奇想の又兵衛 山中常盤物語絵巻 – MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART
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この引用は2015年5月に『先見日記』から Reblog したものです。2005年、いとうせいこう、羽田澄子の映画『山中常盤』について。
映し出されるのは江戸時代の画家、岩佐又兵衛が描いた全12巻、長大な絵巻物語です。この物語は、若き源義経・牛若を訪ねて奥州へ下った常盤御前がその旅の途中で盗賊に殺され牛若がその仇を討つ、という勧善懲悪のストーリーを持ちます。
いとうせいこうは次のように続けます。
絵巻の中で常盤御前が野盗どもに殺される場面だった。これでもかというしつこさで絵巻は半裸の常盤御前を血まみれにする。あとで牛若丸はこの野盗どもに復讐し、そこでは血どころか、肉片はちぎれ、骨は断たれ、眼球は飛び出し……
近代以前からのエログロ : 先見日記 Insight Diaries
近代化で闇の奥に隠されたはずのエロティシズムとグロテスクは、いまも変わらず人々の中に引き継がれていることを見出します。
青空文庫に『山中常盤物語絵巻』について寺田寅彦が書いた文章があります。1934年、初出の表題は『「山中常盤」の映画的手法』。寺田寅彦はこの絵巻に映画的な構成・構造を見出します。そしてこう続けます。
二つのクライマックスの虐殺の場がかなり分析的にコマ数を多くして描写されている。展覧会場では、この二つの頂点の処の肝心な数コマが白紙で蔽(おお)われて「カット」されていたことからしてみると、相当に深刻な描写があって人間の隠れた本能を呼びさますものがあるものと見える。
寺田寅彦 山中常盤双紙
十字架の基督キリストや矢を受けた聖セバスチアンもそうであるし、また地獄変相図やそれに似た耶蘇教の地獄図、聖アントニオの誘惑の絵の中にも同じようなものが往々見出される。
寺田寅彦 山中常盤双紙
このようなアブノーマルとエロティシズムは万国共通のもので、これは偶然の一致ではなく、深い奥底に隠れた人間の本性に繋がっているのではないか、と。
ここで、12世紀の牛若と常盤御前の物語を介して、17世紀の岩佐又兵衛、20世紀の寺田寅彦、そして21世紀のいとうせいこうが接続されました。
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2015年1月に「見つけたからには掘るんだろうな」とコメントを残した通り、『先見日記』を掘り始めます。毎日毎日、それは2016年3月まで続きました。
『先見日記』をきっかけにして二つの流れが生まれます。一つは「ポップ」。
「ポップ」に含まれているものって、その時代とともにある、っていう感じかな、と。だから「ポップ中毒者」の場合、共にあるというよりは、もっとこう、時代から箱乗りよろしく上半身を乗り出して、目をカッと見開いて、真っ赤に血走らせて、風をビュンビュン切り裂いて、真正面に対峙してる感じ
ポップ中毒者の精神 - taizooo
かつて真新しい新曲や新刊を楽しむように web サービスを根こそぎ漁っていた kenmat であったり、 かつて code で web を焼け野原にする勢いだった ku サンであったり、かつて programming や reblog で日常に潜む異界の穴を拡げまくっていた to サンであったり、彼らの示していた姿、形もそうであったと思う(順不同です)。
https://taizooo.tumblr.com/post/139387711185
ポップ中毒者の視点を持って、過去を掘り下げること(digging, つまり墓掘りのこと)は可能か否か。
https://taizooo.tumblr.com/post/139349812375
ティム・インゴルドは "Being Alive" でこう言いました。
世界への開放性というコインの裏側が驚嘆である。それは、世界の絶えざる誕生という波頭に乗ることから生じる驚異の念である。
世界の絶えざる誕生という波頭に乗る - taizooo
僕にとっての「ポップ」は「ポップカルチャー」の文脈から外れて「今」「現在」という視点へと移っていきます。
この流れは、いままさにこの「ベスト・オブ・ザ・イヤー」に繋がっています。関わってしまった人たち、参加してくれたみなさん、だけでなくちょっとでも読んだり眺めたりしたことのある人もない人も、この濁流に巻き込まれてしまった被害者、かつ共犯者である、というわけです。もう手遅れです。
〔「ご愁傷さまです。チーン。」 https://taizooo.tumblr.com/post/60669456 〕
ここで、『先見日記』を介して、僕は「ポップ」から「ベスト・オブ・ザ・イヤー」へと接続されました。ハレルヤ。
