copy and destroy

catch and eat

今週末の良かったこと

桜開花

この週末、最低気温は3℃とかだったけども最高気温は24℃とかで温度差が20℃以上あった。桜はだいぶ早く開花した。

オフ・ウィーク (2020 week-13)


適当に身体を動かす活動、今週はオフ・ウィーク。オフ・ウィークの定義は以下の通りです。

  • オフ・ウィークとは「ケガをして身体を動かせないとき」を仮想的に再現する、と定義する
  • つまり「ケガをする前にケガしたつもりで休んでろ」を意味する
  • リハビリテーションではなくプレハビリテーション

適当に身体を動かす活動、週次で記録を取っているんだけども、いろいろな経緯で金曜日始まりになっている。2020 week-13 は3/20金曜日から3/26木曜日まで。2:4 のサイクルを回している。2週イージーに、4週ハードに。イージーは前払い。

自分みたいなリクレーション・ランナーでも簡単にオーバーワークになる。人間というのはそういう生き物らしい。ほっとけばどこかを痛めて回復するのに1ヶ月とかかかる。例えば腰とか膝とかアキレス腱とか。オッサンだから。

先々週(2020 week-11)、いろいろでちょっと不調に陥ってて3日くらい身体を動かさなかった。ショート・ブレイク。そのおかげか先週(2020 week-12)はすこぶる調子が良かった。エビデンスによると5日のブレイク(ただし日常生活を送るレベルでのアクティビティはあるとする)では、能力の低下はほとんど見られないそうだ。そして、マフェトンはワークアウトとリカバリーの組み合わせをトレーニングと呼ぶ、といっている

で、じつをいうとこのオフ・ウィークというのがまるで夏休みみたいな気分なのである。いつものルーチンを守らなくてイイとか、どれをどのくらいやればいいかとか考えなくてイイというだけでとても自由な気分になれるのだ。オッサンなのに。

意志力の話

  1. 意志力の量には限りがあり,それは使うことで消耗する
  2. すべての行動に用いられる意志力の出どころは1つである

たまに「疲れた…夕飯作るの無理…」といいながら作る、ということになるんだけど、これ疲れで判断力が極度に落ちて、献立や段取りを組めなくなっている状態。買ってきたら?とか出前とったら?という提案がここで来ると、判断しなきゃいけないことが増えてパンクする。

朝の時点で決めちゃうと楽なのかな。今日は作らない!ってだけで救われる気がする! 今日は出前でも取ろう。

例えば「夕食、毎週木曜日は作らない」って決めると継続的に意志力の余剰が生まれて、生活の質が高まる可能性がありますよねー :)

積読を崩す

今週は適当に身体を動かす活動、オフ・ウィークなので、適当にダラダラして適当に全力で積読崩す

崩さずに積み上げているともいえる。

使用前:

使用後:

新しく買った本は、カバーを外す、気に入ったページの右上の耳を折る、という儀式

あまりに旬なトピックスに飛びついているので、気持ち持っていかれてオカシイ感じにならないように注意したい。日曜日の夜、その気配はあった。たぶんもう大丈夫。前に読んだ、ジョナサン・ワイヤー「フィンチの嘴」とマクニール「疫病と世界史」の最後の章だけちょっと読み返した。

「疫病と世界史」とか読んでたのに、まさか本当にこういうことが起こるなんて考えたことなかったな。「フィンチの嘴」とか読んでたのに、まさか本当に人類に淘汰圧が掛かるなんて考えたことなかったな

マクニールもピーター・グラントとローズマリー・グラントも、まさか人類にこんな形で自然選択の力が働くなんて思っていなかっただろうな。行動変容は起きる。それは歴史が証明している。ただそれがオーバーシュートの前なのか、後なのか、それだけの話しだ。

今週末の良かったこと

せとか

この冬はどれだけミカンとか柑橘類を食べたかわからない。せとか、いよいよ終わりを迎えつつあって、はねだしもの。

彼岸桜

公園の彼岸桜は八分咲き。一週間くらい早い。

読書

サッカーが始まらないから頭にキテ、金曜日、仕事帰りに雑誌を二冊買って帰ってきた。

思いのほか面白くて、で、土曜日の天気が雨で走らなかったので本屋へ行った。そして新たに積読が追加された。

片方はサッカーで「戦術的ピリオダイゼーション」というか「ゲームモデル」の話。
こちらのキーワードは「言語化」と「視覚化」。

もう一方は野球で「セイバーメトリクス」というか「マネーボール」のその後というか「数値化からこぼれ落ちるものを拾う」みたいな感じ。
で、こちらのキーワードは「成長マインドセット」。

視覚化と言語化

「2019年を探す」のバック・トゥ・ザ・フューチャーのところで書いたんだけど、 VHS の普及によってスケートボードの世界ではトリックのレベルが上がって、コミュニティーの連携が深まった、というのがある。「視覚化」の話。

1980年代、スケートボードは何回目かの死を迎えていた。忘却と再生というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。ブームの終焉とともにスケートパークを失った彼らはその場をストリートに求める。新しい兆しはいつでも、ぶっ壊れている中から生まれる。当時、スケート・シーンはアメリカの各地に分断されていた。それをかろうじて繋ぎ合わせていたのはスケート雑誌の写真と記事。動かない写真からトリックやムーブを想像する。想像力だけがものをいった。

1985年、バック・トゥ・ザ・フューチャーが公開される。ハレルヤ。マーティ・マクフライはキックスクーターのハンドルを取っ払って街を駆け抜ける。ほどなくしてスケート・ムービーの時代がやって来る。

そのムーブメントはいまだに止まっていなくて、あらゆる分野に広がっているんだけど、

いまの子たち(短距離)の雰囲気ですが、スマホやタブレットの映像を上手に使ったりトップ選手の youtube をリピートしたり、イメージと感覚と実際を凄いスピードですり合わせてる感じがあります

それはもう息をするように

で、外から見た形の話と、意識的無意識的な動きの話は、われわれの感覚と違って、あまり区別が明確ではないみたいな。あえて言語化が必要な閾値が上がっているというか、

また一方で、こんな話もある。「言語化」の話。

スイミング界隈の人と話したんだけど、いまは間違いなく競技者、コーチ、場合によっては観客も(つまりファンとかサポータも)、身体性について言語化のレベルが上がっていて、そういうことが競技レベル向上に繋がっている。間違いない、って話でした。

「視覚化」と「言語化」というのは相反するものではなくて、直交している2つの軸だったりする。それは X-Y 平面を構成する。ベクトルはその2つの合成によって決まる。

