかった。当然、裏山もなし。残念。そういうときもある。


読書はちょっと進展があった。停滞していた読みかけを放っておいて*3野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』を読み始めた*4。この本は簡単に言えばガイドブックだ。


ことの発端は、野矢茂樹『語りえぬものを語る』を本屋で立ち読みしたことだったのだ*5。この本は野矢サンが「語りえぬもの」*6について縦横無尽に思いを巡らしているものでビギナーでワナビーな自分には、そこに知りたいことがありそうなこと、そしてそれがとても面白そうなことがわかっても、内容については全然ついて行けなかった。


ということで、野矢サンが書いているもう一冊の新書『言語哲学がはじまる』を読み始めたのが1月*7。この本は20世紀に哲学で起こった「言語論的転回」という現象を、「ミケは猫だ」「ミケが寝ている」「猫が寝ている」「猫が富士山に登った」といった「ふつうの文」を中心に据えて、ゴットロープ・フレーゲ、バートランド・ラッセル、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインへと順番に繋いでいく。

こちら*8もその軸足はウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の上に置かれているんだけど、あちら*9が猛烈なスピードであっちこっちに移動し続けているのと比べると、こちら*10は一つ一つトントントンと飛び移っていくような感じで少しは歯が立ちそうな気がした。


わかったようなわからなかったような読了のあと*11、つぎ読むならやっぱ原典だろ、ということで『論理哲学論考』を読み始めた*12。予想通りやっぱり歯が立たない*13。そんな流れで『「論理哲学論考」を読む』に手を出したというわけ*14。我ながらあまりにも執着し過ぎではないか、ウィトゲンシュタインを追いかけているというよりも、野矢茂樹という人の考え方を追いかけているんではないか、なんてちょっと躊躇したのは正直なところだ。まあしょうがない、ここまで来たら、行けるところまで行ってみよう、というのが今の状況です。


次の二つの引用、これ厳密には今週末じゃなくて今日、月曜日に見つけた文章なんだけど、これは今日書いたこの文章に繋がる気がするのでここに記しておく。

新しいのものと古いのものを一緒の演奏会で並べなきゃいけないんです。

https://freudemedia.com/interview/musashibabaone

それは、古い音楽の聴衆からしてみたら自分たちの理解を超えるもので、一番新しいものを聴きたいと思っている人たちにとっては古いものです

https://freudemedia.com/interview/musashibabatwo

この話は「音楽」なんだけど、まさに自分がいま追いかけているこの「哲学」の話も同じ視点の中にあって。この「言語哲学」とか「分析哲学」と呼ばれるものは、長い長い哲学史のなかでは「現代」なんだけど、21世紀に生きている僕たちにとっては「100年前」の出来事でまさに、一方から見るととても「新しいもの」で、もう一方から見るとすごく「古いもの」だったりする。長いこと20世紀に執着しているんだけど、ずっとこういう視点のなかでウロウロしているような気がする。

*1:めちゃめちゃ北西の風で半端なく寒かった

*2:最高 of 最高

*3:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/08/153558

*4:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/09/101950

*5:アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』の「自然に切れ目を入れる」という言葉と、この『語りえぬものを語る』の「分節化されている世界」という言葉が繋がったことが、ことの発端だった https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/12/18/174446

*6:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、一番最後の断章、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」から来ている

*7:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/26/094103

*8:『言語哲学がはじまる』

*9:『語りえぬものを語る』

*10:『言語哲学がはじまる』

*11:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/31/182036

*12:今週末の良かったこと(ヘトヘトからの東京観光、雨を避けて走る) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/05/131811

*13:日記の本番 2024/02 - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/06/112258

*14:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/01/143726

日記の練習です。

ホーム開幕戦の朝です。あけましてーーおめでとうございますーーー

甲府盆地は冷たく強い北西の風が吹いています。どピーカン、真っ青な空ですが寒い、寒すぎる。

日記の練習です。

< 以下、略> *1 なんて昨日書いていたけど、こういうことを書く時はお気づきの通り、なにかに突っかかっているときで、読書でいったらチェイス・レン『真理』が停滞しているのと、身体を動かすことでいったら今週末はなんやかんやで裏山には入れないことが確定しててちょっと落胆していることだったりする。

さて、チェイス・レン『真理』である。たぶんこれを読むには時期尚早だったのだ、ということと、

*2「真理の認識説」という章の中で、「真理のプラグマティズム」のへの反論を述べていて、イヤイヤ、ここで述べられている「真理」を巡るあなた達*3の営み、それ自体がここで言っているプラグマティックな「真理の探求」に見えるのだが、ということだったり、

「哲学」で扱われている考え方には大きく二つの形・姿があるような気がしていて、一つはあまりにもテクニカルで概念を弄って弄って弄り倒して拡張していく姿勢に見えて、もう一つはこの世界とはいったいなんなのだろうと掘って掘って掘りまくる姿勢で、この本は前者に見える*4ということ。

まあそうは言っても読むんだけど。

*1:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/03/07/182305

*2:この本ではまず最初に、「真理」とはなにか、客観的な「真理」とは、「真理」の価値、という「真理」についての基本的な考え方を示して、そのあと「真理」について主要な考え方をひとつずつ取り上げながら、それについての利点、欠点、そしてその概念の見込み(査定)を評価するという流れになっているんだけど、

*3:つまり哲学者たち

*4:理解が十分じゃないからレベルがそこまで達していないから、そういうふうに見える、ということはあるかもしれない

日記の練習です。

僕の読書は読了とかスピードとか冊数から自由であるのと同時に、習得することとか理解することとか同意することからも自由なので、時間さえ許せばいくらでも時間をかけても良いし、あとちょっとで読み終わる寸前に読むのを放棄しても良いし、そういう自由さがある。

