続・人間というのはオーバーワークする生き物
先週末、腰痛にも関わらず走っていて、そのあとそこそこ治ってきた感じだったんだけど、水曜日に軽く反対側の腰をやってしまった。これまでの人生での経験、技術の粋を集めてケアして週末はまたそこそこ動けるまで回復した。土曜日にフラットを1時間、裏山の入口あたりをゆるゆると1時間、そして歩いて帰ってきて合計2時間半くらい。軽く昼寝して夕方、ママチャリに乗って小瀬詣(サッカー観戦)に行くことになるんだけど、土曜日がこのように輝かしかったのと対象的に、日曜日はなにもせずにゴロゴロと過ごした。
特にどこかが痛んだわけではなくてとにかく全然気力がなかったので、梅雨入りして天気を病んだか、腰痛のリカバリーに思った以上に体力を使っていて疲れ切ってしまったのか、はたまた小瀬での敗戦が相当に応えたのか、またはその全部か、といった感じで、結局のところ全然懲りていなかった。
ランニングっぽい運動をしていると、インターネットには誰かの輝かしい日々のフィットネスの記録や、時代の最先端のフィットネス理論が流れてきたりするんだけど、十分いいオッサンで、フルタイム・リクリエーション・ランナーにとっては、ちょっと練習不足でやる気だけはあってとにかく走りたい、みたいな頃合いが最も適切な状態だったりする。
ちょっとなにかが不足していて、欲望の方がちょっと勝っている。いつでもこの頃合いを維持する、というのがとても難しい。それを「中庸」というのかもしれない。
バークリー、『観念論の教室』、「世界を記号として見る」
イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』が「観念論」についてなので、ずっと17世紀あたりをウロウロしている。土曜日、伊藤邦武『物語 哲学の歴史』のデカルトからカントまでを読み終わった。
そして、前々から気になっていた冨田恭彦『観念論の教室』を買った。一瞬で空から降ってくる。『観念論の教室』はジョージ・バークリーの観念論についての本で、その前提として、デカルトやロックの観念論についても説明がある。
冨田恭彦サンは「19歳の頃、僕は数カ月間、熱狂的な観念論者だった」と、あとがきに書いている。いま現在このミステリアスでエキゾチックで魅惑的な「観念論」にやられているオッサンである僕は、そこにメッチャ共感した。
当てずっぽうに掴んだ事柄を並べておく。
- デカルトはプラトンのイデアを大幅に書き換えた
- デカルトは「観念」を神から人間に引き下ろした
- バークリーは「視覚」から得られる記号(文字じゃなくて、目に見えるもの)を「神からの言葉」とみなした。それは「世界を記号として見る」ことである
『観念論の教室』のあとがきにはプラトンとアリストテレスについての新書が並んで置かれていた。そして、積読山脈の中にデカルトとヒュームがあった。こうやって積読山脈がまるまると膨れ上がっていく。
青色のマーカー
キンドルは流し見するのに良い。モニターで文章を読むと眼が泳ぐんだけど、流し見するにはうってつけ。あまり執着しないでどんどんページがめくれる。
それから単語で検索できるのが良い。目についた単語で本を検索するとその数量でその単語が重要なキーワードかどうかの見当がつく。青色のマーカーで塗りつぶす、というのがマイルールになっている。
マークした単語は「視覚」「顕微鏡」「記号」とか。