理論と実践、分断と融合

人類は電磁気学もなにも知らないうちに電信線で大西洋をつないだ。一番最初に莫大な費用をつぎ込んだ電信線はわずか数時間の通信で解けてしまった。科学は工学を後追いしている。このことを忘れてはいけないと思う。 実践が理論に先行する。

ベスト・オブ・ザ・イヤーのアドベント・カレンダーをやるようになってインターネットの人、コードの人、アートの人、アクティビティの人、いろいろな人がいるのを知った。面白いと思うのは、カッコイイ人たちはみんな、息をするように「実践」しているということ。

で、このときに抵抗というか反作用というか逆向きに働く力みたいなのがあって、それは分断や対立を呼ぶようなもの言いだったり態度だったりする。それは無自覚だったり、無邪気だったりする。

多様性を重んじますが。その多様性をカテゴライズ、ラベルに紐づけて、世界を分断、対立させていく動きには断固として立ち向かわなければいけない

インターネットを守るために

覚悟

先週、じつは体調が整わなくて、「適当に身体を動かす活動」滞った。月曜日、火曜日、水曜日とノラリクラリとやり過ごして木曜日にリカバリーに成功した。いままでだとわざわざ心と身体に負荷をかけてドツボにハマるパターンだったろうと思うけど、少しは成長していて(皆さんに朗報です! オッサンであっても成長可能)、そういったことに対処できるようになった。全然余裕ではない。必死にバランスをとっている。一生懸命。生活するっていうのはそういうことなんだろう。

人間というのは感情や気分に大きく影響を受けている。そういうストレスとかを甘くみちゃいけないし、自分自身にはやさしくしてあげないといけない。

covid-19 なんとなくわかってきたことが増えてきて、ちょっとはマシなパターンも、ウゲっという最悪なパターンも見えてきた。でもそれよりもこれを受け入れる覚悟が出てきた気がする。それは「慣れた」ということかもしれない。もしくは「飽きた」。

日常っていうのはたとえ戦争がドンパチ始まっても、空から降ってくるものに雨や花粉だけではなくミサイルや放射線が含まれるようになっても、そこら中に活断層が走っていることに気がついても、自分の寿命がじつは毎日毎日どんどんゴールに近づいていることに気がついても、そんなことにはお構いなく、朝が来たらベッドから起き上がって、夜になったら畳むべき洗濯物を畳んで、ってことなんだろう。

ファイティングポーズをとるわけじゃないけど、そういうのを覚悟っていうのかな、などと思う。

今週末の良かったこと

弾丸ジャーナル

コクヨ ノート キャンパスノート A6 B罫 48枚をつかっている。ノ-221B。
コクヨのノートカバー ノ-659-B で3冊持ち歩いていて、これでだいたい1年分。
4週で1ピリオド。一年間は52ピリオド。
最初にそのピリオドのインデックス(カレンダー)を手書きしてから、次のページ以降にそれぞれの日付の記録をつける。見開き2ページの右肩にページ番号をふる。

それではここで、今週の strava アクティビティの様子をご覧頂きます

運動日記、3つのフォーマットを用いている

4週間のインデックス


1週間のインデックス

毎日の日誌

こういう手書きのノートを Bullet Journal と呼ぶらしい。

ビュレット (英: bullet) は、日本語における約物のひとつで、「•」あるいは「◦」と書き表される。語源は英語でも箇条書きの一項目を示す印である bullet(原意は「弾丸」、ただし英語本来の発音は「ブレット」)である。

このすべてがオンラインの時代に、多くのランナーは時計をクラウドに同期することでトレーニングをデジタルで追跡します。 しかし、InstagramとPinterestのおかげもあり、アナログの代替手段が流行しています。 Bullet Journalシステム -ブルックリンのデザイナーの発案-は、あなたにとって重要なことを追跡するための独自のプランナーの作成を伴います。

1週間のインデックスページで Session RPE と SD と Monotony と Strain を計算して、google のスプレッドシート転記している。

諸君らの弾丸は発射されたか? カチリと音を立ててシリンダーが回転し次の弾丸をつつく用意ができている。射出された弾丸はもう元には戻らない。

適当に身体を動かす活動について

土曜日、起床には失敗したものの、走った。3時間。川の沿いと街なかをつないだフラットな周回路とお城の公園のアップダウンをつないだループを4周回半。川、城、川、城、川、城、川、城、川。

フラットなところが25分、アップダウンが10分くらい。フラットはスローにノーズブレス、5 Zone Intensityでいうところの Zone1 で、アップダウンは5 Zone Intensity でいうところの Zone3 ~ Zone4 で。

これはもともとはただフラットなところをながーーーくスローーーに走っていたんだけど、持久力ないからあまり集中が続かなくて ピックアップ (短く強く走る。ウインドスプリント)と呼ばれるヤツを途中にはさむようになったのがきっかけ。これは、スティーブ・ハウスの "Training for the Uphill Athlete" からのアイデアでした。で、とにかく速く走るのは楽しい、気持ちイイ。

でもピックアップだとヒザとか足首とか靭帯にちょっとどころではないヤバイかんじの負担がかかるので公園のアップダウンをつなぐようになった。これは デイブ・スコット の "HIIT on Long Ride" からいただいたアイデアでした。で、これ、結構、脚にクル。

日曜日、やっぱり起床には失敗。天気は雨。気分がのらず家のステーショナリー・バイクにまたがる。

自分ちにステーショナリー・バイクがある良さは、とりあえずサドルに座って漕ぎ始めればイイところですね

日常を取り戻すこと

朝の検温が日課になったり、クラシカル・ミュージックをまた聴き始めたり、なんとか日常とアレとかソレをすり合わせようとしている。いろいろ滞ったりどうでもイイことにこだわってみたりなにかに引っ張られて沈んだり無駄に高揚したりするけど、日常を生きるというのは大なり小なりそういうバランスを取り続けることなのだろう。

とりあえずベッドから立ち上がって歩き始めればイイってことですね。

今週末の良かったこと

儀式


それで寝る前にカバーを外し(いつもの儀式)たその勢いで読み始めてしまって

新しく買った本は、カバーを外す、気に入ったページの右上の耳を折る、という儀式で初めて自分の本になる。だからたいてい手こずって読み続けた本はボロボロになる。だいたいこんな感じ。



