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今週末の良かったこと(刹那通り過ぎるジョン・ロールズ、延々と螺旋を描いている話)

一瞬だけ通り過ぎたジョン・ロールズ

『正義論』をヨタヨタと読んでいる。結局、図書館で借りてきた。

読み始めた直接のきっかけは、朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』を読んだからなんだけど、なぜこの驚異的に分厚いなにが書かれているのか全然わからない本に、こんなに執着しているのかというと、

春先から嵌まっていたイアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』、写経するように読んでいたパート A 「観念の全盛期」の中で一回だけジョン・ロールズが出てくるシーンがあった。

現代の経験主義的哲学は、く精神的言説と公共的言説の関係の理論を締め出し放り出したが、個人と国家の関係の理論についてはジョン・ロールズ『正義論』に見られるごとく、いまだにしっかりと保持しているのである

『言語はなぜ哲学の問題になるのか』第2章「トマス・ホッブズの精神的言説」

話をうんと端折る。(正確かどうかもわからないけども、)

現代では、「精神的な言説」などというものは存在しなくて、存在するのは「公共的な言説」(つまり「最初に言葉ありき」という意味で、世界に先立って「言葉」がある)である、と考えられている。

「観念の全盛期」では、誰もが「精神的な言説」によって各人の中に「観念」が存在していて、これこそが「世界」を表象すると考えられていた。「公共的な言説」なんていうものは「精神的な言説」にまとわりついている埃のようなものだった。

現代では「観念の全盛期」のこの考えを遥か彼方に放っぽりだしてしまった。

ところが現代においても、個人と国家の間の関係は、「観念の全盛期」から変わらずに、

個人は国家に先立って構成されており、国家は個人の必要と彼らが結ぶ契約ということによって、はじめて意味をもち、またその強制力を発揮する

『言語はなぜ哲学の問題になるのか』第2章「トマス・ホッブズの精神的言説」

と、考えられている。ジョン・ロールズどころか僕らも、トマス・ホッブズを継承している。個人が国家に先立っている。なんの違和感もない。

ここで「国家」とか「政治」というと、ちょっと身構えてしまうけども、『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』によると、それはもっと足元の僕らの生活しているこの「場」、「社会」、もっというと「インターネット」の話だったりする。

gyazo.com

一瞬だけ見かけたジョン・ロールズ

このはてなブログで検索すると、2021年にトマ・ピケティ『21世紀の資本』を読了する寸前に、ジョン・ロールズを一瞬だけ見かけていたらしい*1

米国の独立宣言(1776年)は、万人が幸福の追求について平等な権利を持つと主張している。

今週末の良かったこと (人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける)

フランス人権宣言(1789年)第1条もまた「人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける」と宣言する。でもこの一節の直後には次の宣言がある。 「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」。これは重要な追加だ。最初の文で絶対的な平等の原理を主張しているのに、この二番目の文はきわめて本物の格差の存在に言及している。

今週末の良かったこと (人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける)

裕差が認められるのは、それが「共同の利益」に基づく場合のみ、というのだ。すると「共同の利益」を定義する作業が残る。人権宣言の起草者たちは主にアンシャン・レジーム期の階級や特権の廃止を念頭においていた。これは当時、恣意的で無益な不平等性をまさに体現するものと思われていた。つまりそれは「共同の利益」に貢献していないものと思われていた。

今週末の良かったこと (人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける)

でもこの用語をもっと広く解釈することもできる。ひとつの解釈として考えられるのは、社会的不平等が容認できるのは、それが万人の利益になるとき、特に最も恵まれない社会集団の利益にかなうときだけ、というものだ。したがって基本的人権や物質的な利得は、最も権利や機会の少ない人の利益にかなうかぎり、できるだけ万人に拡大すべきだということになる。

今週末の良かったこと (人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける)

米国の哲学者ジョン·ロールズが『正義論』で持ち出した「格差原理」も似たような意図を持つ。そしてインド人経済学者アマルティア·センお気に入りの「ケイパビリティ」アプローチもまた、基本的な論理の点ではそんなにちがうものではない。

今週末の良かったこと (人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける)

憲法が気になっているのも、岩波ジュニア新書『幸せのための経済学』をすでにキンドルで落としてきていたのも、前にプラグマティズムに嵌まっていたのも、みんな繋がっていたみたい。似たようなルートを違うルートから辿っている。結局同じ場所にいるみたい。でも延々(永遠と)と螺旋を描いて来ているので、元いた場所とは全然違う場所にも見える。

さらっと一瞬現れる〈自分自身には価値があるという感覚〉という財

ロールズ『正義論』、政治の話だと思ってたけど、読んでみると「正義」の意味するところの一つは富の分配というかそういう平等、不平等の話なので(正義の第二原理)、ああそうか、これは経済の話でもあるんだな、という理解がありました(というか発見した。いま)

https://x.com/taizooo/status/1844641639807279471

ロールズ『正義論』、分配されるのは富*だけ*ではなくて、それは「社会的基本財」と呼ばれていて、「権利」「自由」「機会」そして「所得と富」(あと、きわめて重要な基本財として〈自分自身には価値があるという感覚〉)

https://x.com/taizooo/status/1845104143033352568

社会的基本財、つまり社会が成り立つための基本となる財産としての〈自分自身には価値があるという感覚〉。『正義論』だとずっと後のほうで取り扱われるらしいのでたどり着けるかわからないけど、これってすごい一文では?

*1:第13章「21世紀の社会国家」 現代の所得再分配——権利の論理

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