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2024年、僕は、「積読山脈」に埋もれていたアルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』を開いたり閉じたりしていました。
「本を開く」という行為が「未開を拓く」メタファーとなっている可能性だってある。
書くことは人を確かにする。 - Topics | blooper backpacks
ルロワはインペリアル・カレッジ・ロンドンの進化発生生物学教授です。まさに時代の最先端に位置しています。それがなんでアリストテレスが書いた、こんなに古めかしい『動物誌』について書くのか。
この本の始まりは、科学者が書いたとしたならば、あまりにも絵画的な文章です。
アテネの古い地区に一軒の本屋がある。私の知るかぎりではもっともすばらしい本屋だ。
広いよろい窓から入る日の光が、画家のイーゼルに置かれた日本の木版画の上に落ちる。奥の薄暗がりには、木箱に入ったリトグラフや、積み重ねられた地勢図がある。テラコッタのタイルと、古代の哲学者や劇作家の石膏胸像がブックエンドの役目を果たしていた。
その本屋は叙情詩の女神(ムーサ)、エラトーの名を持ちます。数々の骨董品よろしい書物の中から20世紀の初めに出版されたアリストテレス全集を発見します。気まぐれに開いたのが第4巻『動物誌』(ヒストリア・アニマリウム)でした。そこには巻貝を形作っている内部の生体構造について書かれたくだりがありました。
口に続いてすぐあとに胃があるが、巻貝の胃は、鳥の餌袋に似ている。胃の下には乳頭のような白いものが二つある。同じようなものはコウイカでも見られるが、〔巻貝の方が〕ずっと硬い。胃のあとには単純で長い食道がきて、底(殻頂)にある「芥子」(肝臓のようなもの)〔貝類の中腸腺が俗に「芥子」とあだ名されていたと思われる〕の所まで達している。以上のことは、ホネガイやホラガイでも、貝殻のらせん状部分の中を見れば明らかだ。
そしてルロワは天啓を受けます。
単なるノスタルジーではない。それは私が理解したということだ。およそありそうにないことだが、アリストテレスが言おうとしたことを、私が理解したということである。彼は明らかに海岸へと下りて行き、巻貝を拾い上げた。そして「この中には何があるのだろう?」と問いかけた。23世紀のちに、私が演習を繰り返したときに発見したのと同じものを、彼もまた目にして発見した。
ここで、巻貝を介して、紀元前4世紀のアリストテレスと21世紀のルロワが接続されました。そして僕は再び「積読山脈」と接続されます。ハレルヤ。
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アルマン・マリー・ルロワ『アリストテレス 生物学の創造』、これ、なにかと似てるとずっと思ってたんだけどやっと思い出して、それは寺田寅彦『ルクレチウスと科学』だった。
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2024/01/02/214117
2016年4月『先見日記』が終わって手持ち無沙汰だった僕は掘るべき「日記」を失って青空文庫をウロウロしていました。そこで寺田寅彦『ルクレチウスと科学』と出会います。
ルクレティウスは紀元前1世紀、ローマの詩人。現存するのただ一つの書籍『物の本質』( "The Nature of Things" )。エピクロスの思想を六歩格詩で綴りました。
原子と真空だけ他に何もない。原子と真空だけ他に何もない。原子と真空だけ他に何もない
https://taizooo.tumblr.com/post/144606271785
15世紀、ルクレティウスの詩の再発見は、ルネサンスの始まりと結びついています。忘却と再生というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れます。
教皇特使で熱狂的な本探し人であったポッジョ・ブラッチョリーニは、ドイツの修道院で放置されかけていたローマの詩人ルクレティウスの『物の本質』の最後の写本を救い出した
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Swerve
「彼の詩の再登場は、まさに方向転換であり、詩とその哲学が進んでいるように思われた、この場合は忘却に向かう直接的な軌道からの予期せぬ逸脱であった。」古代のテキストの復活は、その再生、つまり「ルネサンス」と見なされている。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Swerve
ルネサンス "Renaissance" 、それは "Re" の系譜です。〔つまり "Reblog" に繋がります https://scrapbox.io/hub/Re 〕 "renaissance" の語源はフランス語の "naissance" 、 "naître" に由来します。それは「誕生」「発見」「創造」を意味します。
From renaître + -ance or re- + naissance.