意図的、選択的に、かつ多すぎず

ピーター・B・メダワー 「若き科学者へ」読んでいる。最初は英語版で読もうとして挫折した。

4章 「科学者として進むための装備の仕方」で文献を読むことについて、「書物の読み過ぎは想像力を萎縮させるおそれがある。」「他人の研究を読みふけることは心理学的には研究の代用になるが、これはロマンチックな小説を読むことが実際のロマンスの代用になる程度と大差ない」と手厳しい。「初心者は文献を読まねばならない。しかし、意図的、選択的に、かつ多すぎずに」と。

われわれは情報とつながらなければならない。しかし、意図的、選択的に、かつ多すぎずに

サッカーはなかった

先週末に開幕した J2 リーグ、甲府はこの週末、ホーム開幕戦が開かれるはずだった。

Jリーグは、本日の理事会において、2月28日(金)~3月15日(日)に開催予定の2020明治安田生命Jリーグおよび2020JリーグYBCルヴァンカップのすべての試合について、開催延期を決定いたしました。

第2節から第4節の試合が延期となった。残念。

■新井涼平キャプテンコメント  コロナウイルスの現状を踏まえ、リーグの延期は仕方ない状況だと思います。  ホーム開幕戦を楽しみにされていたかと思いますが、より安全な状況でスタジアムにお越しいただき、熱狂を楽しんでいただく事が僕ら選手の願いでもあります。  再開に向け、さらに逞しくなったヴァンフォーレ甲府をお見せできるよう、準備を進めていきます。

瀬戸際

我々は、現在、感染の完全な防御が極めて難しいウイルスと闘っています。このウイルスの特徴上、一人一人の感染を完全に防止することは不可能です。  ただし、感染の拡大のスピードを抑制することは可能だと考えられます。そのためには、これから1-2週間が急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際となります

1月末から、わたしたちの意識を占めるようになった、新型コロナウイルス covid-19 は日本でもだんだん感染を広げて、気をつけないとアテンションの大部分を奪うくらいの勢いになっている。これはネットワークの問題だ。一つはウイルスの感染についてのネットワーク。もう一つは意識の感染についてのネットワーク。

ちょっと先まで

みんながそれにアテンションを消耗しているあいだに、ちょっと先まで行ってしまおう、みたいなことを考えている。

kzys サンyoukoseki サン が言っていたことがなんとなくわかるような気もしたし、インターネットにかぎらずテレビでもラジオでも誰かとの会話(床屋のオバちゃんとか職場のヤツらとか家庭とか)でもちょっとうんざりする空気が流れているけども、

たぶん、いろいろなことが試されているんだろう。おそらく大事なのは正しい知識と冷静さ。そしてわたしたちは「リブログの精神」であんなこともこんなこともあの2011年も乗り越えてきた。 そしてそれは、このアウトブレイク直前のこの状況だけじゃなくて、いつだって問われている姿勢なのだ。たぶん。

でも、それでも、新井が言うようにここで力をたくわえて、そのときまでにちょっとでも先にすすんでいたいと思う。

フレッシュさ

新年を迎えるのと同じフレッシュさで、3/1 を迎えたか?

今週末の良かったこと

リバタリアニズム


リバタリアニズムは経済的自由と社会的自由(個人的自由、政治的自由)を共に尊重する思想であり、思想家デイヴィッド・ノーラン(英語版)によるノーラン・チャートでは、社会主義などの左翼思想は個人的自由は高いが経済的自由は低く、保守主義などの右翼思想は経済的自由は高いが個人的自由は低く、ポピュリズム(ここでは権威主義や全体主義などを指す)では個人的自由も経済的自由も低い、という位置づけとなる。

ノーラン・チャートには、右翼と左翼という伝統的な政治分類とは異なり、経済的自由を表すX軸と個人的自由を表すY軸とがある。ノーランは左下の領域に位置する政治哲学をポピュリズムと呼んだが、多くの人々は代わりに権威主義あるいは全体主義と呼んだ。

リバタリアニズムとポピュリズムの話、アダム・カヘンの言ってた「愛と力」の話に繋がってる。「力の衝動」は差別化と個別化を、「愛の衝動」は均質化と統合化を意味する。

「愛」とか「力」という語には特別のイメージがあるけどもここにおいては、「愛」だからといってピース、平和とかを意味するわけではなく、「力」だからといって破壊、暴力とかを意味するわけでもない。均質化、統合化つまり全体主義っていうのは時と場合によっては、非常に(非情に)破壊的だったりする。

それから一人の人間はいつでもどこでも同じ傾向(リバタリアニズム/ポピュリズム/右翼/左翼)を示すわけじゃなくてその時その場所その場合に応じて取りうるどこかのポジションに自分を置く。たとえば新型コロナウイルスの脅威にさらされている現在、ポピュリズム寄りに偏ることはしょうがない、みたいなことを考えたりする(適当)。中国が武漢をまるごと隔離したみたいなことと、日本がダイヤモンド・プリンセス号の陰性だった乗客の移動の自由を尊重したこととか、みたいな(適当)。

サイバーリバタリアン

表現の自由とインターネットへのより広いアクセスを保証するために、1990年代にサイバーリバタリアンが行った取り組みなしには、ウィキペディアは存在できないと私は言いました。

私は何度も聞いたことがありますが、ジャーナリストはもっと慎重な見方をしました。インターネットは、私たちが今住んでいる不幸な歴史の瞬間に私たちをもたらしました。社会を救う唯一の方法は、より厳しい法律と、法的および憲法上の保護を少なくする事を通じて、オンラインにより規律を課すことです

30年間、私はサイバーリバタリアン、または私が好む用語であるインターネット弁護士でした。もちろん、著作権法、暗号化、ブロードバンドアクセス、デジタルプライバシー、データ保護などに取り組んできました。しかし、私のキャリアのルーツは常に市民の自由と刑法にありました。つまり、私は(主に)検閲と、インターネット上またはインターネット外でデジタルツールを使用して発言したり実行したりすることで(主に)法を遵守している人々を罰したい人々に対して反対の主張をしています。

scrapbox.io

なんか凄いところを掘り当てたのかもしれない。なにを言っているのか全然理解出来ていないけど、とても大事なことが書かれている気がする。

オクラナガイモ

https://okuranagaimo.blogspot.com/

この okuranagaimo サンの blog 、スゴイなあ面白いなあと思っている。このページの作者はいったいどんな人なんだろうか?

いろいろな英語の記事を機械的に google 翻訳した文章が貼り付けてある。ただそれだけ。整理整頓も個人の感想や考えもなにもない。ただひたすら貼り付けてある。でも記事の選択やその膨大なアーカイブでここにはなにがしかの個人性が満ち溢れている。

並べる順番、置く場所、時間、それで大きく世界が変わる

tumblr で経験してきた大きなものの一つに、「置く場所や順番や時間が変わるとその価値や意味が全く変わってしまう」ってのがある。もう一つあって、それは「継続と物量によってのみ築かれるなにかがある」ってヤツ。

事実かそれともつくり話か?