これはランニングにおいても同じで、<以下、略>

日記の練習です。

昨日の雨は夕方から雪になって帰宅しようとしたら駐車場でクルマは白いかたまりになっていた。帰り道、雪は前が見えなくらい降りしきっていて結局、深夜すぎまで降り続いた。ということで今朝は5時起きで雪かきして、10分遅れて出発して10分遅れて出社、そのまま再び小一時間の雪かきだったので、今日はもう帰りたい。南岸低気圧こわい。金曜日にまたやって来るらしい。

日記の本番 2024/02

これは2024年2月の日記の本番です。

2月、いつも通りのタイミングで花粉症が始まった。

2月、デカいバックパックを使うようになった。たくさんの本を持ち歩くようになった。積読山脈は移動するようになった。

2月、アクティビティ・トラッカーを Amazon のカートに入れたり出したりしていたが、ハッと我に返って返す刀で大量の本を積読山脈を積み増した*1

2月、月への着陸に成功した小さな探査機*2は、過酷な月の夜を乗り越えて再起動に成功した。月の一日は地球の4週間だった。


2月、僕らの ACL 冒険の旅が終わった*3。喪失感はあった。そして昨年末に書いた文章(心の中では「エッセルスーパーカップの話」と呼んでいる*4 )を読み返してみたりなんかした。センチメンタルというかなんというか、この気持ちをなんと呼べばいいのだろう。

この旅について今、決定的ななにかを書くことも出来るだろうし、いま書かないと忘れてしまうこともあるだろう、とは思うけど、それがこのタイミングだとは思えない。いまは終わったことを思うよりこれから始まることを考えたい。そんな気分。

勝っても負けても引き分けても、いつだって次の試合が一番大事。ということで2024年のシーズンが始まった。J2 開幕。予感がする。今度の旅もきっとすごいよ。

この強度、この記憶、この感情、全部このまま持っていくぞ*5


そんなわけで、いつもより全然早く、昨年12月に書いた文章を読み返したりなんかしたんだけど、思ったわけです。「こんな文章もう書けない」。たった3ヶ月しか経っていないのに。そう思う理由はいろいろあるけれど、決定的な感想は「この文章はウィトゲンシュタイン以前の文章だ」。

ウィトゲンシュタインを原点にとると世界の見方は、ウィトゲンシュタイン以前、ウィトゲンシュタイン自身、ウィトゲンシュタイン以降の三つに区分される。


2月、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を発見してからこっち、もう世界は全然違う形になっている*6

クラシカル・ミュージックを掘るようになったときにも世界が開けるような経験をしていて、まず最初がグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲、その次が Mode Records のジョン・ケージを全部聴く、っていうのをやったとき。

ジョン・ケージを原点にとると世界の音楽は、ジョン・ケージ以前、ジョン・ケージ自身、ジョン・ケージ以降の三つに区分される*7


この旅は、読書を取り戻すために右往左往していた2023年から始まっていて、まず最初がアルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』*8。その次が、全然違う用事で東京に出かけたのになぜか握りしめて帰ってきた、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』*9

ここには、これまで自分がこだわってきた「もの」*10に関わる「ぶっとい何か」*11が埋まっているような気がする、という感覚と、

まだ全然理解が追いついていないんだけど、これまで自分が追ってきた歴史の流れがなぜかこの辺りに流れ込んでいることだったり*12、ここからの連なりが数学や統計や文学や言葉やそれどころか果てはコンピュータやインターネットや AI にまで流れ込んでいることだったりする*13


ここまで書いてみて「これは絶対に誤解を招く書き方だな」と思うんだけどここで言いたいのは、「ウィトゲンシュタインを崇め奉っている」というよりも「これはいかようにでも切り刻んで好きに遊べる楽しい何かだ」という感覚に近い。そういう感じ。そう思わされたのは実は『論理哲学論考』のその文章のスタイルだったりする。短い文章を畳み掛けるように積み重ねていくそのやり方。

1 世界は成立していることがらの総体である。
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.
1.1 Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.

https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p1GER

gyazo.com

Dive Into Philosophy*14

見つけたからには掘るんだろうな。私からは以上です。

*1:Wishlist じゃなくて物理的な積読山脈

*2:SLIM

*3:これは終わりの話でもあり、そしてまた始まりの話でもある - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/22/092245

*4:FUJIFILM SUPER CUP とエッセル スーパーカップ https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2023/12/01/000000#FUJIFILM-SUPER-CUP-%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97

*5:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/29/094914

*6:少し、いやかなり誇張しています

*7:https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2020/12/01/000000#14

*8:アリストテレス, 生物学の創造 の検索結果 - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9+%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%89%B5%E9%80%A0

*9:今週末の良かったこと(ヘトヘトからの東京観光、雨を避けて走る) - copy and destroy https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/02/05/131811

*10:哲学的には事物とか実体とか事実とかいいたくなる

*11:音楽的にはドープとかファットとかシットとかいいたくなる

*12:それは20世紀初頭、二つの大戦の狭間というのはそういう時代だったのだ、ということと、ウィトゲンシュタイン自身もそういう流れを乗りこなしていたビッグウェーバーの一人だったのだ、ということなんだと思う

*13:それはプラトン、アリストテレスから連なっていて、アクィナス、ちょっと端折って、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、そして現在へと、分析哲学、言語哲学、科学、論理学、数学と姿を変えて、巨大な濁流となって僕らを轟轟と絡め取っていく

*14:Dive Into Greasemonkey

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