https://en.wiktionary.org/wiki/renaissance#French
ここで、ブラッチョリーニを介して、紀元前1世紀の『物の本質』と15世紀のルネサンスが接続されました。ハレルヤ。
『ルクレチウスと科学』、あらためて読み返してみると、ちょっとビックリする発見がありました。
寺田寅彦がルクレティウス『物の本質』に科学を見出したきっかけは、ダーシー・トンプソンが "Nature" に書いていた書評でした。
ことし(一九二八)になって雑誌ネチュアー(四月十四日発行)の巻頭紹介欄に Munro's Lucretius. Fourth Edition, finally revised. に関するダルシー・タムソン(ダーシー・トンプソン)の紹介文が現われた。
寺田寅彦 ルクレチウスと科学
まったく同じ名前が『アリストテレス 生物学の創造』の冒頭にあります。
最初に一つのミステリーがある。アリストテレスはなぜ生物学をしようと思ったのか。それは人が、どのようにして科学を「生み出す」のかということでもある。その物語はダーシー・トンプソン(一八六〇 ~ 一九四八)によってはじめて語られた。あるいは少なくとも物語に年代的、地理的な骨組みを与えたのは彼だった。
トンプソンは自身のキャリア構築に右往左往する中で1910年、アリストテレス『動物誌』を翻訳しました。「優れたギリシャ語、動物学の専門知識、アリストテレスの生物学に関する完全な知識、そして英語の使いこなし」を総動員して。それは「アリストテレスの生物学の知識に注釈をつけ、説明を施し、批評を加え」るものでした。その注記はときに本文を圧倒するほどのものとなりました
〔その後、トンプソンは『生物のかたち』( "On growth and form" https://openlibrary.org/books/OL6604798M/On_growth_and_form. ) という一風変わった1000ページを超える大著を出版します。ここで生物の形・構造・形態を数学と接続することになります〕
トンプソンの書評が、寺田寅彦にルクレティウスの詩から科学を見出させ、トンプソンの翻訳が、ルロワにアリストテレスの膨大な書物から現代に通じる生物学、科学の核心を見出させました。
ここで、トンプソンを介して、寺田寅彦とアルマン・マリー・ルロワが接続されました。ハレルヤ。
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2024年、『アリストテレス 生物学の創造』から始まったこの流れは、帰納と演繹、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、論理学と真理と真偽、イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』、観念論と光学と "Enlightenment" 、サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて』、朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』、自由と善と正義、ジョン・ロールズ『正義論』、社会契約論と功利主義、そしてミシェル・フーコーとイマニュエル・カントへと、猛烈な濁流となりました。もう手遅れです。
〔「ご愁傷さまです。チーン。」 https://taizooo.tumblr.com/post/60669456 〕
「積読山脈」はその厚み高さだけでなく、積み方や読み方にも大きな変化がありました。Amazon の Wishlist から国立国会図書館サーチへ、Kindle から国立国会図書館デジタルコレクションへ。そしていよいよ本物の図書館へ。
「積読山脈」の繋がりは、平積みの本の山、Cosense の Infobox 、Amaozn の Wishlist 、参考文献や注釈の中、そして図書館の書棚、縦横無尽に張り巡らされて、その全貌を掴むことは出来そうもありません。
管啓次郎は『本は読めないものだから心配するな』の中でこう言います。
本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。
〔速すぎてよく見えないけど、出会った瞬間に別れている。それを繰り返している。からだの輪郭が高速に振動して、中と外が入れ替わっている。 https://shikakun.com/projects/benri/ 〕
本はつねに流れの中にあり、すべての本はこの机に一時滞在するにすぎず、何らかの痕跡を残して、必ず去ってゆく。
〔私たちは知られなくても、忘れられても構わない。ただ来ては帰る人に過ぎない https://taizooo.tumblr.com/post/743455111875084288 〕
ピエール・バイヤールは『読んでいない本について堂々と語る方法』で「本を読まずに本を読め」と言いました。イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』で「いいから黙って本を読め」と言いました。