Fact or Fiction

scrapbox.io


okuranagaimo サンの真似してみた。たいていのものはみんなだれかのコピーだ。

J2 開幕

2020年 J2 リーグ 第1節 甲府 vs 町田 アウェイ 0-0 ドロー。2019年と全然違うメンバーで始まった。


勝てなかった。負けなかった。このなんともいえない気分も含めてサッカー、帰って来たな

勝っても負けても引き分けても、次の試合が一番大事

僕らは2週間に一度

春が来てまたサッカーが帰って来る、みたいなの、もう大人になると一年がだーっと地続きに何年も何年も積み重なっていく感じになるけどそうではなくて、毎年毎年春が来て、昨年のこととか全部忘れて、また何回でも生まれ変われるみたいなの、なんていうのかな、こういう感じ

そういう感じ、わかる?

僕らは2週間に一度、ミサに行く ようなもんだとおもうよ。勝ったとか負けたとか、そんなことより、

前の試合から今日まで、こんなことがありました、こんな嬉しいことがありました、こんな悔いがあります、そういう告白をして、反省をして、場合によっちゃ元気をもらって、また次の一区切り(来週なのかもしれないし、すぐ次の水曜日なのかもしれないし)をがんばろう、とおもう。そういうことの繰り返しだと思う

ということで、あけましておめでとうございます。

今週末の良かったこと

澤田屋のチョコレート羊羹



session RPE


ワークアウトのログ、ずっとノートに手書きだったけど session RPE でコントロールし始めた。

そこでRPEとトレーニング時間を組み合わせた方法としてSessionRPE法があります.この方法はFoster(1998)によって開発され,RPEに運動時間を乗算することでトレーニング負荷を推定する複合的な指標であり,特別な用具を必要とせず心拍数といった生理学的負荷も反映し,トレーニング負荷を定量できる簡便な方法です

2019 week-47 に腰痛が出て、2019年の年末は 2019AC2019呪いを解いて、2020年の正月(2019 week-53)は完全にオフしたりして、で、2020 week-02 からちょっとずつ身体動かし始めてやっとここまできた。

session RPE では主観的運動強度と時間からそのセッション、ワークアウト全体の負荷(Load)を算出する。で、一日あたりの負荷の標準偏差( SD )から単調性( monotony )と緊張度( strain )を算出する。

負荷 Load = 主観的運動強度 RPE * 運動時間(分)
単調性 monotony = 週間の一日当り平均 Load / 週間の Load 標準偏差 
緊張度 strain = 週間の合計 Load * monotony

同じ負荷でも単調性が高いと緊張度が高くなる。これがなにを意味するのかというと、2020 week-03 がそうなんだけど、負荷を下げているはずなのに緊張度が下がっていないということが起きる。リカバリーのためには時間を減らさないで強度を下げるよりも(ダラダラと低い負荷で長い時間やるよりも)、時間を減らして強度はそのままのほうがイイ(完全オフと普通の強度を短くとかの組み合わせのほうがイイ)ということだったりする。単調 is DEAD

主観的運動強度の汚いメモ


via 主観的運動強度の汚いメモ - taizooo

RPE 主観的運動強度 ちゃんとした表を作ってるけど、実際に使ってるのは下の汚いメモ

主観的運動強度、いまは呼吸の仕方や深さで把握するようにしている(エンデュランスの場合)。完全に意識しないで鼻呼吸か、鼻呼吸だけど深いか、口呼吸じゃないと無理か、ハアハア、ゼエゼエ、とかとか。

行っている運動の種類で、同じ心拍数でも、主観的運動強度が違ったりする。バイクとランニングだと違うし、ランニングでも坂道を上るのと下るのでは同じ心拍数なのに違ったりする。どうしていいかわからなくなってしまうので心拍数じゃなくって、呼吸を信じることにした。

session RPE をオレに知らしめてくれた彼女(会ったことはない)は、無事に卒論発表が終わったらしい

特筆すべきことなし(あり)

ランニングあり。読書なし。もうちょっと書きたいことがあった気がするけど、忘れたな。あれだな、ずっと考えていることがあると、ぐるっと回ったころにまた、急にそれが目の前にあらわれてくることがある、という話。このあたりに、

なぜか多方向から同時期にガンっとシンクロすることがある。面白い。

今週末の良かったこと


via http://ktymtskz.my.coocan.jp/S/physic/phi11.htm

テクノロジーとは

まず第一に、自然界に最初からあるわけじゃなくて、ひとがつくった、ということ

第二の特徴。それはヒトの生まれながらにしてもつ能力をひろげたり、強めたりしてくれるということ。

科学、工学、テクノロジーの区別は明確ではない

「それって、テクノロジーですよね」みたいなことを言うし、だいたいにおいてテクノロジーっぽさは誰かと共有することが出来るけど、それがなにを意味しているのかだいたい誰もわかっていない。ことばがイメージに先行する。よくわからないけどもテクノロジーは科学と工学の間やその周辺に存在している。

科学と工学の話

人類は電気がなんなのか理解する前にそれを利用し始めた。ライデン瓶に静電気が貯められることが発見されてそのあとに、フランスのノレ神父はたくさんの人を並べて1マイルの環をつくり、その環をライデン瓶のプラスとマイナスでつないだ。何百人もの人たちが電気ショックで吹っ飛んだ。

最初の大西洋海底ケーブルが施設されたのが1858年、ダーウィンの「種の起源」の発表が1859年

マックスウェル「電磁場理論」、1864年

人類は電磁気学もなにも知らないうちに電信線で大西洋をつないだ。一番最初に莫大な費用をつぎ込んだ電信線はわずか数時間の通信で解けてしまった。科学は工学を後追いしている。このことを忘れてはいけないと思う。

実践が理論に先行する。

テクノロジーとしての「ことば」

テクノロジーにどんなものがあるのかについて話をしよう。まず第一にあげたいのは「ことば」だ

ことばだって立派なテクノロジーだ。ことばには人工物っぽいところがある。たいていのことばは、いつの間にか使われるようになったものなので、特定の作者がいないように思ってしまう。

