これは2024年2月の日記の本番です。
2月、いつも通りのタイミングで花粉症が始まった。
2月、デカいバックパックを使うようになった。たくさんの本を持ち歩くようになった。積読山脈は移動するようになった。
2月、アクティビティ・トラッカーを Amazon のカートに入れたり出したりしていたが、ハッと我に返って返す刀で大量の本を積読山脈を積み増した*1。
2月、月への着陸に成功した小さな探査機*2は、過酷な月の夜を乗り越えて再起動に成功した。月の一日は地球の4週間だった。
2月、僕らの ACL 冒険の旅が終わった*3。喪失感はあった。そして昨年末に書いた文章(心の中では「エッセルスーパーカップの話」と呼んでいる*4 )を読み返してみたりなんかした。センチメンタルというかなんというか、この気持ちをなんと呼べばいいのだろう。
この旅について今、決定的ななにかを書くことも出来るだろうし、いま書かないと忘れてしまうこともあるだろう、とは思うけど、それがこのタイミングだとは思えない。いまは終わったことを思うよりこれから始まることを考えたい。そんな気分。
勝っても負けても引き分けても、いつだって次の試合が一番大事。ということで2024年のシーズンが始まった。J2 開幕。予感がする。今度の旅もきっとすごいよ。
この強度、この記憶、この感情、全部このまま持っていくぞ*5。
そんなわけで、いつもより全然早く、昨年12月に書いた文章を読み返したりなんかしたんだけど、思ったわけです。「こんな文章もう書けない」。たった3ヶ月しか経っていないのに。そう思う理由はいろいろあるけれど、決定的な感想は「この文章はウィトゲンシュタイン以前の文章だ」。
ウィトゲンシュタインを原点にとると世界の見方は、ウィトゲンシュタイン以前、ウィトゲンシュタイン自身、ウィトゲンシュタイン以降の三つに区分される。
2月、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を発見してからこっち、もう世界は全然違う形になっている*6。
クラシカル・ミュージックを掘るようになったときにも世界が開けるような経験をしていて、まず最初がグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲、その次が Mode Records のジョン・ケージを全部聴く、っていうのをやったとき。
ジョン・ケージを原点にとると世界の音楽は、ジョン・ケージ以前、ジョン・ケージ自身、ジョン・ケージ以降の三つに区分される*7。
この旅は、読書を取り戻すために右往左往していた2023年から始まっていて、まず最初がアルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』*8。その次が、全然違う用事で東京に出かけたのになぜか握りしめて帰ってきた、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』*9。
ここには、これまで自分がこだわってきた「もの」*10に関わる「ぶっとい何か」*11が埋まっているような気がする、という感覚と、
まだ全然理解が追いついていないんだけど、これまで自分が追ってきた歴史の流れがなぜかこの辺りに流れ込んでいることだったり*12、ここからの連なりが数学や統計や文学や言葉やそれどころか果てはコンピュータやインターネットや AI にまで流れ込んでいることだったりする*13。
ここまで書いてみて「これは絶対に誤解を招く書き方だな」と思うんだけどここで言いたいのは、「ウィトゲンシュタインを崇め奉っている」というよりも「これはいかようにでも切り刻んで好きに遊べる楽しい何かだ」という感覚に近い。そういう感じ。そう思わされたのは実は『論理哲学論考』のその文章のスタイルだったりする。短い文章を畳み掛けるように積み重ねていくそのやり方。
1 世界は成立していることがらの総体である。
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.
1.1 Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.
https://people.umass.edu/klement/tlp/tlp-hyperlinked.html#p1GER
gyazo.com
Dive Into Philosophy*14
見つけたからには掘るんだろうな。私からは以上です。