そして、自分のものと他人のものとを区別することもできなくなって、ついには書物と出会うたびに自分自身の狂気と対面する羽目になるのである
『読んでいない本について堂々と語る方法』読解 - taizooo
カート・ヴォネガットは『スローターハウス5』でこう言いました。
「そういうものだ。」
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2017/01/06/091500
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ルクレティウスは、暗室にさし入る日光の中に舞踊する微塵の混乱状態を例示して、「自然」の根幹が物質元子にあると説明した。
元子によって自然を説明しようとするのに、第一に必要となって来るものは空間である。彼はわれわれの空間を「空虚」(void)と名づけた。
寺田寅彦 ルクレチウスと科学
アリストテレスは、「自然」に切れ目を入れてその相を注視した。そして「自然」を「変化」と「静止」の原理と定義した。「自然」は変化することそのものを意味した。
誰も〔世界という巨大な〕時計仕掛けのクランクを回してなどいないし、誰も小さな機械〔動物〕を正しい方向に導いてはいない —— 自然がそれをしている。
アレクサンダー・フォン・フンボルトは、「自然」を発明した。
ここでいう自然というのは「生命の網」"the Web of Life" のことを言う。 自然は一つ一つバラバラの事象がてんでバラバラに存在いているのではなくて、その全体繋がり広がりに本質がある
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2021/01/18/183431
youpy は、「自然」を創造した( Flickr に)。
そもそもでかいサーヴィスってなんか大自然っぽい
ICC ONLINE | インターネット・リアリティ | 座談会「インターネット・リアリティとは?」
でも最近は自然じゃなくて国家っぽくなってる
ICC ONLINE | インターネット・リアリティ | 座談会「インターネット・リアリティとは?」
いま読んでいる、重田園江『公共性と倫理への問い — カントを読むフーコー』(岩波書店『岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性』)には次のようにあります。
「近代性」という特徴を分け持つすべての思考には「個人を単位として、世界あるいは人間社会を見る」という共通の発想があるのではないか
単位として個人にまで社会を一度ばらし、個人同士の繋がりから政治社会を再構成したトマス・ホッブズ。
誰かと対話するのでも相談するのでもなく、ひたすら内省を続けることによって「考える自分」の確実性へと至ろうとするルネ・デカルト。
個人にまで落とし込まれた先に、人が何かを知ることの限界はどこにあるのか、と考えたイマニュエル・カント。
カントはさらにその先を見据えます。
個人にまでばらされてしまった人間は、なぜどのように他者と関わり、あるいは関わらなければならないのだろうか
バラバラにしてしまったものについて、ではそれをどうやってもう一度くっつけるのかが問われるのは必然だ。人が社会に生き、この世界を生きる以上、他者や世界と相互作用せざるをえない
ここでみたび、僕は天啓を受けます。
ジョン・ロールズが『正義論』で、「公正としての正義」を掲げ「無知のベール」を用いてその「原初状態」に、人と人との繋がりの根本原理を見出そうとしたのは、まさにこのことだったのです。
僕らは世界を理解するために全てをバラバラに分解します。そして同時に断片を束ね繋ぎあわせ世界を一つにしようとします。すべてが断片化されてバラバラになるならば、束ねること繋ぐことに価値が生まれるはず。
〔願わくば、この Reblog だらけの長大な絵巻物語のようなものが、そういうものでありますように〕
その繋がりは Dashbord の底、 RSS Feed の中、 Timeline の隅、Mail Box の奥、向かいのホーム、路地裏の窓、〔こんなところにあるはずもないのに、〕縦横無尽に張り巡らされて、その全貌を掴むことは出来そうもありません。たぶんおそらくそれは "Web" ( "World Wide Web" )と呼ばれます。
われわれの残す全ての URL の繋がりや絡まりが、世界を豊かにしますように。
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2019/12/31/003358
ついにここで、「僕ら」と「世界」が接続されました。ハレルヤ。
この post は 2024 Advent Calendar 2024 第1日目の記事として書かれました。
明日の第2日目は yuiseki サンです。お楽しみに。