ことばはキミが新しいことを考えることを可能にしてくれる

グリックの「タイムトラベル」によると、時間は過去から未来へと流れる、と、強く意識されるようになったのは、H.G.ウェルズの「タイムマシン」の影響が大きかったそうだ。そもそもタイムトラベルという語は「タイムマシン」の主人公にたいする呼び名、「タイムトラベラー」が由来だったりする。タイムトラベルという概念の影響は大きくて、科学も哲学もそれから逃れられなかった。H.G.ウェルズ自身ものちのコメントで、「タイムマシン」の小説をどう構想したのかについて問われたときに、自分自身の思考がタイムトラベルという概念に書き換えられてしまっていて、その当時の自分には戻れない、みたいなことを言っていたらしい。

気分がことばを選ぶということはことばが気分を生むということでもあります。ことばにはそういう機能がある

ことばがイメージに先行する。このことを忘れてはいけないと思う。

だからキミは使えることばを増やさなければならない

今週末の良かったこと

始まりの話

この読書の旅、どういうふうに始まったのか、どういうふうにここまでたどり着いたのかちょっと追いかけていた。

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分厚過ぎて読み切れる気がしない

今も続いているこの読書の旅はリンクを辿る旅で、その始まりはこの "CODE" の序文から始まったのだった

一番は「インターネットとはなんなのか」から始まっている。それがいつの間にか「世界とはなんなのか」「人間とはなんなのか」という方向に進んで、気がついたらいまここにいる、みたいな感じ。

何のために CODE とか読んでるかと言えば reblog commons 設立のために決まってるじゃないですか

リンクをつなげる、リンクをたどる

「なぜインターネットはアメリカで始まったのか」を考えるために、「なぜ産業革命はイギリスで起こったのか」を調べていたら、「なぜアメリカ大陸はヨーロッパに支配されることになったのか」が疑問になって、「なぜルネサンスはイタリアで起こったのか」にたどり着いたら、なぜかルクレティウス「物の本質について」を掴んでレジに立っていたという。

インターネットの手前あたりにレッシグ「CODE」が挟まってて、インターネットと産業革命の間あたりにウェーゲナー「大陸と海洋の起源」が挟まってて、産業革命とアメリカの間あたりにダーウィン「種の起源」が挟まってて、産業革命とルネサンスの間あたりたぶんよくわからないいろいろが挟まってて、ルネサンスとゼロのあたりにたぶん新約聖書が挟まってる。 書籍も歴史も多層的、重層的に積み重なっている。

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ヴィクトリア朝時代のインターネット

最初の大西洋海底ケーブルが施設されたのが1858年、ダーウィンの「種の起源」の発表が1859年

マックスウェル「電磁場理論」、1864年

理論より先に大西洋にケーブルを通しちゃう訳ね

ロンドン世界初の地下鉄、1863年

地下鉄より海底ケーブルの方が先

何だ、人間って昔からオンライン大好きだったんじゃないか!

魅惑の19世紀

19世紀って今よりもっと科学技術的にエキサイティングだったみたい

で、世界史見てきて思っているのは、技術革新の一番エキサイティングだった時代は19世紀だったんじゃないか、っていうの。今よりずっと凄かった。たぶん

18世紀末から19世紀中頃まで、アメリカ独立やらフランス革命とナポレオンやらウィーン体制やらマルクスと共産党宣言やら、最高にエネルギッシュな感じ

20世紀の音楽

20世紀の音楽を掘りたくなった

20世紀の音楽を追いかけるには、19世紀の音楽を知らないといけなくて、19世紀の音楽を知るためには19世紀の世界を知らないとならない。音楽も政治も社会も科学も産業も経済も全部つながっている。たぶん20世紀の音楽を知るということは21世紀の音楽を知ることでもある。音楽も多層的、重層的に積み重なっている。

今週末の良かったこと

ただいま品切です



<ただいま品切です>

「20世紀を語る音楽」、上巻は売っていたけども下巻はなくて、中古で購入した(Amazon マーケットプレイス)。適当に購入した先がバリューブックスというところで、同封されていた納品書のウラにちょっとした文章とか載っていてシャレていた。面白い。

バリューブックスから本をご購入のお客様へ、少しでもバリューブックスのことを知ってほしい。そんな思いから、2つの新たな接点が生まれました。おすすめの本を紹介するちょっとした読み物「納品書のウラ書き」と、バリューブックスの活動を伝えるお手紙「ぼくたちが本を届けながら考えていること」。

二段組


そんなに厚い本ではないのだけども、

思ったほど厚くないなと開いた本のページが、二段組だったときの顔をしている

ということで、遅読の自分が上巻を読み終えるのにかかる時間はとんでもなく長いと予想されるので、あわてて下巻を買う必要がなさそうなんだけども、なぜ、あわてて下巻を買ったのかというと、

  • 音源・読書案内
  • 訳者あとがき
  • 索引

というふうに、上下巻の索引が載っているのと、こっちが一番大事なんだけど、音楽のリソース集が載っているということ。

脱線の話

  • アレックス・ロス「これを聴け」第2部 6章 アンチ・マエストロ ― ロサンジェルス・フィルハーモニックのエサ=ペッカ・サロネン ―

ここがいま、クラシカル・ミュージックで掘っている場所なんだけども、ドイツ・グラモフォンのロサンジェルス・フィルハーモニックのライブ版を順番に聴いているうちに20世紀の音楽を掘りたくなった。ロサンジェルス・フィルハーモニックというか、エサ=ペッカ・サロネンとそのあとを継いだグスタフ・ドゥダメルは現代のクラシカル・ミュージックに傾倒していて、とても新鮮だった。


サブスクリプションで聴いているとライナーノーツがないので scrapbox に wikipedia とかインターネットから拾ってきた情報を貼り付けて聴き始めた。なんかこういろいろなもの(音)が繋がりつつあるような感触がある。この機会を逃しちゃダメだ! チャンスの女神には後ろ髪がない! そんな焦燥感にかられたりなんかして(たぶん大きな勘違いだろう)。

そんなこんなで、強い意志をもって、大きく脱線することにした(予定は未定)。

ノイズの話

「20世紀を語る音楽」原題は "The rest is noise" 邦題より断然カッコイイ。


どこにいようと、聞こえてくるのはほとんどノイズだ。


20世紀のクラシック音楽作品は、多くの人たちにとってノイズのように聞こえる。


音楽はときとしてノイズに似ている。なぜなら音楽はまさにノイズだ、

今週末の良かったこと


via http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/083.pdf

技術の系統化調査報告 第21集2014年3月
アナログディスクレコード技術の系統化報告と現存資料の状況
~機械式録音から電気式録音へ、そして長時間化とステレオ化へ~
穴澤 健明

20世紀のクラシカル・ミュージックを追いかけることの意味とか

ロサンジェルス・フィルハーモニック、20世紀の作曲家ばっかりなので、一足先にアレックス・ロス「20世紀を語る音楽」読みたい感じになってる。まだ「これを聴け」全然途中だけど

「20世紀を語る音楽」を買おうと思って本屋へ行ったのだが、そしたら「聴衆の誕生」という本が平置きされていてハマってしまった。 1989年に出版されたものの文庫版。けっして新しくはないけども、クラシカル・ミュージックを軸に、いま、この場所で起きている現象とぴったりの内容が書かれていたりする。(ちょっとズレているところも無くはない。でもそれが1989年に書かれてると考えると信じられなくらいフレッシュだ。)

クラシカル・ミュージックの動きはポップ・ミュージックの世界を先行していると考えられる(考えられるということにしておく)。「聴衆の誕生」に「カタログ化」と呼ばれている現象がある。

旧来の 「巨匠の名曲」を軸にした価値秩序の崩壊とさまざまな音楽が価値の差別なく並存する並列化現象を指摘しそれを「ぴあ」のような情報雑誌や「東京うまいものカタログ」式の音楽の「カタログ化」と捉える

「東京うまいものカタログ」がなんなのかわからないけど、なんとなく想像できる。30年くらい前か。つまり今、サブスクリプションのおかげで現在も歴史もおかまいなく横並び、並列に音楽が並んでいるこの感じは30年前からすでに始まっていたということだ。サブスクリプションで起きている現象の一端はすでに30年前に起きていた。現在は過去の上に積み重なっている。

サブスクの上陸により、ディガーたちの自我が崩壊したテン年代末

ディガーたちの自我が崩壊して、オレみたいなワナビーやニワカや「持たない者」「何者でもないもの」が暗躍する世界がやってきた。 この流れはサブスクリプションによって破壊された結果じゃなくって、音楽の進化の線上で起きている。

レコードの話

「聴衆の誕生」では1920年代に音楽に大きな変化が起きたと言っている。それはレコードの登場を意味する。レコードというテクノロジーは19世紀に誕生している。Web を漁ると冒頭の「アナログディスクレコード技術の系統化報告」という PDF を見つけた。66ページもある。印刷した。

1920年代はラジオ放送が本格的に始まり、電気に関わる技術の進歩が大きかった。その影響はレコードにも及んでいてそれまで機械的に録音されていたレコードは、電気的な録音に置き換えられた。このときに大きなブレイクスルーが起きた。音楽は時間や場所から自由になった。ここがスタート地点だった(かなり話を端折っている)。現在は過去の上に積み重なっている。

音がテクノロジーの最先端だった時代

かつて、音がテクノロジーの最先端だった時代があった。そもそも sony の名称は音からきているのだ。

「SONY」というブランド名は、『音:SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス)』と「小さい」「坊や」を意味する『SONNY』に由来している。

  • 「アナログディスクレコード技術の系統化報告」4.3.4 日本のオーディオ技術、レコード技術の発展を担った先駆者達

ここで第2 次世界大戦の末期から戦後にかけての我が国のオーディオ産業、レコード産業の発展に寄与した先駆的な技術者達に目を向けてみよう。1939 年(昭和14 年)に日本電音機製作所(略称デンオン、現デノン)を設立した前述の坪田耕一と東通工(後のソニー)の設立者である井深大、そして元NHK 技術研究所所長の島茂は、同じ大学の電気工学科の同期生(昭和8 年卒)であったことは良く知られている。この3 者に対する母校の伊藤毅(元早稲田大学理工学部教授)が行った学問的支援も忘れるわけには行かない。

伊藤は日本の作曲界の育ての親、諸井三郎(作曲家、三木鶏郎の先生でもあった)の弟子で日本での音響工学の古典的名著音響工学原論上下(コロナ社発行)を執筆し、その傍ら作曲も行った

坪田の門下からは、前述の谷勝馬(ティアック創業者)をはじめ、持田康典(日本楽器製造、現ヤマハ、元専務取締役)、阿部美春(元ティアック取締役)等戦後の日本のオーディオ産業を担った多くの逸材を輩出した。

NHK 技術研究所で放送用カートリッジの開発を行った山本武夫(元パイオニア副社長)は、パイオニアに移り、パイオニアでのレーザーディスクの開発で中心的な役割を担った。後にソニーでCD 開発プロジェクトの指揮を取った中島平太郎(元アイワ社長)は、NHK 技術研究所での山本の上司であった。

「シガーカートリッジ」の発明他の功績により、ニューヨークに本拠を置くAES(Audio EngineeringSociety)のシルバーメダルを受賞(後に井上敏也もこの賞を受賞)した志賀健雄は、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる糸川英夫(元組織工学研究所)が音響の研究を行っていた時代の弟子であった。

糸川英夫は1935 年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機に入社し戦闘機「隼」などの設計に従事した。1941 年に軍部の影響力が比較的弱かった千葉市の東京帝国大学第二工学部の助教授に就任し、1949 年に学位を取得したが、その学位論文は「音響インピーダンスに依る微小変位測定法に関する研究」であった。

今週末の良かったこと

買った


読書、グリック「タイムトラベル」、リドレー「やわらかな遺伝子」を読み終わって、次になにを読むか決めかねている。

結局、タイムトラベルの方向に行ってみることにした。出来るだけ遠回りする方を選びたい。


ロサンジェルス・フィルハーモニック、20世紀の作曲家ばっかりなので、一足先にアレックス・ロス「20世紀を語る音楽」読みたい感じになってる。まだ「これを聴け」全然途中だけど

読み終わった

アローン・オン・ザ・ウォール

タイムトラベル

やわらかな遺伝子

敵とのコラボレーション


この週末で、正月に読み始めた本、全部読了した! なんということでしょう! スゴイ!

2018/05/05 → 2020/01/11

何回も何回もチャレンジしたから最初の2章は何回も何回も読んだ。ダーウィン「種の起源」のときにもやったんだけど、本と kindle と両方買った。結局、本の方で最後までたどり着いた。何回も何回もチャレンジした理由はめぐり合わせだったりタイミングだったりしたので、けっしてつまらなかったからではない。その反対。とても面白い。

Nature via Nurture

遺伝子がいわば感受性のかたまりで、生物に融通性を与える手段であり、まさしく経験のしもべであることを、間違いなく示している。「生まれか育ちか」の時代は終わった。「生まれは育ちを通して」の時代よ、万歳!

「生まれ」と「育ち」、「才能」と「学習」(教育、訓練、またはトレーニング)、みたいなことを、人生の折々に自分の境遇とか置かれている環境とかで、つらつらと考えたことがあるような人には、手っ取り早く最終章(第10章 逆説的な教訓)を読むことをオススメしたい。もし余裕があったら「わかりすぎてやばい」とか「すきになる」とか頭についている薄い分子生物学の本を読んでおくとさらに理解が進むと思う。

遺伝子を恐れるな。遺伝子は神ではなく、歯車なのだ。

生まれは育ちを通して発現する。

インターネット以前、インターネット以降

自分の読書体験はインターネット以前、インターネット以降とで断絶してて(ここでいうインターネットとは2007年辺りを指す)、いまはインターネット以降なのでその体験は URL をひたすらたどるのと全く同じになっている。もう書評や誰かのレビューから白紙の状態で受け取るような読み方ができない。なにを読んでも必ずなにかに繋がっている。

インターネット以降の読書、どこから始まっているかというと「CODE」だった。2011年。

今も続いているこの読書の旅はリンクを辿る旅で、その始まりはこの "CODE" の序文から始まったのだった

一番は「インターネットとはなんなのか」から始まっている。それがいつの間にか「世界とはなんなのか」「人間とはなんなのか」という方向に進んで、気がついたらいまここにいる、みたいな感じ。

行間や積読のあいだにリンクが飛び交っているのが見える。もう書評や誰かのレビューから白紙の状態で受け取るような読み方は出来ない。リンクが発火してる。

今週末の良かったこと

US 9

世界中のシューズの中で一番愛しているのはスリッポンだ。VANS のスリッポン。白と黒を買った。

前は US サイズで 7H (25.5cm)だったけれどもこれが 9 (27.0cm)になった。足、大きくなっている。それは足が大きくなっているというよりは指が開くようになったということ。風呂で足の指をグーパーしている。左足と右足のバランスが悪くて、右足の方が弱く捻挫がちだった。片足で立ったりしたときに明らかに弱かった。だいぶ改善された。

積読山脈について

2019年末

積読の山、結構ひどくて2018年の年末の写真と比べてみたらほとんど地層が動いていなかった。

2018年末

この山のなかに埋まっている大物はアダム・スミス「国富論」、チャールズ・ダーウィン「人間の由来」。

年が明けたからといって新しい目標とか希望とか高らかに宣言なんてあんまりしたくないんだけど、この二つについては手を付けたいと思う。しかし予定は未定だ。

読み散らかす話

正月休み、全く走らなかった。そのおかげで読書が帰ってきた。

アレックス・オノルド「アローン・オン・ザ・ウォール」、ジェイムズ・グリック「タイムトラベル」、アダム・カヘン「敵とのコラボレーション」、マット・リドレー「やわらかな遺伝子」。最後の2冊はまだ続いていて、そして「やわらかな遺伝子」はいままで何回もチャレンジし続けていて何回もストップしてしまっている。今回こそは読了したい。

愛と力の話

そういうときというのは、なにを読んでいても必ずなにかにつながってしまう。そういうことが起きる。愛と力。


  • .敵とのコラボレーション 第5章 対立とつながりを受容する

この本では、神学者、パウル・ティリッヒの本質をついた著作に従って、力を「生けるものすべてが自己を実現しようとする衝動」と定義した。力の衝動は主張するという行為として現れる。集団の場合、力の衝動は差別化(多様な形態と機能の発達)と個別化(互いに独立して働く部分)を生む。 

愛の定義も、ティリッヒに従って「切り離されているものを統一しようとする衝動」とした。愛の衝動は関わるという行為として現れる。集団の場合、愛の衝動は均質化(情報や能力の共有)と統合(結びついて一つの全体になる部分)を生む。

すべての人や集団がどちらの衝動ももっており、一方だけ用いるのは常に誤りであるということだった。愛と力は二者択一の選択肢ではない。これらは相補的な両極であり、私たちは両方とも選ばなければならない。

  • やわらかな遺伝子 第2章 幾多の本能

ウィリアム・ジェームズは、最も強い本能は愛だと考えた。「数ある性癖のなかで、性衝動には、盲目的・自動的でしかも教えられて身につくのでないという意味において、本能であることを示すきわめて明白なしるしがある」一方で彼は、性衝動が本能だからといって、抑えられないわけではないとも述べた。臆病さなどといったほかの本能が、性衝動による行動を阻止するのである。

雄のプレーリーハタネズミの脳にバソプレシンを注射すると、つがう相手以外には攻撃的になる。ほかの仲間への攻撃は、(雄らしい)愛の表現なのだ

愛、力という文字だけではなくて衝動、本能という言葉もここでシンクロしている。

流れを読む話

今年も正月休みを生き延びた。

今年も正月休みを生き延びた。そのための心構えについて貼っておく。何回でも貼る。自戒の念を込めて。

あれをしたい、これをしたいという「我」を張らないようにした。正月は神様のためのものなので。ここで簡単に「神様」と言っているけども、ようは「自分ではない何か」全般を指して「神様」と言っている。

出来ることなら年末年始という特別な時だけではなくて毎日をそういうふうに過ごしたい。

毎週毎週を新年を迎えるフレッシュさで。

今週末の良かったこと

洞窟の比喩


via https://en.wikipedia.org/wiki/Plato#The_Cave

グリック「タイムトラベル」読んでいる。第4章「古の光」(いにしえのひかり)にプラトンの「洞窟の比喩」が出てくる。

「私は、空間と時間に対する新たな見方を、皆の前に提示したいと思っている。その見方は実験物理学の土壌から生まれたものであり、実験物理学ならではの強みが背景にある」。ミンコフスキーはまずそう話を切り出した。「それは過激な見方ではある。空間も時間もそれ単独では価値を失い、影へと隠れてしまうことになるからだ」。

「影へと隠れる」というのは、たんなる詩的表現ではないとミンコフスキーは言った。彼が言ったのは文字通りのことだ。私たちが知覚している現実は一種の投影である。プラトンが「洞窟の比喩」で使った、火に照らされた物体の影のようなものだ。

一方でソンタグが序にかえて書いた「In Plato’s Cave」の冒頭で示された洞察は現代にも完全に通じていると感じる。 ソンタグが Plato's Cave と記したのは、プラトンが著書の「国家」の中で示した「洞窟の隠喩」が前提となっている。Sontagがこの批評集を書き始めるにあたって In Plato's Cave と題した意味はまずこの概念を知らなければ理解できないだろう。

(514A-515A) ……地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。……

つまり、僕たちが日常的に見聞きしているさまざまな現実は、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える、と言うことなのです。

面白いもんで、こういう時期というのはなにを探してても必ずなにかがつながったりする。もう何年もそういう現象を目の当たりにし続けている。ここでいう「こういう時期」とは 2019AC2019 のことを指す。

2019AC2019

完走した。

これがはたしてアドベント・カレンダーなのかどうかというのはなんとも言えないんだけども、唯一、アドベントであると謳っているのであれば25日間、一日も欠かさずに繋がったということがそれに値するだろう。

インターネット上の匿名アカウントとして存在する自分の場合、確固たる自分の場所みたいなものを持たない。場所を持たないということは誰かとの関係において確固たる繋がりを持たないことを意味する。

そのような自分が毎年このような活動(もし活動と呼んでもいいならそう呼ぼう)で25個の枠を埋めて、それが25日間途切れることなく継続して、インターネットに(もしそう言っても許されるなら「世界に」)、なにがしかの痕跡を残す、というのを奇跡といわないとしたら、いったいなんと呼べばよいだろうか。

PBN100 のポッドキャスト冒頭で 2019AC2019 のことを言葉に発するときに、これをなんと呼んでいいのか、言いあぐねたところで、これはオレにとっての成功だな、と思った。

それぞれの人たちが経験した2019というのは本物なんだろうけど、実際のところその確実さ確かさというその足場は実はグラグラであったり、縁もゆかりもない25個の post をちょっと視界の端っこにかすめる程度に眺めただけであっても、それを視界に入れたということは経験したことになるのだということだったり、そしてこの2019という区切りさえもあやふやになって、それは結局のところ、洞窟の壁で揺れる影だったのではないか、みたいな謎掛けを残して2019年は暮れて行きます。

では reblog の精神に則って、他人様の言葉をもって2019年最後の言葉といたします。

すべての企てがヒトがよりよく生きることのために行われますように。

われわれの残すすべての URL の繋がりや絡まりが、世界を豊かにしますように。ハレルヤ。

今週末の良かったこと

「これを聴け」


次は、アレックス・ロス「これを聴け」( Listen to this ) 行く。

というのが2018/12月末。そろそろ1年。

それぞれの章に出てくる音楽を片っ端から聴きながら、という読み方をしている。現在位置は第五章「軌道を回る ― レディオヘッドのグランドツアー」。世界で初めてレディオヘッドを発見した、みたいな顔をして聴いている。

進捗でいうと、第二章「チャッコーナ、ラメント、ウォーキング・ブルース ― 音楽史の低音旋律」に4月まで、第四章「様式の嵐 ― モーツァルトの中庸」は5月から、あいだに BBC Proms 2019 (7月から9月)を挟んで、12月まで。そして今、やっと第五章にやってきた。

「ビーグル号航海記」

なぜこんな時間が掛かるような読み方(聴き方?)をしているかというと、その始まりは「ビーグル号航海記」にある。


ビーグル号航海記、5年間の記録なんだから5年掛けて読んだって別にかまわないわけだ

実際には5年は掛からなくて、2015/8月から2016/4月までかかった。このときに「あー、速すぎた」と思った。毎日一日分だけ読めば良かったのに、と後悔した。

時間を伸ばしたり縮めたりする

本を読むことは、自分が実際に過ごしている時間とは別の時間軸を持つことになる。そして、そのスピードを上げたり下げたり、ページを飛ばしたり戻ったりすることで、時間を伸ばしたり縮めたり早送りしたり巻き戻したり出来る。

「2019年を探す」、バック・トゥ・ザ・フューチャーを引用した。これ実は、書かなかった(書けなかった)「時間を伸ばしたり縮めたりする」話の伏線にしたいと思っていた。「2019年を探す」で自分が書きたかったのは、そこらじゅう始まりだらけの話だったり、何回も何回も繰り返される話だったり、行ったり来たり止まったり進んだりする話だったりした。書けたかどうかというと半分くらいしか書けなかった。

ベスト・オブ・ザ・イヤーなアドベント・カレンダー、PBN ポッセ第四の刺客、oshowtheripper サンは最後にこう言った。

一方、こういう機会を使って振り返ってみると少し体感の加速度が低下するような気もする。時間の流れに逆らう方向に思考を飛ばすからかな。ささやかな抵抗である。

ささやかな逆走ではなくて、そうじゃなくて時間軸は自由に移動出来るんじゃないか、という。グレン・グールドが録音に向かっていったのも、ターンテーブル2台、レコード2枚でビートを延々と鳴らし続けることも、アインシュタインが言っていることも全部つながっている、みたいな(適当)。

ということで積読の山からグリックの「タイムトラベル」を引っ張り出した。という感じに、走るのが滞って、読書が帰ってきた。

そこらじゅう始まりだらけだ。2020年はもう始まっている。

今週末の良かったこと

本の話

本を買った。4冊中、3冊がベスト・オブ・ザ・イヤーなアドベント・カレンダー繋がりだったりする。十分、心揺さぶられている。で、つまみ食い的に読んでいる。それから本屋の帰りにコーヒーをテイクアウトしてお土産にした。われながら良い選択だったと思う。だれかに何かを買って帰るのは気分がイイ。

公園の話

ちょっと野暮用で公園に行った。雲梯とかブランコの支柱とかにぶら下がったり上ったり揺れていたりした。

上半身のストレングスは押す方向に力を発揮するの(腕立て伏せとかスクワットとかベンチプレスとか)と引く方向に力を発揮する(懸垂とか)のでは全然違うのを理解した。引く方向のほうが自分にとってはよりヘルシーな気がする。

その日からぶら下がれそうな場所がやたらと目につく。すぐに手を伸ばして触ったり握ったりしている。

走った話(シーズンオフの話)

久々に多めに走った。腰痛はだいたい治まった感じ。身体を動かすこと、実は、腰痛が治りつつあって、以前と比べても質量的にはそんなに変わっていないけども、メンタルな負荷が減っていてすごく気軽な感じになっている。主観的運動強度が低いし、リカバリーも速くて早い。これはいったいなんだろうか?

12月いっぱいはこのままの感じでいきたい。シーズンオフみたいな感じで。

イイ週末の話

残念ながら Jリーグの最終日にわれわれは試合がなかった。そうはいってもそれほど悪い週末ではなくて、なかなかのもんだった。本も買ったし、ナポリタンも美味しかったし、いちご大福も食べたし、チョコレートをむさぼり食ったし、クツも洗ったし、コーヒーも飲んだし、腰の痛みも大丈夫そうだし、ベスト・オブ・ザ・イヤーなアドベント・カレンダーも順調に世界を揺さぶっているし、そんなわけで「あーイイ週末だった」とつぶやいて日曜日を終えた。

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